見出し画像

思い出が津波みたいに押し寄せて、他愛ない日の死にそうな夜。

暇なときの暇つぶしというよりは、冬の乾燥した空気のせいでバサバサに、枯れてしまいそうになってる感情を補充するためによく、アニメやら映画やらを見たりしている。心ってやつは一度干からびてしまうと、ますます何も感じなくなっていくもので、うちの猫がウンチをしてる姿にいちいち、かわええのぉ〜、なんて思って日々のなかで、自然と心がうるおう為にも、こういう時間は欠かせない。

ある日、いつものようにAmazonで「おすすめ」的なやつを眺めていたら、懐かしいアニメを発見して、街で学生時代の旧友をみかけて思わず声をかけちゃった、みたいなノリで、気づけば▶︎ボタンを押していた。池袋を舞台にしたそれを見ていた当時、わたしは池袋に住んでいて、サンシャイン通りにはその看板やら旗やらポスターやらがたくさんあって、普段みているアニメと普段わたしがいる場所とがこうして重なっていることに、なんだか不安にも似た不思議な気持ちになっていた。

社会的に名乗れるようなものは何ひとつ持っていなくて、だけど、社会的に名乗れるものに縛られていたときよりは、はるかに「生きている」と言えるような気がしていて、底辺だと後ろ指を刺されてしまいそうな日々は生々しく、人間の体温と心の冷たさが、妙に心地よかったことを覚えている。生まれ育った場所、という意味なら興味はないが、自分がたしかに生きていた場所、という意味ならば、池袋はわたしのふるさとのひとつである。

大通りをそれた迷路みたいな裏路地に、まるで自分の人生を重ねるように歩いて帰ってた当時のマンション。コンクリート打ちっ放しで、きれいだけど冷たいその建物は、着飾ることしか方法を知らないわたしたちには心地よかった。わたしの家具と、当時の恋人が持ち込んだ家具のバランスは最悪で、それがまるで、家に居座ることを許してくれないみたいに、ずっと決まらないままだったわたしの定位置。

趣味じゃないカーテン。好みじゃないお菓子。自分じゃ絶対買わない赤い高級そうなコーヒーメーカー。なにひとつ好きになることのないまま、その生活はあっけなく終わった。そういう、ただ過ぎ去ってゆくものであるはずだった。なのに、ふいに、思い出す。メガネをかけた恋人の、わたしには願えなかった将来ってやつを語る横顔。これからもきっと思い出す。コンクリートジャングルなんて呼ばれている場所で、たしかに咲いていた花もあったのだということを。

思い出がどばどば溢れてきて、止まらない。眩しさが肌にくいこむようで、痛い。過ぎ去ったものにはもう、憧れることも許されず、ただ溺れていく。あの人の語る将来にいたわたしはわたしではなくて、美しくデフォルメされたものに現実が追いつけない。

もしあのころからやり直せるのだとしたら、その先のわたしは今どこで、いったい何をしているんだろう。空で世界がつながるように、消えゆくタバコの煙の先がもし、別の世界とつながってくれているのなら、一服するたび、あのころ願えなかったものを、託してみたい。

わたしではない誰かが、あの人の語った将来にいるのかもしれない。そこでほんの些細な不幸とすこしの寂しさを味わってくれていたならば、わたしは嬉しい。あなたが語ったもののなかに、わたしはいられなかった。だけど、あなたが語らなかったところになら、わたしはずっと、いられるような気がする。



こわいけど、新しいことに踏み出すのって、いいよね。