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小説|レモンパイ

はじめに

 以前pixivへ載せていたものに加筆修正をした作品をこちらへ再掲します。
 文字数は約6,700字です。
 元の文から5,000字ほど書き足して、ほぼ別物になりました。以前は『失恋をした』という一言で済ませていたところを『好きだった芸能人(歌手)が結婚をしてしまって失恋をする』という方向へともっていきました。
 最後まで読んでくださると嬉しいです。

あらすじ

長年ファンをやっていた歌手の結婚報告を受けて失恋のショックから抜け出せずにいた晴留実(はるみ)は、仕事も残業続き、しかも夏バテをしていた。ある日、偶然見つけた喫茶店で出会った一切れのレモンパイが、不調気味の心と体に変化をもたらす。

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『レモンパイ』

 深夜のオフィスに電話の呼び出し音が響いた。晴留実のデスクにある電話機からではなく、すでに退社した別の社員の席から音は鳴っていた。
 この会社では回線によって電話の呼び出し音を分けている。この音は、別の階にある他部署からの内線電話だ。とうに定時がすぎた遅い時間帯にかかってくる内線だなんて、至急の用事に違いなかった。
 がらんとしたフロアで、唯一残業をしている晴留実がいるところだけ天井の電気が付いている。まるで照明が落とされたステージに、ぱっとスポットライトが照らされているみたいだった。
 晴留実は息をひそめるようにして前のめりになると、再びパソコンの画面に集中した。
 電話の音はしばらく続いた。まるで、そこにだれかいるのは分かっているのだからな、と内線をかけてきている相手に見抜かれているようで、知らず知らずのうちに背筋が強張っていた。
 結局、鳴りやまぬ呼び出し音の圧に耐え切れず、代理応答のボタンを押してから受話器を持ち上げた。電話をかけてきた相手は、電話口に出たのが目的の人物ではないと知るや、声を細くして低姿勢、いかにも申し訳なさそうにした。予想していたとおり、定時で帰っていった担当者に代わって早急に対応して欲しい業務があると言われる。
 晴留実は受話器を置くと、天井を仰いだ。仕事が終わらない人間にさらに仕事を積むだなんてあまりにも理不尽じゃないか。これでは余裕がある者ばかりが得をして、困っている者がどんどん損をすることになる。
 期日が迫った会計資料の数字が合わず残業をしていた。決められた手順で電卓を叩いて計算をするだけの、いつもなら難なくこなせる慣れた業務だった。だが、このときばかりは何度やっても数字が合わなかった。
 緊急のトラブルに見舞われた方が、まだ仕方がないと割り切れるものの、ここ最近の晴留実は頭の中が冴えなかった。自分に対する言い訳だと分かり切っていてもなお、あのことが原因なのだと思い込むことでしか、心を保つすべがない。

 先日、晴留実は失恋をした。失恋をしてから恋をしていたことに気が付くのだから、我ながら愚かだと思った。
 贔屓にしているとある男性シンガーソングライターが、公式SNSで結婚したことをファンに向けて報告をした。
 晴留実がそのシンガーソングライターと出会ったのは十数年ほど前に遡る。まだ歌手として売れていない時期に、駅前の路上でライブをしていたのを見かけた。それ以来、同じ場所で歌っているのを見つけると足を止めるようになり、やがて通うようになった。その日の演奏が終わった彼に声をかけて、握手をしてもらったり、曲の感想を伝えたり、ときには差し入れもした。そうしていうちに顔と名前も覚えてもらった。今となって思えば、あくまでファンの一人として接しているうちに、親近感が湧いたのは否めない。
 時が経ち、そのシンガーソングライターはとある音楽レーベルからプロデビューをすると、年々ファンの数を増やしていった。その頃には数万人を収容できる大きな会場でコンサートができるほどになった。
 大勢のファンで埋めつくされた客席と、たった一人のシンガーソングライターが立つステージを、晴留実はスタンド席のはるか後方から眺めていた。
 遠い。あまりにも遠い。
 演奏が始まり、波のような歓声が客席からわきおこる。ステージに近い人たちが音楽に身を揺すって、何かを求めるように腕を持ち上げる姿と、その視線を一身に受けて堂々と歌う彼に、随分と遠い存在になってしまったと感じた。たとえ晴留実がこの場所からどんなに大きな声で叫んだとしても、彼の耳には届くことはない。会場に響きわたる音楽と歓声に、かき消されてしまうのだろう。
 そんなふうに、自身の気持ちの変化に感傷的になっていた矢先の結婚発表は、とどめを刺されたかのような心地がした。晴留実は図々しくも、彼のことを歌手として以前に、恋愛対象の一人として憧れを持っていたのだと、そんな浮ついた気持ちがあった自分にもショックを受けていた。
 
 終電を逃した晴留実は、タクシーで帰宅することにした。仕事は残っていたし、数時間後には始発の電車が動いたが、一刻も早く会社という場所から抜け出したかった。熱帯夜の空気は暑さと湿気を帯びて、外へ出ればまるで温水プールの底でも歩いているみたいに重たかった。
 一人暮らしをしているアパートの近くを運転手に告げて、タクシーの後部座席で眠りそうになっていると、救急車のサイレンが遠くから聞こえてきた。音がだんだんと近づいてくる。前方を走っている車が速度を落としていき、晴留実が乗っているタクシーも同じように速度を落とすと、路肩に寄って停車した。赤色灯がちかちかと車内を照らして、救急車が横を通り過ぎていく。
 再びタクシーが動きだす。
 「こんな夜更けに熱中症ですかね」と、運転手が話しかけてきた。「最近そういう人が多いから、救急車を見かけると、ついそう思っちゃうんですよ」
 確かに、この年の夏は記録的な猛暑で、毎日のように例年の最高気温を更新している。朝起きてテレビのニュース番組をつければ、熱中症で救急搬送される人の数に驚かされるし、同時に今日も暑いのだろうかとげんなりする。
 「わたしもそのうち、熱中症で救急車に乗ることになるかも」
 晴留実は苦笑いを浮かべる。冗談だと受け取った運転手も小さく笑った。
 「こんな遅い時間までお仕事ですか? お疲れのようですね」 
 「不謹慎ながら、病院のベッドでゆっくり寝ていたい」
 運転手も今度は声を立てて笑うと、病院は温度管理もされているし、ベッドも清潔で快適でしょうね、などと不謹慎極まりない言葉で返してくる。
 「いやもう冗談ではなく、暑さで食欲もなくなって、夜もあまり寝付けないし」
 言いながらも、病院で診てもらうほどではないにしても、晴留実の調子が悪いのは本当のことだった。
 「お客さんの気分が優れるようなお店、教えてあげましょうか。これから行く場所の近くに、良いお店がありますよ」
 急に良いお店を紹介すると言われても、一体何をやってる店なのだろうか。運転手は続けた。
 「店主が変わってリューアルオープンしたばかりの喫茶店なんですけど、なんというか落ち着きのある、隠れ家的なお店で。若い人は好きでしょう、そういうの」
 「はあ」
 あまり気乗りはしない。休日の昼間も外は暑いし、食欲も出ないし、休みの日くらいは家から出たくない。
 喫茶店の場所を運転手は説明するが、晴留実は疲労がピークに達してきてほとんど聞き流す。
 ――素晴らしい場所。そういう意味らしいですよ。
 何のことをいっているのか、もうすっかり聞いてはいなかったが、もしかしたら、心のどこかにはその言葉が残っていたのかもしれない。

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 仕事が休みの日、近所のスーパーで買い物をしてきた。晴留実が肩にかけている買い物袋には、素麺と麺つゆ、薬味のネギと生姜、それからゼリーが入っていた。本格的に暑くなってからは、冷たくてすすれるものしか喉を通らなくなっていた。
 ふりそそぐ太陽光が、日傘を貫通して肌を焼いてくるようだ。全身から吹きだす汗にまみれながら、サンダルの底を擦るようにして歩いていた。
 あまりの暑さに、細い路地がつくる日陰に逃げ込んだ。一息ついたところで、もしかしたら、この日陰をたどっていけばアパートまでの近道になるのではないかな、などという浅い考えが頭をよぎった。
 やわらかい砂の上を歩いているみたいに足元がおぼつかない。はっとして見ると、変哲もないアスファルトの地面が広がっているだけで、いよいよまずいかもしれない。
 そのとき、路地の奥まったところに明かりのついてない電飾看板が出ているのが見えた。大きく『珈琲』の文字。近づいてみるとクラシカルで洋風な外観をした店の入り口に、メニュースタンドが置いてあった。開いてあるページに、サンドイッチやナポリタンの写真が並んでいる。木枠の窓から店内を覗いてみると、カウンターの奥に店員らしき人影がある。
 『営業中』と書かれた木製のプレートが下げられている店のドアを開いた。ドアベルが軽やかな音を立てる。
 冷やされた室内の空気が、それから、ほのかなコーヒーの香りも、暑さから晴留実を引き上げてくれるようだった。立ちくらみがしたかと思えば、まぼろしのように、ここではない別の場所で見た光景が広がってきた。

 夜になった駅前広場の大屋根の下を、家路を目指す人々が行き交っていた。季節は夏で、日中よりも過ごしやすいとはいえ暑かった。人の流れからはぐれるようにして晴留実は足を止めた。
 男の人がアコースティックギターを弾きながら、聴いたことのない曲を歌っていた。
 その無名のシンガーソングライターは、垢抜けようとあがく近所のお兄さん地味ていて、はっきり言ってしまえばダサかった。肩まで伸ばした黒髪も、よれた英語のプリントTシャツも、それだけを見たら足を止めなかっただろう。
 雑音をかき分けて耳にすべり込んできた歌声が、突如として晴留実の心につむじ風をおこしていた。
 当時の晴留実は、誰にも理解されない、という10代後半のモラトリアムには起こりがち悩みをもれなく抱えていて、鬱々とした毎日を送っていた。それらをすべて吹き飛ばして、ただ現実からひととき離れられる時間を得たというものだったが、熱中できるものがあるというのは、それだけで人生の救いだった。
 やがて無名から有名になったシンガーソングライターの姿はどんどん遠くにいってしまった。それでも晴留実にとっては、すぐ目の前で歌ってくれていたときと変わらず、いつも一対一だった。目をつむってイヤホンから聴こえてくる彼の歌声があれば、どこにいても素晴らしい場所になった。

 「お好きな席へどうぞ」
 かけられた声に聴き入っていると、しばらくしてから「では、こちらの席へご案内します」と促された。
 今しがたの白昼夢から晴留実は我に返った。ぼうっと突っ立ていた晴留実の様子を気にしてなのか、すぐ横の席を店員に示されている。
 座ったテーブル席に運ばれてきたおしぼりで手を拭いてからグラスに注がれた水を飲み干すと、いくらか気分が落ち着いた。
 冷たい飲み物やアイスクリームならば食べられるかもしれない、と晴留実は置いてあったメニューに手を伸ばした。
 開いたメニューの中に『レモン』という単語を見つけると、なぜか食欲もないはずなのに口の中で唾液がわいた。思考とは裏腹に、アイスコーヒーと夏季限定のレモンパイを注文していた。
 年季の入った昔ながらの喫茶店の様相でありながら、店員の男の人は若く見えた。もしかしたらアルバイトなのかもしれない。
 (これは……いまの私の胃には、重たいかもしれない)
 運ばれてきた1ピースのレモンパイが、晴留実には想定していたよりも大きく見え、内心で戸惑いの声を上げていた。
 まるで夏空に浮かぶ雲をすくいとったかのようにたっぷりと盛られたメレンゲには、表面に薄い焼き色がついている。
 (いただきます)
 まずはアイスコーヒーにミルクとガムシロップを入れてストローでかき混ぜた。氷がグラスにあたって涼しげな音を立てる。一口ふくむとキリッとした苦味が喉の奥へと流れていった。
 レモンパイにフォークの峰を押し当てるとメレンゲの焼き色の膜が割れた。そのまま黄色がかったレモンガードの層まで下ろしていき、わずかに力をくわえてパイ生地を割り切った。フォークが皿に打ち当たり、カチッと音が鳴った。
 口に入れるとしゅわしゅわとメレンゲが溶けて、舌の上に甘さが広がった。メレンゲに包み込まれていたレモンガードの酸っぱさが、眠っていた晴留実の味覚をやさしく揺さぶる。口を開けて食べ物を頬張るというのが、こんなにも幸せなことだというのをすっかりと忘れてしまっていた。
 レモンパイは、あっという間に晴留実の胃袋へと収まった。
 水滴をまとったグラスに差してあるストローをくわえて、中のアイスコーヒーが減ってゆくのを惜しむように見つめながらも、晴留実はレモンパイの味を思い出していた。
 この日から、毎日のように喫茶店へ通うようになった。

 結婚を公表してからたった3ヶ月で、そのシンガーソングライターは離婚を発表した。スマートフォンの画面に映るネットニュースの見出しから目が離せずに、なんどもシンガーソングライターの名前と「離婚」という文字をなぞっていると、晴留実のところに喫茶店のマスターが近づいてきた。
 「お待たせしました。秋期限定の和栗のモンブランとブレンドコーヒーです」
 皿とカップが並べられていくその手つきをぼんやりと目で追っていた。マスターの長い指が、あのシンガーソングライターがアコースティックギターを弾く姿と重なる。しなやかに弦をつまびく左手薬指に、シルバーの指輪があるのを見つけて胸が詰まったことを、遠くの出来事をのように思い出す。
 「ごゆっくり」と言って、マスターがカウンターの奥へと戻っていった。
 晴留実が大好きだったレモンパイは、夏と共に終わってしまった。10月になったこの日から、喫茶店の一部のメニューが変更になったのだ。
 茶色の栗のペーストが細い線で絞られていて、一粒の和栗を誇らしげにかかげていた。スプーンでしゃくって一口食べると、ねっとりとした濃厚な渋皮入りの栗ペースト中には、たっぷりの生クリームと、その下には香ばしい焼きメレンゲが隠れていた。
 (あ、この店のモンブランは、土台に焼いたメレンゲを使っているのか)
 過ぎ去った夏の味を残しながらも、焼きメレンゲはサクサクとした食感で、舌の上でほろほろと溶けた。
 
 晴留実はスマートフォンを操作してネットニュースのつづきを読んだ。その記事によると、シンガーソングライターの彼が、若い女性アイドルと浮気をしたことが離婚の引き金となったようだ。
 元結婚相手の女性が、テレビに出るような芸能人ではなく一般人であるという情報を得たときも、晴留実は複雑な心境になったものだ。一般人ということは、もしかしたら彼はファンと結婚をしだ可能性もあるし、同じファンというくくりならばわたしだって恋人の候補に含まれているではないか。
 それが、こんどは若いアイドルと不倫をした。さらに記事には、過去にシンガーソングライターが数多の女性と関係を持っていたことも書かれていた。
 「せめて、隠し通してほしかったなあ」
 独りごちて、スマートフォンの画面を落とした。黒くなった画面に、化粧をしてない晴留実の素顔が映る。
 せめて、夢を見させてほしかった。やましいところはあるにせよ、そういった一面は世間にバレないようにしてほしかった、というのが晴留実の本音だった。ステージで歌う彼だけを見て、清廉潔白な浮世離れをした存在として崇めていたかったのだ。
 伝票の紙を持ってレジへと向かいながら、趣味とはいえ、好きなものを追いかけつづけるのにも気力と体力がいるものだよな、と晴留実はつくづく思うのだった。もう、うっかり恋なんてしないぞ、そう心にかたく誓う。
 晴留実は会社を休んで、平日に喫茶店を訪れていた。会社としても世間的にみて過重労働を強いるのはよろしくないと判断したのか、夏のあいだに比べれば有給休暇が取れるくらいには業務の負担は減っていた。
 この喫茶店へ来るのは、この日で最後にすると決めていた。和栗のモンブランも美味しかったけれど、レモンパイほどの衝撃はなかった。
 「あの、お客様」
 財布から現金を取り出そうとしていると、マスターが言ってきた。
 「今月からコーヒーチケットを販売しているのですが、宜しければお買いになりませんか? 1枚分無料になるので、お得ですよ。今回のお支払いにも使えますし」
 みるみるうちに、晴留実の頬が赤くなった。

 コーヒーチケットを大切に財布にしまって、喫茶店を後にした。季節はめぐり、涼しくなった空気に、人も植物も、街はすっかり秋の装いだった。あれだけ苦しかった酷暑の夏を、どうにか乗りきったのだ。
 『まほろば珈琲店』
 スマートフォンを取り出して、喫茶店の店名になっている『まほろば』の意味を調べたところで、あっと晴留実は小さく声をもらした。
 ずっと前に、深夜に乗ったタクシーで運転手が教えてくれた場所は、この喫茶店だったのか。
 ミシン目のついたコーヒーチケットの残りの枚数ぶんだけ、店主と客としての関係がつづくことを約束されている。些細な偶然がかさなって今ここまで来られたけれど、これから先、機会は一枚一枚と切り離されてはなくなっていくのだ。
 (この恋こそは、期間限定になんかさせたくない)
 思った次の瞬間、晴留実は勢いよく首を振った。
 (いやいや、わたしったら! なにを考えているんだ)
 紅葉した落ち葉と同じ色をした頬を、手でパタパタとあおぎながら、心は決まっているのに、冷めろ、覚めろ、と晴留実は必死になって念じた。

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