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宗教と現世利益をめぐる2つの考え方 ~日本の仏教と、ユダヤ教

前回に続き、宗教の話。
私は「宗教は現世利益に始まって、天国を目指す」傾向があると思っていました。なぜ過去形なのかは後ほど。

・結果が問われてしまう現世利益

宗教の始まりは、多くが「何かをしてくれる神様」です。
この神様を信じると、良い結果がもらえる。貢物を捧げれば、大きな恵みを与えてくれるというところから信仰が始まります。

ところが、現世利益というのは結果がテストされます。
雨乞いをしたのに雨が降らない。貢物を捧げてきたのに、不作。そうなると「この神様は力がないんじゃないか?」ということで、神様の信頼が落ちてしまいます。

しかし死後の世界なら結果を問われません。信者が天国・極楽へ行ったかどうか検証する方法がないからです。
天国極楽の話をしているかぎり信頼が落ちないので、だんだんそちらが主になってゆく、という流れ。

・現世利益から極楽往生になった日本の仏教

これを考えたとき、頭においていたのは日本の仏教です。
仏教伝来は538年と言われていますが、このとき求められていたのは現世利益。疫病退散から国家鎮護まで、さまざまな効果が期待されていました。
その後、時代が下るにつれて祈祷としての信頼は下がってきて(消えたわけではない)、極楽往生を主眼とした浄土宗、浄土真宗が力をつけていくようになりました。
それで、書き出しにあったように考えていたわけです。

・もう一つの思考方法 ユダヤ教

しかし、それが当てはまらない宗教もあります。
その一つがユダヤ教。教えてくれたのは、NHKの「100分で名著」の旧約聖書の回でした。

ユダヤ教は、唯一神ヤハウェを信じ契約した者を救い、約束の地を与えるという教えです。しかし実際にはユダヤ人は何十年も約束の土地を与えられずに彷徨い続けます。気の短い人ならとうに見捨てているところ。

ユダヤ人は、神を捨てません(神を捨てるとひどい目に合うという教えなので、捨てられなかったのかも)。
逆に「我々の方が悪いから、神が救わないのだ」という論理を作りました。原罪の概念ですね。数々の掟を作り、神の意に沿う生活を心がけます。

それでも神は、ユダヤ人に約束の地を与えません。
そこでユダヤ人が考えたのが、
「神はあまりにも偉大でその思惑は、人の図り知れるものではない」
というヨブ記に代表される思想です(ヨブは信仰厚い善人ですが、神の気まぐれによって、それはもうひどい目にあわされる)。

善人だから救うとか、正しいから認めるとか、そういう人間の思考レベルでは理解できないほどに、神は深遠で偉大だ、という考え方ですね。

意地悪に考えれば、自分たちを救わない神の行動に、究極の言い訳を考えついたとも言えますが…。

いま、これを書いていて気がついたのですが、この瞬間がユダヤ教およびそこから生まれる宗教が、世界宗教になった瞬間だったかもしれません。

・現世利益を諦めたとき、神は全知全能になった

神がいつもユダヤ人を守るなら、彼らに土地は与えられ、食料はいつも豊富で、安定した生活が送れるはず。しかし実際は土地もなく食料は不足、彷徨い続ける生活。この現実とのギャップをどうにかしないと、神は無能だということになります。
これでは「全知全能の唯一神」としての神格が保てません。

そこで逆転の発想。
ユダヤ人の不足も逆境もすべて神の思惑通りだとするなら、神が全知全能であることに矛盾が生じません。合理的ですね。
皮肉なことですが「神がユダヤ人を救おうとしない」ことを認めた瞬間に、全知全能の唯一神が完成したのです。
(もっとも、救わないだけでは信者のメリットが無くなってしまうので、「最後の審判」という形で天国を語っているとも言えます。現世利益⇒天国という流れもまったく外れたわけではない)

その後は皆さんも御存知の通り、イエスが現れてキリスト教が生まれ、マホメットが現れてイスラム教が生まれる。
「全知全能の唯一神」という、他の宗教にないアドバンテージを得て、世界に広がっていったのです。

こうしてみると、
・現世利益がない⇒天国極楽だけを神仏の領域にする
・現世利益がない⇒ないことが神の偉大さの証明
という、真逆の考え方。
でも、どちらも合理的思考の産物です。
考え方の違いが興味深いですね。

下は、参考にした番組の公式サイトです。



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