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「ハンチバック/著・市川沙央」を読んでみた感想

ごめん、うっかりデビュー作ってこと端っこにおいちゃってたから

実は期待しすぎていた感が否めない。
純文学デビュー作だという点を失念するほどに、ものすごく期待してしまった。恥ずかしい。めっちゃハズイ。

なぜか。それは、テーマが、ほら、ねえ。みたいな、ね。
でもっての、当事者性。これ以上のリアルがあるか?などと考えていたし。
読んだ人がみんなネットにその衝撃についてを書き連ねたりしていて、つい、ものすっごく、期待して、高まりまくった期待をぶつけたから、こんなことになってしまったんだ。

ハンチバックって作品も、著者も、それはわたしが悪いって言ってオーケーなやつです。
だって、結局、総合したら「本当にすごい」が感想だったんだから。


ハンチバックの衝撃とは

衝撃的と言うか、激震?というか、は確かにあった。

自分のままならない身体のせいで、したいことができない。できるけれど、謳歌できない。しかも、することがまた、大変で、もうこれ如何に!?と。

わたし自身、目が見えなくなることや、ページがめくれなくなること、本を持つことができなくなること、つまり読書に制限がかかること。そして、図書館に行けなくなること、書店に行けなくなることを、ものすごく怖いとずっと感じていた。

それは、読書と言う知的欲求すら満たせなくなることができなくなったら、きっと絶望すると考えていたから。
本や文章に救われた人生で、本や文章が一番大切で、それがなかったら、現在のわたしは確実にいない。
生存はしていても、このわたしには絶対になっていない。

そして、この先の人生でも、新しい発見を、見たことのない世界を、文章から得たい。
それができないことを自覚し、さらにできないままにいることを、最も怖いと感じていた。

それを現実に、ものすごく身近に感じて生きているのだから、それは察するなどと言う言葉を使ってはいけないし、理解なんて軽くいってはいけない。

読書という文化に対する健常者の態度に感じる怒りは、最もだと思う。
紙の本が憎いのは、紙制ばかりが優先されて、読めるものが限られるから。そりゃ当然憎いだろう。

でも、わたしとて、紙の本は好きだし、本という存在が好き。
まあ、でも、読みたいひとがみんな文章に触れられることが、一番だと思うし、高くて買えない本とかはすっごい残念だし、絶版とか、その内容を見ることも知ることもできないなんて、もう悲しい。
考えてみたら、価値は内容なんだよな。でも、本がいいってなんだろうな。
そして、これが、読む事ができる特権を持ったニンゲンの思考なんだろう。

ただ、この「ハンチバック」の、主人公の彼女は、本当に、本当に自分のからだに子宮に生命を宿し、中絶すること、それを本気の本気でで望んだのだろうか?
健常者と同等の権利として、いや違う、生きているということの割に合わせるためだけに、生命を軽視するのを、障害者である自分のために押し通そうというところに、違和感を覚えた。疑問として残った。

その問題提起は受け入れがたい

健常の女性であれば、妊娠し出産し、しなくても、妊娠し中絶し、と、誰もができる。
主人公の彼女は、そんな風に妊娠と中絶を繰り返せる健常者を憎いとすら感じ、自分は出産は出来なくとも中絶までならできるから、その計画をする。

いやでも、安易な妊娠中絶ををする健常者は、そんなにいるか? 避妊なしの性交と安全日だしぃっていう危険は冒すかも。でも……いや、まあいるとしても、だ。
安易な妊娠中絶と割に合おうなんて、なんか、もう絶対に認めたくない。
ってか、そんなことで割に合いたくない。
って、考えるのは、性被害者であることとかもたぶん関係して、それによってメッタメタに傷ついたからなんだろう。

良い、という反響が多い、このサクヒン。
意識や認識を改めざるを得ないと言わしめた。

でも、産む気もなく、中絶を前提にした妊娠を、障害者のあがきというか、そんな印象を与える書き方が、嫌いだ、と思った。
炎上案件、主人公はそう思っていたし、わたしはどう頑張っても咀嚼できない。

でも、本当に望んだのか?
それくらいじゃなきゃ、割に合わない!そうかもしれない。それくらいに制限されているのだ、彼女の生活は。その女性は、サクヒン内の主人公は。

彼女は純文学の賞をとってもいないし、何者にもなっていないし。

だからって、生命の軽視と、望まぬ妊娠をさせられたり、中絶を余儀なくした女性たち、中絶後に苦しむ女性をも軽視されたことが、すごく嫌だった。

誰もが誰もを無意識に軽視する

それとも、わたしたちが、同じくらい、彼女の存在を軽視してきたのだろうか。
そうなのだろうか。
わからない。そんなつもりで生きてきていないのだから。
きっと、彼女もそんなつもりで生きては来ていない。

誰もそうで、障害の有無など関係なく、性の差も関係なく、そんなつもりでなくて、そして誰もがだれかの何かを軽視しているのが、現実として在る。
そして彼女の計画は未遂で終わった。
結果、それを企てたという事実だけが残っている。

それだけで、こんなにも、モヤモヤとし続ける。わたしは、彼女の著作を読んだだけの、いち読者で、微妙に障害を持って生きている、ただのひとりの未婚の妊娠経験のない女。

ロジック、文章の書き方としては、正当な権利であるかのようにも感じた。

でも、違う。
障害を負って生きていることが、何もかも許されるわけじゃない。

しかし、問題はそんなことではない。
そんなことすら関係なく、傷つくことすらできないという前提の下で生きている存在、介助なく生きられない者の思いが、そこに凝縮されてはいる。

でも、嫌い。
主人公の彼女が憎しみを込めて言ってくれたから、わたしも彼女に「それはすごく嫌な気分になる!」と言い返せる。
きっとここに対等がある。

もしかしたら、当事者でもないのに何をいうか!という案件ととられ、過剰な人権擁護にぶううううう!って言われるかもなのだけれど。

障害者と健常者のどうにもならない壁、それを、ままならない身体と、本当にままならない事柄を、マトモな思考で味わう、いや、強制させられることの残酷さを、身近に感じた。

怒りをぶつけるところすらなく、かどうかは、ともかく、リアルでは障害者の鏡のような、はたから見たら弱者とわれるに値する身体であり、経済強者という妙な矛盾を抱いて、その身分で淡々と障害者として生きることだけしかできないこと。
寄付をすることに、弱者が無理するな、とは?

モヤモヤが溜まる。どんどん積み上げられる。

好きじゃない。でも、これし方法も無い

でも、とにかくもう、こんなにも衝撃的な言葉でもってでしか、当事者というものは認識されないのか?と。

終始、綴られる、健常者、マチズモへの憎しみ。
憎ませた社会がいけないのか?
本を読むという、自分にとっての多くを占めるその行為を制限する自分の身体と、制限させる社会、本当に憎いのは、なんだろうか。

生きるために壊れていく。
生きるために壊れた人生と嘆くひとさえ、何かしらの選択をした。不幸な現状に留まらざるを得ないことを、選ばされた。ある意味強制的に。

明らかに違う。彼女は選択することなんて、すべてが決定事項としてしか存在しない。選択の余地もない。それも、強制的に、彼女が望まざるを得ない選択肢があるだけで。

もう少し身体が自由であれば、幸福になる選択も、不幸になる選択も、自分でできたはずだ!ということを彼女は言う。

よくある、健常者ならわたしにもきっとできたに違いない、夢だって叶えられたかもなのに!みたいなのとは一線を画す、不幸になるための選択すら、自分にはできないんだ!という。

きっと、彼女が考えるその人生のひとからしたら、軽く言うなと、経験すらしていないくせに!と言いたくなる。きっと、そんなあんたなんかには耐えられもしない!って。

それはそうだ。でも、彼女はこんなのもう耐えられない……と自ら命を絶つときの方法を選べることにすら、憧れるんだろう。生きることに耐えられないトラウマにすら憧れる。
極論、そういうことだ。

もっと別の表現であれば、たぶん、すごく好きな作品になった。
けれど、他の表現なんて選んでいられないほどの、緊迫性を感じさせるに、本当に効果的だった。
当事者性にこだわったことも、全部が、歯車となって回っている。

違和感が社会を動かすのか

でも、しっくりこない。しっくりこないせいで、考え続けなければならなくなるという、巧妙な罠に、わたしはハマってしまった。

それでも、その答えを見つけようと何度も読み返すような作品ではなかった。何度も読みたいという魅力をわたしは感じなかった。

正直、同じ文章を、健常者が書いていたら、ここまで深く考えなかった。

そのひとが、実際に、現実で、そうやって、生きている。
それが、何よりも考えさせる原因で、そして、おかげで社会がもしかしたら、少し変わるかもしれない。

いつだって、誰かが、自分のこととして、あんまりにも残酷な現実を、社会という場で、法に逆らわずに証明させてみて、そのとき社会で議論が起こる。

考えてみて欲しい。著者は、考えて、と言った。多くのひとが、考え、賛否両論の意見を述べ、この残酷さはおかしい!と感じれば、社会は変わらざるを得ないのだから。

著者はどこまでを考えていたのか。
受賞し、さまざまに議論を呼べば、社会に一石を投じ最初の波紋を起こすに成功だ。
この小説が世に出て、さすれば、このひとりの当事者の考えること、思うことが、こんなにも世間に知れ渡たる。
読書という文化の認識に疑問を呈すことも出来た。

それは、拍子抜けするほど薄い本で、ページ数の少なさは、読むことに対するハードルを下げる。
その上、どこか物足りないと感じることでも、読者は考えを巡らせる。

つまらない作品だった、と言われたとしても、当事者の小説があるとその界隈に知らされる。

もしかしたら読書嫌いへの配慮でのページ数で、多くのひとの目に触れることを目的としたのなら、こ

著者はどこまでを計画したか

健常者憎さ、思い通りにならない身体、どんなに嫌でも受け入れざるを得ない身体と、それゆえか、ひねくれた思考と、それらのつぶやき。

生まれ変わったら、高級娼婦になりたい。
彼女にとって、それは自由の象徴なのか、それとも、やはり皮肉なのか。
わたしだったら、たぶん、このひねくれ目線のツイートの存在を知れば何気なく注視し出すだろうな、と思う。

わたしは、何を隠そう、ひねくれものが大好きな変態気質なのだから。

でも、とにかく、主人公について、ぼんやりとしか浮かび上がってこなかったし、本来の主人公の彼女はどんな女性なのか? 彼女の個性というか、そういう部分。ひねくれた思考がすべてなのか、仮面をつけた生活が? エロい記事を書く彼女だけが?

そうだとしたら、正直めちゃくちゃ残念で、でもそう勝手に言ってしまうのは良くないし、けれどフィクションの主人公なのだから、嫌な女!って公に言ったってオーケーなのだ。

当事者性をうたったところで、小説なんかに全部を書いたら勿体ないじゃん!なんて、それもただの知ったかぶり。
見せていない彼女があるはずで、その奥ゆかしさに良さを感じつつ、でもそれしか頭になかったらどうする? どうもせんけど。

でも、この作品を読んで、好きな作品となることもなく、好きな作家にもならなかったし、それでも、この先に彼女が綴る物語は読んでみたい、と思わざるを得ない。
良くも悪くも当事者性の利用と言うかに、上手いことやられた。

ちなみに、物語やらは好きだなくとも、文体は好きだった。

共生社会に対する、あまりにも消極的な理解と認識を広めようとする、メディアより、訴えかけるものが多い。フィクションとしての発表だから、否定も賛同もすべてが自由。

当事者の病状や困難のインタビューの掲載であれば憚られる批判も、違うって!この小説のことだって!ってなればオーケー。
障害を持った弱者を公に批判すれば、差別!差別!差別!と騒ぐ輩がいる。けれど、フィクションでーす。という逃げ道が用意されているから、否定を述べることへのハードルが下がっているはずだ。

障害者を表立って批難できないことにもうなんだかよくわからない閉塞感を持つひとにも訴えかけ、批判もどうぞ?って言ってくださって、議論しよう!と言ってくれた。

その著者の器に、すごいな、と感心する。

もし、わたしの勘繰りでしかなく、これらすべてが間違っているなら、そう思わせた彼女の作品も言動も、天然で、ナチュラルにこうやって思考に導くとしたなら、もっとすごい。

けど、この作品は、わたしは嫌い。主人公の思考も嫌い。
だけど、次回作を絶対読むと思う。著者の世界観は好きになれる要素がある。
嫌いなのに目を離せないのが、悔しいぜ!
でも、デビュー作って、そういうものになれば、大成功だよな。見事でしかない。

もし、次回作、くっだらない、つっまらない、考えたい要素なーし、駄作や!とかになったら、それまでのことなんだ。

それでも売れ続ければ、文学としての否定をされて、当事者性を使った商売だって叩かれたりもするのかもしれなくて。
でも、成り立っているそれを、馬鹿になんてできるものじゃない。

叩くひとの負け惜しみ。そんな人にはこういえばいい。

あなたは、自分の持つすべてをかけて、なにかやりました?
自分の持つすべてをかけて、非難され、否定され、恥をさらしたことはあるかしら?
それとも、彼女の立場になりたいの?

価値のある作品を、生み出した事実が、あった。それが彼女にずっと在り続ける。

多くを語らない、語りすぎない、そのままでいれば、著者である彼女への興味はきっともっと集まる。そのリスクとリターンの差は如何ほどか?
そして、その興味は、せむしの怪物として、だけではない。彼女というひと、人間、女性、個体、その脳内に、わたしは興味がある。

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