見出し画像

二宮翁夜話 巻之一、第三節 人の道は水車に似ている

5/18、第一節 本当の道は天地自然の法則 を大幅に修正しました。

自分の勉強も兼ねて、二宮翁夜話について書いています。不定期投稿。
ニワカのやることなので、読み間違いなどありましたら、ご指摘いただけると助かります。

・抄訳

人の道は水車のようなものだ。

水車を水から離しては回らず、まるごと水に沈めても回らない。
僧のように世を離れ欲を捨てるのは、水車を水から離すようなもの。
私欲に溺れるのは水車を水に沈めるようなもの。
どちらも役に立たないので、人道は中庸を尊ぶのである。

水車の中庸は、適度な深さにおかれ、水車の下半分が流れの方向へ、上半分が流れと逆方向に向かって回り続ける状態である。

人の中庸も同じで、天理に従って種を蒔く一方で、天理に逆らって草を取ることで農業が成り立つ。
また、欲に従って仕事に励みつつ、欲を制して義務を考えることで生活が成り立つのである。

拙訳 正しい訳が読みたい方は、類書を参考にして下さい

・感想

この水車のたとえは、好きな話です。
中庸と言うと「なんとなく真ん中」とか「行きすぎない」のイメージになりやすいところですが、水車のイメージにするとわかりやすくなる。

人道は、前節でも書いたように人間が作り出した脆いものなので、どうしても力が不足気味。

一方で力をくれるのは、天地自然に属している本能的な欲望です。人間の欲望はとかく悪いものと言われがちですが、自然で強力。

本能の強い力を使いつつ、それに逆らう人道があってこそ上手く回る、という実践家の言葉でした。

文章全体としては欲のことを書いていますが、最後の部分で、天地自然に対する中庸についても触れていますね。
「天地自然にすべて任せると、全てが荒地に戻ってしまう」
という、前節で書いた話の繰り返しです。

・原文

翁曰(いわく)、夫(それ)人道は譬(タトヘ)ば、水車(ミヅグルマ)の如し、其形半分は水流に順(シタガ)ひ、半分は水流に逆(さか)ふて輪廻す、丸に水中に入れば廻らずして流るべし、又水を離るれば廻る事あるべからず、夫(それ)仏家に所謂(イワユル)知識の如く、世を離れ欲を捨(ステ)たるは、譬(タトヘ)ば水車の水を離れたるが如し、又凡俗の教義も聞(キカ)ず義務もしらず、私欲一偏に着(ヂヤク)するは、水車を丸に水中に沈めたるが如し、共に社会の用をなさず、 故に人道は中庸を尊む、水車の中庸は、宜(ヨロシ)き程に水中に入て、半分は水に順(シタガ)ひ、半分は流水に逆昇りて、運転滞らざるにあり、人の道もその如く天理に順ひて種を蒔き、 天理に逆(サカ)ふて草を取り、欲に随(シタガヒ)て家業を励み、欲を制して義務を思ふべきなり

小さな資料室 二宮翁夜話より

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?