音のない雨(3)
私は性犯罪被害者だけれども、
加害者に同じ目に遭って、
この苦しみを味わってみろとは思わない。
誰にもこの苦痛を味わわせたくない。
誰も味わうべきじゃないものだと思うから。
どんな極悪人であってもだ。
死んで償えも違う。
死んでくれても無意味だから。
私は罪人が法律で裁かれることを望んでいる。
けれど、ときに刑が軽すぎると憤る。
その苦しみに見合った償いとは思えないから。
犯した罪に見合った償いなんてものは無い。
そこに折り合いをつけるための法律だ
と思ってるのだが、
どうにもその程度の罰で赦されてしまうのか?
と憤りを隠せなくなる。
それでも、
どんな刑罰を受けて、
どんな償いをしてくれたら、
私への加害者を赦せるだろうかと苦しい。
赦せないし赦さない。
でも、赦せないという苦しみから私は開放されたい。
赦せない限り、私への真の救いはない。
赦して、そして忘れない。
私はそれをしたい。
が、赦せもせず、忘れもしないのが
今の私だ。
赦さなくて良いのだと
誰かが言う。
赦さないでいることが
生きる糧になる人もいる。
それでも、
赦せないでいる苦しみが私にはずっとある。
どんなに重い刑罰でも、
その生命をもって赦しを乞われても、
赦せないことが苦しい。
私の苦しみが、
それ程のものなんだと言われても
何の励ましにもならない。
私への加害を赦さない、
赦せないと憤る人を見ると、
少し苦しさが増したりする。
この人が赦さないなら、
私が先に赦すことはしてはいけないだろうな、と、
赦しが遠のく。
赦す必要は無い。わかってる。
けど赦せないその苦しみも
知ってほしいなんて、
わがままだろうか。
赦せない、赦さないとして、
加害者へ怒りをぶつけられもしない私は、
被害者らしくないのかもしれない。
私は、違和感の正体をずっと探っていた。
赦せない、こいつも✕✕されればいい。
そういったコメントを見る度に、
違和感を覚える。
少なくとも私はそんなこと望まない。
当事者の多様性と言えば良いのか。
私は、
罪人に自身が働いた暴力と
同じをものを受けてほしいとは思わない。
私の苦痛は誰にも味わわせたくない。
私の加害者にすら味わってほしくない。
別にカッコつけているわけじゃない。
苦しすぎるから、
誰にも味わってほしくないだけ。
それを加害者にも適用しただけ。
この苦しみを受けるに
然るべき人なんていて良いはずがない。
加害者であるから、
その苦しみを味わって然るべき
とは思えない。
加害者であるから、
死んで然るべきとは思わない。
被害者なのに、
とんでもなく苦しんでいる
被害者なのに、
加害者に対して、
憎しみも怒りもぶつけられもしない、
私は被害者らしくないですか。
それでも私は確かに、
性被害者の当事者です。
こんな当事者もいて、
赦すなんて以ての外だと言う
そんな被害者はもちろんいるし、
赦せないことに苦しむ被害者も、
中にはいるのだということを。
私は、加害行為を赦せないというより、
この赦せないという思いを植え付けたことが
赦せないのだ。
私は赦せないでいることが、
いつまでも赦せない思いを
抱えていることが本当に苦しい。
加害行為そのものももちろん赦せない。
けれど、
赦せない思いを抱えて生きるしかない
私にされたことが最も赦せない。
加害者にすら、
この苦しみを味わわせたくないと言うと、
とても優しい人だと言われたりする。
違う。
まるで慈悲深いかのように、
言われるけれど違う。
罪を憎んで人を憎まず。
これに近いのだけれども、
赦せないでいたら、私が苦しい。
赦せないままに、前に進めない。
たとえば、
加害者が本心からその行いを悔いて、
心の底からの謝罪を
一生をかけてそれをしてくれたなら、
思う存分、赦しを行えるかもしれない。
けれど、
それはあまりに現実的ではない。
だから私は、
二度と加害者をうまない社会にするために、
生きて死ぬという、生き方をするしかできない。もし、悲しいことに
被害者がうみ出されてしまったとしても、
社会の方から包み込んでくれるように
変えてやる。
家父長制度の温室は
性暴力の苗床。
ぬくぬくと育まれるは
性暴力。
不可逆的に
私を変えた性暴力。
その深刻さを、知りやがれ。
私は
私に加害した者より
この社会が赦せない。
4月29日Twitter(現X)より。
Twitterの不具合なのか、ツリー投稿がツリーにならず、バラバラになっていた上に、抜け落ちもあった。それらを組み直し、加筆修正を加えたもの。
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