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並んで座ることをスズメに例える、生き様にみる詩う人。

新年といえばおせち料理を食しながら、腹が破裂するまで宴をするというのが常識ではあるが、賑やかさにうかれて食料の買いだめをすっかり忘れていたわたしは新年早々、食べるものがなくてひもじい思いをしていた。なんでもかんでも自業自得ということにして飲みこんでしまう癖があるために、自責の念に苛まれながら罪悪感という、字面からして刺々しいものに四肢五体が貫かれ生暖かい血の海に溺れていた。

と、悠長にそんなことも言ってられない。腹を空かせていては戦はできぬのだ。というか、そもそもわたしにとっての戦とは何なのか、わたしはこの先いったい何と戦ってゆけばいいのだろうか。わかりやすい絶対悪というものがあるのだとすれば、それは見る方向を変えれば絶対的な正義とも言えるのではないだろうか、争いとは、平和とは、なんてことを考えながら、買い出しのために自転車で坂道をくだった。

坂のおわりが近づいてくると、おばあちゃんたちの楽しそうな笑い声が聞こえてきて、椅子を外に並べて数人で、日向ぼっこをしている姿が見えた。日本の美徳のひとつに挨拶というものがある。挨拶をしないからといってそれはなんら罪とはならないが、新年くらいは美しく徳をつんでみたい、などと除夜の鐘では払いきれなかった美徳とは正反対の煩悩にまみれながら「あけましておめでとうございます」と言ったあとに間髪いれず「きれいに並んでますね」と声をかけたら「スズメみたいでしょ?」と笑いが返ってきた。

昨日と何も変わらない外の景色。年が明けたことなんて知らないみたいに、木々は風にゆれている。変わりつづけるこの世界で目を閉じているように、わたしの世界は変わらないまま。太陽の光は新しい年を告げるみたいに燦々と輝いているくせに、日陰の地面は去年の雨にずっと濡れたままになっている。

みんなでスケートボードにまたがって坂道のうえでスタンバイしていたころを思い出すようにして、自転車にまたがりくだる坂道。当時のわたしたちにとって、まるで黒い壁のようにそそり立った坂道は冒険がはじまる場所だった。刃物で切り裂かれるような冷たい空気に顔をしかめているわたしの中の、小さなわたしは今もずっと笑ってる。

電線に並んでとまるスズメのように、並んで座るおばあちゃんたち。みんな違った色のベストを着ていて、遠目にみると花畑。窓の外にはチューリップ。風に膨らむ巨大なカーテン。鈍く光る黒板にはチョークの跡。木の机には前に使っていた人がハサミで彫った、もう読めなくなっている謎の落書き。みんながみんな、違っていて一緒だった小学生のころ。

個性ばかりを急かされて、同じ服着て行列をつくる。今日も誰かが迷いこむ、看板だらけのビルの群れ。戻ることは許されない平日。戻り方なんて忘れた休日。戸惑いさえも見失って、見つめる足元だけがたしかな日常。

個性に馴染んで失って、扉をくぐって飲みこまれる。世界と繋がる箱の前で、悪い夢にうなされる。自分を消していく午前。自分を偽ることに慣れた午後。触れ方さえもわからなくなって、目を逸らすことしかできない日々。

別々のビルでみな、同じものを追いかける。見上げた空が瞼になって、夕焼けの色は生きている証。いつもどおりの昨日。どこにでもある明日。同じになってバラバラになって、ひとつの夜景をつくる毎日を、いつか笑って詩えるように。



こわいけど、新しいことに踏み出すのって、いいよね。