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変わりつづける喜怒哀楽の、ぜんぶが揃っていつもの日常。

「家族」というものに多少なりとも敏感になってしまうのは、わたしが十代のころに、我が実家が崩壊をむかえたからである。映画やドラマやCMでみかけるような、温かなものが家族というならば、常に怒号が聞こえ、それ以外の会話などなかったあの冷ややかなあれは、いったい何と呼べばいいのかよくわからなかった。

ってなことで、どうしようもなく家族というものには苦手意識があるのだけれど、ただでさえ社会のすみっこで孤独に暮らしているわたしが、さらに家族コンプレックスなんて抱えていたら、わたしが愛する「ひとり」の名誉が、たんなる「逃げ」として損なわれてしまうのではないかヒヤヒヤして、そういう生き方は、なんだかなぁ、と思うのである。

というような意識の変化を、数年単位でじっくりコトコトむかえた今、わたしは長年避けまくっていた「家族」というものと、関わる機会があれば関わるようにしていて、いきなり自分の過去と向き合うのは荷が重いっていうかなんというか、なので、この日は知人家族の、母・長女・長男・次男の賑やか四点セットと会っていた。

みなが自由に時間をすごしていて、その自由とはどういうことかというと、長女は絵本を舐めるように読みながら「えぇー!うそー!」などと、きっと何度も読んで知っているはずのストーリーになんとも良いリアクションをとっており、母親は寝転びながらテレビを見るようなかっこうで、次男にこれまた絵本を読み聞かせており、したらば次男の「ちくわっ何?」という質問に「ねりものだよ!」と、幼子には余計にわかりにくいような答えを返すのである。

そこに、とくにやることもなく暇を持て余していた長男がやってきて、寒い日の猫みたく、すーっと様子を伺うように忍びより、そぉーっと身体の一部をくっつけて、スリスリする勢いでそのままベストポジションに居座っちゃうという暴挙にでた。母親の視界は長男のぷりっとした尻によってふさがれて、絵本を読んでもらえなくなった次男は駄々をこねて泣き出して、さっきまで静かだった海のお天気は一変して荒れ狂う大波に豪雨。母親の海底火山は盛大に噴火した。

長男はすぐさま神の怒りを鎮めるために、祈祷の準備にはいった。具体的には部屋のすみっこで、涙目になりながら歯をくいしばり、肩をふるわせていた。わたしはというと、ただ長生きしただけで長老って呼ばれちゃってる人みたいに、ただ黙って行く末を見守ることしかできなかった。

しばらくすると長男の祈祷の準備がおわったらしく、つまりは機嫌がなおったらしく、ウホホイ、ウッホホーイ!急に神に捧げる舞を踊りはじめていた。そのなんとも言えない感じが妙におかしく、鬼の形相だった母親の、全てのわだかまりを吹き飛ばすような大爆笑で、この日は幕を閉じた。

解散してからひとりになって、ふと空を見上げると雨が降りだしそうで、そんな他愛もないことを伝える相手がいることを、ありふれたことをなんら過不足なく味わえることを、家族と呼ぶのかもしれないと、寒さにふるえる手で上着のジッパーを首元まで上げるようにして一月であることを思い出すように、しみじみと感じた。

「もしあんな環境で育っていたなら」なんて、叶わぬものを願ってみずにはいられなかった。だからといって、長年積み重ねてきてしまった価値観が、180度好転してくれるわけではない。家族と聞いて思い出すのはやっぱり我が実家のことで、その家族とは呼びたくない何かであることは変わらない。だけど、もしかしたら、そんなことはどうでもいい、のかもしれない。

復讐心みたいなものを、ひとりであることの支えにして生きてきて、そうやって身体を支えていた骨が、価値観が揺さぶられ砕けてしまいそうになって、ふらふらになっているのがいまのわたしだ。わたしはわたし。なんら恥じることはない。これが家族なら、あれも家族だ。悪いもんじゃない、そう思えるようになっただけで、ずいぶんと、軽くなった気がする。



こわいけど、新しいことに踏み出すのって、いいよね。