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なりゆきで世話焼くことになる人の、愚痴さえ甘きこれが母性か。

近所にスーパーがあると便利なもので、ちょっとした時にちょっとしたものを買いに行けるというのはもちろんのこと、多少のご近所づきあいがあればこその便利さというものがあって、それは、会うための努力をなにひとつしなくても、ほどほどの交流を楽しめる、というものである。

ラクな服装が好きだ。「好き」と言っていいのかわからないけれど「好き」と言えそうなものがとくにない。会う約束をすると当日のその瞬間まで、ずっと心がせかせかする。相手の予定を気にして、いい感じの場所を決めて、小綺麗なかっこして。準備がめんどくさくなってしまうのは、たぶん、そこまでして開いたい人がいないから。

小さいころは人見知りだった。けど、これじゃダメなんだと思って克服した。弱さを弱いままにしておく強さを持っていなかったから。嘘で距離を詰めるのが上手くなって、偽り過ぎて距離を保つのが下手くそになった。うわべの関係を演じることにも飽きたころ、弱さを克服したものはどうしようもない欠点となってあらわれて、わたしはついに逃げ出してしまう。


ある日、家族はいるけどいろいろあって、今はひとりで暮らしている近所のおばちゃんに会った。レジに並んでいるわたしの後ろに「元気?」と言いながら並んできて、わたしは自分の会計を済ませたあと、その人の会計が終わるのを話しながら待っていた。

適当にささっと焼けばいいだけのお肉と、ちょっとした贅沢にデザートやお菓子。買うものはそんなに変わらないけれど、前に住んでたところでは、どこで何をしててもまるでテレビの画面をみているようだった。わたしがそこに居ようが居まいが関係なく世界は回っていたのだから。

ひとりの方が心地良いと思っていた。だから、ひとりになってみた。けど、あとから気づいた。ひとりじゃ孤独にはなれないということに。透明人間のようだったときは、たんなる孤立だった。「ひとり」のままで関われる、そんなご近所さんという距離感。安心して孤独になれる関係があるというだけでなんだか、お腹の底のほうがホッとする。

店の外に一緒にでて、そこでしばらく立ち話。このあとこの二人の物語りはなにも始まらない。お互いに、用事があるからスーパーに来たのであり、それを放ったらかすほどの魅力的な提案など急にあるはずもない。ただ「子猫が四匹捨てられていたから、仕方なく引き取って世話をしている」って話を聞いている。

目もあいていない、餌もまだ食べられずミルクを飲まさなきゃいけない、そんな小さな命のサイズをあらわすように、水をすくうみたいにした手は逞しく、とても大きなものに感じられた。ひとりで生きてた人間とみんなで死にかけていた猫との家族がはじまることを告げる、冷たい風とあったかい光の一月の夕暮れ。

この人はいつもこうだ。自分のことは後回しにして世話を焼く。そうやって「お一人様」を整えてくれる。それはきっと、猫にはちょうど良い。わたしはこの人に、なんとなく自然に笑うことができている気がする。たぶん、わたしの弱さを弱いままにしておいてくれるからだと思う。仰向けに、腹を見せるようにして弱さを撫でられ、密かに服従するのも悪くない。



こわいけど、新しいことに踏み出すのって、いいよね。