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そっけない返事に託す大切なこと、言葉のキャパを言い訳にして。

お正月気分のピークはとうに過ぎてしまったけれども、それでもまだまだお正月気分が抜けきれないころに、病んでた友だちから「あけましておめでとう」のスタンプが届いて、わたしはめでたい返事をすっ飛ばして、それよりお前はどうやねん、という思いから、そっちは大丈夫?などと、なんとも味気のない返事をしたためたのである。

お正月の挨拶というよりは、お互いに2〜3日放置しては返事をする、そんなラリーの続きのようなものであった。普段はなんとも淡白で、句読点さえないような彼女の文章。「復活させた!このほうが自分らしい!」みたいな内容を浮かれた絵文字まみれで長ったるく書き連ねた文面は、なんだか無理をしているようにみえた。

元気になったと自己申告しているのだから、野暮なことは言うまい、わたしの身勝手な心配から他人の気持ちをわざわざ害するなどというのは、わたしの信条に反するではないか。とは思うものの、彼女の曇った表情ばかりが思い浮かんで、なんともいえないモヤモヤした感情は、まったく良い感じの言葉にはなってくれず、わたしは、そっか、と、さらに味気のない返事をうえから塗り重ねることしかできなかった。

背が小さくて子供みたいな体型してて、黒髪のショートカットに褐色の肌はちびくろサンボのようであったが、それをあだ名にはしなかった。そう呼んだとしても差し支えのないような明るいキャラクターではあったのだけれど、その調子で「わたし、ずっと引きこもってたんですよね」なんて笑う人間の心の庭は、いくら招いてくれているからといって、ズケズケと踏みこんでしまっては、いとも簡単に荒れてしまうと思ったから。

なんてことを思いながら、彼女も含めた数人で飲みにいったりしているうちに、ちょっとした違和感みたいなものを感じるようになった。それはどういったものかと言いますと、彼女が恋人に「一緒にいて寂しいって言われるんです」なんて愚痴っているときの、ありきたりなエピソードのすべてが明るい棒読みで語られて、そこに彼女の感情がないように見えた、ということである。

恋人と喧嘩をしたときの対応はまるでマニュアルのようで、確かに間違ったことは言っていないのだけれど、そこに相手の気持ちを汲み取った痕跡はなく、真正面から正論で叩き潰されてきた恋人の感情が「寂しさ」として、言葉になってあらわれてきたのだろうな、と、ひどく納得してしまった。

デリケート過ぎる心のために病んでしまって、そこから立ち直るために、型にぎゅっと押し込めるようにして自分の気持ちを無視しているあいだに、相手の気持ちさえも無視するようになってしまったのかもしれない。繊細では辛すぎる都会での生活で、感度を低く低く設定し直さないとやってらんない感じは、よくわかる。

笑ったときのへしゃげた目元。風になびかない硬くて多い髪。流行りのファッションは絶妙に似合っていなくて、お気に入りの帽子はとびきりダサかった。特徴はたくさんあったはずなのに、たくさん話したはずなのに、それでも彼女の印象がうすいのは、たぶん、なにを思い、どう感じたのか、そこに触れることがないままだったから。

元気な状態こそが正しいと信じこんで、そのために心を強制して強引に復活させるから、歪んだところに亀裂が生じて、そこから溢れだす繊細な揺らぎの勢いに巻き込まれてまた病む。自分らしくない。そう言って切り捨てる、そこも大切なあなたの一部なのだと、気づいてほしいと思いながらも、それを伝える言葉を紡げずに、「言葉だけじゃ伝わらない」ってセリフをわたしはきっと、ずっと言い訳に使っている。



こわいけど、新しいことに踏み出すのって、いいよね。