早地忽律

水滸噺番外「旱地忽律、時の湖畔を渡る」

小噺を書いている時から、いつか北方謙三先生の大傑作の一つ、「ブラディ・ドール」を題材にしてみたいと思っていました。

そしたらまさか、「大水滸伝ワールド」と「ブラディ・ドールワールド」を繋ぐ物語を仕上げることができるとは!

どうぞ、お楽しみください。

※今作はブラディ・ドールシリーズの多大なネタバレを含んでおりますので、ご注意ください。

第一話 梁山湖と岩

朱貴「この時期の梁山湖は、澄み渡っているな、陳麗」
陳麗「本当に、美しいですね」
朱「…」
陳「…」
朱「このまま二人で、梁山湖に沈んでしまおうか」
陳「そんな事を言ってはいけません」
朱「…?」
陳「どうしました?」
朱「何やら、梁山湖の底が…」
陳「底?」
朱「!」
陳「あなた!」

朱(このまま陳麗と二人で、湖で死ぬのかな)
陳(…)

?「人か?」
?「一体なんでこんな所に」
?「お前の岩はカップルの心中スポットなんじゃないか?」
?「まだ生きてるな」
?「とりあえず、あいつに連絡をとります」

朱「ここは?」
?「目を覚ましたか」
朱「?」
?「中国人か?」
?「言葉が通じないのは面倒ですから、普通に会話しましょう」
朱「あなたは?」
ドク「医者だ。ドクと呼ばれている」
朱「陳麗は、どこに?」
ド「女は、別に寝かせている」
朱「無事なのか?」
ド「無事とは言い難い容態だ」

朱「不治の病に侵されている上に、湖に落ちたのだ」
ド「確かにお前の女は白血病に罹患しているな」
朱「?」
ド「知らんのか?」
朱「医者に不治の病とは言われたが」
ド「…来ている服から何から、一体どこから来たのだ、お前たち?」
男「まるで、夫婦でタイムスリップでもしてきたみたいですね」

ド「こいつに礼を言えよ。名前は?」
朱「朱貴だ。夫婦で助けてもらった、礼を言わせてくれ」
坂井「坂井ってもんだ。礼ならいつか美味いもんでも食わせてくれよ」
朱「それは任せておけ」
坂「ほう」
朱「これでも料理人なんだ」
坂「なら、家の店に来ないか?」
朱「なんという店だ?」
坂「ブラディ・ドール」

・朱貴…梁山泊の料理人。梁山湖から足を滑らせたその先は?
・陳麗…余命僅かな朱貴の若奥様。今、命を捨ててでも夫を助けようとしたその先は?

・ドク…本名は桜内。ブラディ・ドールの安道全、といえば通じるはずだ。
・坂井…ブラディ・ドールに勤める若者。空手を嗜む。

・ブラディ・ドール…S市にある高級クラブ。タクシーの運転手にも、行き先で伝えたら通じるレベルの超有名店。ある共通点を持った男たちがS市に来たら自然と訪れる様は、さながら梁山泊。

第二話 異世界

朱貴「一体この世界はなんだ?」
坂井「お前、まさか本当にタイムスリップしてきたのか?」
朱「タイムスリップ?」
ドク「遠い過去から未来に飛んでくることさ」
朱「今更だが、ここはいつのどこなんだ?」
坂「198x年の日本さ」
朱「?」
坂「お前は、いつどこから来たんだ?」
朱「宋、という国から」

坂「宋?」
ド「日本が平安から鎌倉時代の頃の中国だ、坂井」
坂「…それは?」
ド「ざっと700年前から来たことになる」
朱「なんだって!」
坂「こんな事が」
朱「日本という国も聞いたことがない」
ド「まあ、そうだろうな」
坂「俺は学がねえから分からねえが、朱貴は宋って国のどこから来たんだ?」

朱「梁山泊から」
坂「梁山泊?」
ド「おとぎ話ではないのか?」
朱「おとぎ話だと?」
ド「ガキの頃、水滸伝という物語で読んだ事がある」
朱「私は梁山泊から来たのだ」
ド「にわかに信じがたいが、嘘をつく理由もないよな」
朱「それより陳麗に、妻に会わせてくれ」

ド「それは待ってくれ」
朱「なぜだ」
ド「それには明確な理由がある」
朱「ならさっさと説明してくれ」
ド「今のお前に、それをきちんと理解する余裕があるのか?」
朱「…」
ド「俺たちもお前の置かれた状況が理解できていない」
朱「…」
ド「お互い落ち着いてから、話をしないか?」
朱「…分かった」

ド「少なくとも、お前の嫁がすぐに死ぬことはない」
朱「それが分かっただけで、今は充分だ」
ド「理解が早くて助かる患者だ」
坂「話もろくに聞かないで大暴れしそうな子煩悩がいるもんな」
朱「梁山泊にもそんな馬鹿がいるぞ」

林冲「朱貴を見なかったか、宋万?」
宋万「店がもぬけの殻だ」
杜遷「奥方もいない」

ド「幸いお前の状態に異常はない」
朱「それは良かった」
坂「住まいとか服とか飯とか、どうしようか」
朱「そればかりは、皆目見当もつかん」
ド「お前の社長の出番ではないか?」
坂「俺もそう考えてました」
朱「社長?」
坂「きっと、タイムスリップしてきた料理人を大喜びで大歓迎できるお人さ」

・朱貴…梁山泊の連中に心配かけてないかな?

・ドク…外科手術の腕は安道全クラスの流れ者のお医者さん。最近リンチにあって、まだ節々が痛む。
・坂井…色々分からねえことばっかだが、朱貴は嫌な奴じゃなさそうだ。

・林冲…梁山湖を見に行くと言っていなかったか?
・杜遷…足を滑らせた跡があったぞ!
・宋万…まさか、心中したんじゃねぇだろうな!

第三話 来店

坂井「見るもの全てが初めてなんだろうな」
朱貴「見た事ないものだらけなのは当然だが、この世界はうるさいな」
坂「こればかりは慣れてくれ」
朱「文字も読めるものと読めないものがごちゃごちゃだ」
坂「そうか、漢字は読めるのか」
朱「これから童みたいな失敗をしても、笑わないでくれよ」
坂「分かってるよ」

朱「さっきから、道をすごい速さで走っている代物は?」
坂「車だ」
朱「馬よりもずっと速い」
坂「そうか、馬だよな」
朱「これからどうするのだ?」
坂「車を使って、俺たちの店に行こう」
朱「私も車に乗るのか?」
坂「良い土産話になるぜ」
朱「…帰れるのかな、私たちは」
坂「何とかなるさ」
朱「…お前が言うと、なんだかそんな気がしてくるよ、坂井」
坂「だろ?」

朱「…」
坂「すまん。初めて車に乗る奴には運転が荒かったな」
朱「船酔いみたいなものか?」
坂「車酔いだ」
朱「…」
坂「お前が慣れるまでは、もっと安全運転を心がけるよ」
朱「しかし、かっこいい車だ」
坂「社長の車さ」

朱「その社長っていうのは、名前か?」
坂「肩書きのことだ」
朱「お前の上役か?」
坂「まあ、そんなもんだ」
朱「どんな人だ?」
坂「会えば分かる。必ず、分かる」
朱「そうか」
坂「お前とは馬が合いそうだよ、朱貴」
朱「実は、私もそう思っていた、坂井」
坂「それじゃ、社長に会いに行こうか」

川中「おう」
坂井「社長、ご紹介したい人が」
川「?」
朱「朱貴、と申します」
川「…一体どこの誰なんだ、坂井?」
朱(晁蓋殿にも、宋江殿にも似ている人だな)
坂「説明しても、信じてもらえないかもしれませんが…」
朱「宋国の、梁山泊から参りました」
川「梁山泊だって?」
坂「ドクが700年前から来た男だと言っていました」
川「タイムスリップってやつか、坂井?」
坂「キドニーさんの岩に夫婦で漂流したのを、キドニーさんと叶さんと俺で見つけたんです」
川「夫婦でか」
朱「妻は陳麗と言います」
川「不思議な場所なのかもしれんな、あそこは」

朱「…」
川「その服装や、見るもの全てが何もかも初めてだって反応からして、君のことを疑っても仕方ないよな、朱貴」
朱「…」
川「この店で社長をしている川中だ」
朱「よろしくお願いします」
川「君は梁山泊で何をしているんだい?」
朱「酒屋で料理人をしていました」
川「なんだって?」
坂「本人は自信がありそうでしたよ」
朱「梁山泊の連中の胃袋を支えていた自負がありますんでね」
川「それは頼もしい」

朱「ここは酒を出す店なんですか?」
川「ご名答だ」
坂「俺はそこでバーテンをしているんだ」
朱「バーテン?」
川「酒作りの小僧って意味さ」
坂「社長」
朱「もしかしたら、私もここでお手伝いができるかもしれませんね」

川「腕自慢ならその内お願いするかもしれないが、今日は700年前から来た客人として、君を招待させてくれ」
朱「そんな」
川「住まいとか、そんな余計な心配は、全部俺に任せろ」
朱「そこまで…」
坂「さすが社長」
朱「なぜそこまで、会って間もない私に良くしていただけるのですか?」
川「君とは馬が合いそうだからさ、朱貴」
朱「有り余るご好意、痛み入ります」
川「頭なんて下げないでくれ。俺がしたいからそうしているだけだ」

・朱貴…700年前から来た男でも、ポルシェはカッコいいと思った。

・川中…ブラディ・ドールの経営者。この店を経営しているという時点で、色々察しなくてはならない。
・坂井…酒作りの小僧の腕を見せてやる!

第四話 乾杯

坂井「お待たせしました、社長」
川中「ああ」
朱貴「これがバーテンの格好というやつか、坂井?」
坂「まあな」
川「馬子にも衣装、って言葉は、700年前からあるかな?」
朱「おおかた意味は分かりますよ、川中殿」
坂「野郎」
川「川中殿、か」
朱「失礼でしたか?」
川「いや、そう呼ばれたのは初めてでな」
坂「俺は呼び捨てなのに」
川「朱貴に呼ばれるならいいか」
朱「じゃあ遠慮なく、川中殿で」
川「殿は、若干の遠慮が混ざってるぞ」
坂「俺には遠慮しないのか、朱貴」
川「坂井にはいい」

藤木「…」
川「よう」
朱(何者だ?)
坂「本日もよろしくお願いいたします」
朱(坂井の雰囲気も一変した)
藤「…どちら様で?」
川「700年前から来た、俺の客人さ」
藤「?」
朱「朱貴と申します」
坂「彼の説明は、後で俺が」
藤「…」
川「一杯付き合えよ、藤木」
藤「業務時間中はお断りします」
川「つれねえな」
藤「…」

川「気を悪くしないでくれ、藤木って堅物なのさ」
朱「只者ではないお方ですね」
川「君は、人を見る目もありそうだな」
朱「これでも梁山泊の入山窓口もしていましたんでね」
川「君を雇いたくなってきたよ、朱貴」
朱「ご冗談を」
川「帰りたいよな、梁山泊に」
朱「…」
川「俺たちに何ができるか分からないが、当面の暮らしは保証させてくれ」
朱「妻も一緒だったのですが」
川「そうだったな」
朱「不治の病にかかっておりまして、余命いくばくもないと、医者に言われております」
川「…」

坂(社長)
川(?)
坂(ドクがその件について依頼があると)
川(分かった)

川「それじゃ、飲もうじゃないか、朱貴」
朱「妻が病なのに…」
川「その気持ちは大切だよな」
朱「…」
川「君はその想いを、とても丁寧に奥さんに伝え続けてきた男だと思うよ」
朱「…」
川「だから、多少友達と酒を飲んだからって、へそを曲げたりしない奥さんなのではないかな?」
朱「…その通りです、川中殿」
川「坂井」
坂「分かってます」
川「今日は俺の奢りだ、初めて飲む酒を存分に味わってくれ」
朱「ありがたく、頂戴します」

・朱貴…ここは梁山泊かと錯覚し始めるほど心の居心地がいい場所だ。

・川中…朱貴はいい奴だ。それでいいだろう?
・藤木…ブラディ・ドールの支配人。一部の隙もないのは仕事だけではない。
・坂井…朱貴を見る藤木さんの目がいつもより優しかったぞ?

第五話 宴

朱貴「こんなに強い酒は飲んだことがない」
坂井「水を飲むのを忘れるなよ」
朱「この世界は水も勝手に出てくるんだな」
川中「毎日水汲みをしてるんだろうな、朱貴は」
朱「毎朝の日課ですよ」
坂「帰ったら、面倒に思うんじゃないか?」
朱「何としてもこの仕組みを梁山泊に持ち帰ってみせるさ」
川「大工事になるぞ」

叶「おや、川中がいるとは珍しい」
坂「いらっしゃいませ」
叶「いつもの」
坂「ゴードンですね」
叶「さすが坂井」
川「彼とは会ったのかな?」
叶「キドニーの岩に沈んでた男だな」
朱「…」

叶「叶だ」
朱「朱貴と申します。川中殿のお世話になることになりました」
川「700年前から来た友達さ」
叶「タイムスリップってのは本当にあるんだな」
朱「…」
叶「どうした?顔に何かついてるか?」
川「彼は人を見る目があるからな。日頃の行いをバラされちまうぞ」
叶「…俺は何をしていると思う?」
朱「…申し上げてよろしいので?」
叶「ここだけの話だ」
朱「…人を、殺める仕事を」
叶「!」

川「叶の反応が物語っているな」
叶「どうしてそう思った?」
朱「梁山泊にはそんな奴がごろごろいますので」
叶「梁山泊って、水滸伝の梁山泊か?」
朱「水滸伝という書物は知りませんが、私は宋国の梁山泊から来たのです」
叶「参ったよ」
朱「恐れ入ります」

叶「お前の人を見る目に敬意を評して、あだ名をやろう」
朱「お願いします」
叶「初めは水辺にいて、鰐みたいな本性を隠し持っている男だから、旱地忽律、ってのはどうだ?」
朱「陸にあがった鰐、ですか」
川「面白いな」
叶「よろしくな、旱地忽律」
朱「こちらこそ、叶殿」
叶「叶でいい」

・朱貴…ドライ・マティーニ?ゴードン?ジン・トニック?美味いならなんでもいい!

・川中…いける口じゃないか、朱貴。
・坂井…酔わせ過ぎないのもバーテンの仕事さ。車には酔わせちまったが。
・叶…お喋りな殺し屋。沈黙が耐えられない。

第六話 時

キドニー「…」
川中「…」
坂井「いらっしゃいませ」
キ「おや、彼は」
叶「お前の岩に700年前からやって来たご夫妻の旦那さんだよ」
朱貴「朱貴と申します。皆様に助けていただいた御礼を申し上げたく」
キ「礼などいらん」
朱「…」

キ「俺と許されし者しか知らない場所に、君たちはいたんだからな」
叶「じゃあ、朱貴とご婦人も許されし者だな」
キ「不法入国だぞ」
川「700年前から来た夫婦に、どんな身分証を書かせりゃいいんだ、キドニー?」
キ「検討も付かんな」
朱「何かご迷惑を?」
叶「キドニーに任せりゃ、何の問題もないから安心して飲め」
キ「不覚にも、少し面白そうな仕事だと思っちまった」

朱「」
叶「やっぱり初めてのやつに葉巻はキツイか」
川「あまりいじめるなよ、叶」
朱「いえ、土産話は多いに越したことはないんで、何事も挑戦してみようかと」
叶「向上心があるな、旱地忽律」
キ「じゃあ、俺のも試してみるか?」
朱「これも今の要領で吸えばいいんで?」
キ「お前の裁量で吸ってみろ」
朱「…」
キ「…」
朱「」
叶「いきなり吸いすぎなんだよ、お前は」
キ「もっと様になる格好で吸えば、身分証の経歴も盛ってやったのに」

川「そろそろ帰るか、朱貴」
朱「今日は色々ありすぎて、正直クタクタです」
叶「無理もない」
川「坂井」
坂「場所はどこまで?」
川「…レナの二階はいけると思うか?」
坂「…あそこですか」
藤木「私がお送りします」
坂「!」
朱「…」
藤「それでは朱貴殿、お送りしましょう」
朱「藤木殿、ですね?」
藤「ここでは」
朱(ここでは?)
川「頼む」
藤「…」

藤「…」
朱「…」
藤「…お疲れになられたでしょう」
朱「…はい」
藤「今、どんなお気持ちですか?」
朱「初めて会ったのに、皆様から有り余るご好意にあずかりまして」
藤「…」
朱「初めて一緒に酒を飲んだはずなのに、なんだか昔からの友達と一緒に飲んでいるような、心持ちでした」
藤「私も、そう見えましたよ」
朱「…」

藤「朱貴殿は過去からここに来られたと言いますが」
朱「そうらしいです…」
藤「私はね」
朱「…」
藤「…あの時に、過去に戻れたら、と思う事が、たまにありまして」
朱「…」
藤「…」
朱「…」
藤「ここです、朱貴殿」
朱「ありがとうございます、藤木殿」
藤「藤木、と呼んでいただけますか?」
朱「じゃあ私のことも、朱貴で」
藤「…」
朱「…」
藤「家主と交渉しましょう、朱貴」
朱「よろしくお願いします、藤木」

・朱貴…叶のシガリロもキドニーのパイプもひたすらむせ返った。

・キドニー…凄腕の弁護士。本名は宇野。あだ名の由来は、ごついキドニーブローを食らったから。
・川中…昔からの友達のようだ。二重の意味で。
・坂井…あそこなら、空いてると思うけどよ…
・叶…レナのコーヒーは最高だが、いわくだらけの店だよ。
・藤木…社長のご友人をお送りするのも仕事ですよ。

第七話 レナ

安見「いらっしゃいませ!」
秋山「営業時間は終わってるぞ、安見」
藤木「…」
秋「藤木?」
菜摘「お隣の方は?」
藤木「社長の、友達です」
朱貴「朱貴と申します」
秋「…失礼ながら、一体どこからお越しに?」
朱「周り曰く、およそ700年前の宋という国の梁山泊から…」
安「タイムスリップ!」
菜「にわかに信じられませんが…」
藤「…」
朱「ドクという医者がそのように…」
秋「宋といえば、徽宗という風流天子がいたという…」
朱「私たちには、皇帝です」

安「本当にタイムスリップしてきたの、朱貴さん?」
朱「あなたは?」
安「秋山安見!」
秋「安見の父の秋山律と申します。秋山と呼んでください」
菜「妻の菜摘です」
朱「ご家族ですね」
安「朱貴さん、料理ができる人でしょ!」
朱「よく分かりましたね、安見殿」
安「女の勘よ!」

秋「梁山泊とはどこかで聞いたような…」
菜「水滸伝よ、あなた」
朱「実は、ドク殿にも、ブラディ・ドールでも言われたのですが、水滸伝とはなんなのですか?」
菜「古から伝わる中国の民話ですわ」
朱「そのお話に、梁山泊が出てくるのですか?」
菜「108人の好漢が集う場所、程度の知識しかありませんが」
安「私、明日図書室で借りてくる!」
朱「そしたら私に読んでくれないか、安見殿?」
安「安見でいいわ!」

秋「古の中国から来られたという事は、日本の文字は読めませんよね」
朱「見覚えのある字をたまに見るのですが」
菜「日本の言葉はそういう文化なのですよ、朱貴さん」
藤「菜摘さん、今宵はお願いがあって参りました」
菜「二階ね。ちょっと掃除する必要があるけど、好きに使ってくれて構わないわ」
朱「!」
菜「藤木さんが直々に来たっていうことは、そういうことでしょう?」
藤「さすが」
安「女の勘を舐めないで!」

菜「ここに来るのも久しぶりなんじゃないですか?」
藤「まあ…」
朱(なんだか、色々な思い入れが詰まっていそうな部屋だな)
菜「男物の服は夫のしかないけど、少し大きいかしら?」
藤「私たちの方で用意しておきます」
朱「本当に、お構いなく」
菜「何言ってるの、朱貴さん」
朱「?」
菜「本当に700年前から来た人だなんて知ったら、みんなが構いたくなるに決まってるでしょ?」
朱「菜摘殿…」

菜「あなただけで来たの?」
朱「実は、妻と二人で来たのですが…」
菜「はぐれちゃったの?」
朱「きっかけは、私が湖に足を滑らせて転落したのを妻が助けようとした際に、一緒に沈んでしまい…」
菜「…」
朱「不思議な岩のある水のほとりに、夫婦でいたのですが」
菜(キドニーの岩ってとこね)

朱「その後、ドク殿と坂井に治療をしてもらって気がついたのです」
菜「すると奥さんはドクの所にいるの?」
朱「それが、今は会わせることが出来ないと言われてしまったのです」
菜「それは?」
朱「実は、妻は不治の病にかかっており、余命も残り少ないと、私たちの世界の医者から告げられていました」
菜「そうだったの…」
朱「私たちの世界の医術では、治せる病ではない、と深々と頭を下げられた時に、覚悟を決めたはずだったのですが…」
菜「差し支えなかったらどんな病気か教えてくださらない?」
朱「血の病だと、言っていました」
菜(白血病かしら?)
朱「妻を助けるためなら、何を投げ打ってでも助ける所存だったのですが、不治の病では…」

菜「…朱貴さん。あまりいい加減なことは言いたくないんだけどね」
朱「菜摘殿?」
菜「希望を捨てないで」
朱「希望?」
藤「…あなたはどこまで読めるのですか、菜摘さん?」
菜「贔屓されてるんじゃないかしら?」
朱「?」
菜「あなたが元の世界に帰れるまで、ここで暮らしていいわよ」
朱「そんな」
菜「あなた良い料理人なんでしょ?」
朱「良いかは分かりませんが、腕に自信はあります」

菜「うちの店の料理人が住み込みで働いてて何の問題があるの?」
藤「社長も働いてほしそうでしたよ」
菜「モテモテね、朱貴さん」
朱「皆さん…」
菜「もう野暮なことは言いっこなし」
朱「この世界では、ありがたく、皆様のご好意に甘えさせていただきます」
菜「これで最後ね」
藤「それでは私はこの辺で」
朱「本当にありがとう、藤木」
藤「野暮です、朱貴」

朱(陳麗とは、いつ会えるのだろうか?)

ドク「案の定だとは思っていたが、ここまでピッタリ合うとは…」
川中「日頃の行いさ」

・朱貴…海が近くて素敵なお店だが、過去に何かあったのだろうな…

・秋山…ホテルキーラーゴのオーナー。彼のホテルは、S市を訪れたお客様満足度ランキング1位常連。子煩悩。
・安見…中学生の女の子。色々凄い。ルックスも、度胸も。
・菜摘…コーヒーハウス、レナのオーナー。色々素敵な女傑。
・藤木…朱貴に昔の話をしてしまいそうになった自分に驚いていた。

・川中…この歳にして、超健康優良児ってやつかい?
・ドク…脳筋って言うんだよ、それを。

第八話 本領

安見「美味しい!」
菜摘「これが朱貴さんの得意料理ね」
朱貴「火が勝手に付いた時は、心底驚きましたよ」
菜「現代の文明は一つ一つきちんと教えてあげるからね」
安「魚のお饅頭なんて初めて食べたわ!」
朱「この辺りは海が近いんですね」
菜「早起きして一緒に市場に行った甲斐があったわ」
安「ここはカツオが獲れる地域なのよ、朱貴さん」
朱「見たことのない魚ばかりだったが、自然と饅頭に合う魚が目に着いたよ」
菜「料理人の勘ね」

菜「このお饅頭はあっさりしてるから、朝にもお昼にもピッタリ」
安「ママのコーヒーとも合うんじゃない?」
朱「コーヒー?」
菜「今度は私の番ね」

朱「実に良い香りですね」
安「ママのコーヒーもいい土産話になるわよ」
朱「きめ細かな仕事をされていましたね」
菜「旦那のこだわりよ」
朱「いただきます」
安「美味しいでしょう?」
朱「苦味が冴え渡る飲み物など初めてだ」
菜「料理人の舌ね」
朱「美味いです、菜摘さん」
菜「光栄です」
朱「このコーヒーに合う饅頭を作りたくなってきたよ」
菜「すっかり料理人の顔ね」
安「ママに合わせようとする姿勢は、パパ以上ね」
菜「パパは私よりもあなたに惚れてるだけよ、安見」
朱(素敵なご家族だ)

菜「いきなり働かせてしまうことになるけど」
朱「なんの」
菜「今日のお役目は饅頭を作るだけでいいわ」
朱「分かりました。菜摘さんの仕事を盗みながら、働かせていただきますよ」
菜「慣れたら私よりも商売上手なんでしょうね」
朱「ご謙遜を」
菜「じゃあ、今日からよろしくね、朱貴さん」
朱「こちらこそ、菜摘さん」

朱(なんて便利な時代なんだ)
菜「大好評よ、朱貴さん」
朱「魚の保存にいつも頭を悩ませている私からすれば、この調理場は楽園ですな」
菜「大げさね」
朱「大目に仕込んでおいて良かったよ」
菜「今日は今年一番の売上になりそうよ、誰かのおかげで」
朱「菜摘さんのおかげでは?」
菜「?」
朱「誰かをここで働かせてくれた、菜摘さんに人を見る目があったおかげ、ということですよ」
菜「絶対にブラディ・ドールには行かせないわよ、朱貴さん」

叶「よう、旱地忽律」
キドニー「すっかりレナの料理人になっちまったな」
朱「いらっしゃい」
叶「こっちの服も決まってるじゃないか」
菜「コーディネートしてあげて、叶さん」
キ「今日は賑やかじゃないか」
菜「私のおかげよ」
叶「強気だね」
菜「本人がそう言うんですものね」
朱「何のことやら」

叶「他の客が食ってる饅頭がお前の自慢か」
菜「コーヒーセットがお得よ」
キ「中々強力なタッグだな、叶」
叶「初日からまるで夫婦みたいな息の合いようだ」

朱「…」
菜「叶さん」
叶「…すまん、旱地忽律」
朱「いや、今はこうしていた方がいい気がしてきたよ」
キ「ドクはなんと言っていたんだ?」
朱「今はまだ話すことができない、と」
叶「勿体ぶりやがって」
朱「陳麗は、まだ大丈夫なのは分かっています」
キ「それは?」
朱「心が繋がっていますからね」
叶「おい、菜摘さん。あんたの旦那は今何してると思う?」
菜「娘に探し物でも手伝わしてるんじゃない?」

安見「またお財布無くしたの?」
秋山「確かにここに置いたんだが」
土崎「ほっとけ、お嬢」


キ「美味い」
叶「…」
朱「ありがとうございます」
叶「本当に美味いものを食うと、言葉がなくなるな」
キ「おしゃべりな殺し屋を黙らせる、魚肉の饅頭か」
朱「面白い売り文句ですね」
叶「いくらでも食えちまうよ、旱地忽律」
キ「川中の所には行くなよ、朱貴」
菜「大丈夫よ、キドニー。私が行かせないから」
叶「あの店でこの饅頭の匂いがしたら、気が抜けちまうよ」
キ「男がひとり、場所を得たな」

・朱貴…梁山泊に帰るときに持ち帰りたいものが多すぎる!特に食べ物を冷たく保存する箱!

・安見…電気がいるのよ、朱貴さん。
・菜摘…こんないい男、川中さんには勿体ないわ。
・叶…この俺が何も言えなくなるとは。
・キドニー…これなら俺の身体でも食えるな。
・秋山…結局スーツの胸ポケットにあった。
・土崎…秋山の腐れ縁の船乗り。彼のビーフシチューは逸品。

第九話 復活

菜摘「明日はお休みにして、今日は飲みに行きましょう」
朱貴「よろしいので?」
菜「私のおかげで、三日分の売上よ」
朱「それはお見事」
菜「行き先は分かってるわね?」
朱「川中殿の店、ですな」
菜「お饅頭の予備はある?」
朱「それならば、作って持って行きますよ」
菜「川中さんも可哀想よね」
朱「それは?」
菜「最初に朱貴さんに惚れた男を、奪われちゃったんだから」

朱「この熱を取り戻す箱も持ち帰りたいな」
坂井「電気がいるぜ、朱貴」
朱「あなたたちの世界の電気ってのは、一体なんなんですか、川中殿?」
川中「なんて言えばいいのかな、叶?」
叶「あいにくその辺りのお勉強とは、ガキの頃におさらばしちまったよ」
坂「しかし、この饅頭はなんなんだ、朱貴」
朱「お喋りな殺し屋を黙らせる、魚肉饅頭だよ、坂井」
川「叶、お前もう食ったのか」
叶「レンジで温めても美味いぞ、旱地忽律」
川「食ったならもっと遠慮しろ」
菜「出来立てはコーヒーと一緒に食べに来てくださいね、社長」
川「とんだ泥棒猫にさらわれちまったよ」
坂「これも美味いんだが、俺はもっとこってりした饅頭も食いたいな、朱貴」
朱「蒸した饅頭を油で焼いたのも考えてるところさ」

藤木「…」
朱「藤木!」
藤「いらっしゃいませ」
朱「ぜひ藤木にも食べてほしくて持ってきたんだ」
藤「…遠慮します、朱貴」
朱「野暮だぞ、藤木」
川「堅物にもほどがあるぜ」
藤「…頂戴します」
朱「…」
藤「…」
朱「…」
藤「…ご馳走様でした」
川「生きててよかったろう、藤木」
藤「…それでは、ごゆっくり」

叶「もっと楽に生きれんもんかな?」
川「殺し屋に言われちゃおしまいだ」
坂「この店にも来てくれよ、朱貴」
菜「だめよ、坂井くん」
川「旦那に言いつけるぞ」
朱「いいですか、川中殿」
川「なんだい?」
朱「実は、坂井のバーテンにも興味があって」
坂「分かってんじゃねえか、朱貴」

川「…藤木、あいつの服はまだあるか?」
藤「無論」
川「本人の強い希望だぞ、菜摘」
菜「それなら仕方ないわね」

菜「誂えたみたいにピッタリじゃない」
坂「社長、この服は…」
川「何も言うな、坂井」
朱「…」
叶「似合ってるぞ、旱地忽律」
川「梁山泊でどんな酒を出してたんだ?」
朱「醸してた事もあったんですが、饅頭を始めてからは、仕入れたのを売ってただけですね」
川「それは惜しいな」
坂「俺が一から教えてやるよ」

キドニー「この店には行くなと言ったじゃないか、朱貴」
川「店に来た奴が言う台詞か、キドニー」
キ「とりあえずの身分証を拵えてきてな」
坂「それはありがたい」
キ「ここで暮らす上での面倒な手続きは俺が引き受けてやる」
朱「ありがたい」
キ「饅頭はサービスしろよ、朱貴」
菜「コーヒーも一杯サービスしますわ、キドニー」

川「なんて名前にしたんだ?」
キ「神崎」
川「…」
キ「内田、の方が良かったか?」
川「…」
朱「…」
川「神崎、だな」
キ「それに、朱貴の着てるバーテンの服は?」
川「松野のやつさ」
キ「そうか」
川「…嫁さんの名前は?」
キ「…」
川「…」
キ「美津子」
川「…お前と言うやつは」

朱(察するのもバーテンの仕事だろ、坂井?)
坂(まあな)
川「なあ、朱貴」
朱「なんでしょう?」
川「ここにいる時の君を、神崎、と呼んでいいかな」
朱「分かりました。ここでは神崎と呼んでください、川中殿」
川「あいつにはいつも不躾に呼ばれたもんだが」
キ「朱貴らしくて、いいじゃないか」

沢村「…」
叶「おう、来たのか」
沢「…あなたは?」
朱「新しく入った、神崎、と申します」
沢「噂の700年前から来たバーテンですか?」
朱「はい」
沢「沢村です。ここでピアノを弾いています」
朱「あの楽器のこと、ですな」
川「歓迎の曲を弾いてくれないか、沢村」
沢「…かしこまりました」

朱(なんと美しい音色だ)
坂(朱貴、沢村さんのためのカクテルの作り方を教えてやる)
朱(頼む)

朱(この曲は…)
坂(何かが変わったな)
川「…」
キ「…」

川「…」
坂(朱貴、持っていけ)
朱(分かった)

沢「…」
朱「…」

川「…」
キ「…」

沢「今日のソルティ・ドッグは、坂井くんのではありませんね」
朱「僭越ながら、私が作りました」
沢「ありがたく、頂戴しました」
川「今日の曲は?」
沢「マーラー交響曲第2番ハ短調」
菜「!」
キ「タイトルはあるのか?」
沢「復活」
川「…」
キ「…」
沢「しかしこれは、一人でやるには大変な曲ですな」

川「神崎」
朱「はい」
川「ドクから連絡があった」
朱「本当ですか」
川「そろそろ話しても大丈夫だろうとのことさ」
朱「分かりました」
叶「こんだけこっちの世界に慣れちまったらな」

・朱貴…昼はレナ、夜はブラディ・ドールで交互に働くことにした。

・菜摘…川中さんにあんな顔されちゃ、こっちが折れるしかないじゃない。
・川中…どいつもこいつも、野暮な奴ばかりだ。
・キドニー…我ながら、嫌な奴だと思うが、こういう性分なんでな。
・藤木…残しておくものですね、大事なものは。
・坂井…社長のあの顔は、色々思い出してる時の顔だよ。
・叶…俺はおしゃべりだが、黙る時くらいわきまえられるさ。耐え難いがな。
・沢村…ブラディ・ドールのピアニスト。色々あって流れてきた。

・神崎…川中の元相棒
・内田…ブラディ・ドールの元マネージャー
・松野…ブラディ・ドールの元バーテン

第十話 血

坂井「今日の運転は酔わなかったろ?」
朱貴「二回目だが、見事な運転だと分かったよ」
坂「俺はこれを一回目でしなきゃならなかったんだ」
朱「車酔いも土産話になるさ」
坂「着いたぞ」
朱「…」
坂「終わったら電話してくれ、迎えにいく」
朱「連絡手段も便利すぎるよな、この世界は」

朱「失礼します」
山根「どうぞ」
朱「!」
ドク「俺の愛人が失礼した」
山「応対しただけですけど」
ド「ちょっと買い物を頼むよ」
山「使いっ走りね」
ド「愛人だろう?」
山「高くつくわよ」

ド「腕のいい看護師でね」
朱「分かります」
ド「すっかりこの街の人間の顔だな、朱貴」
朱「私たちからすれば、湖に落ちただけなんですけどね」
ド「働かされるぞ」
朱「覚悟はしていますよ」
ド「どこまで?」
朱「それは?」

ド「…この街に来て、美味い饅頭売りとバーテンをやれるだけで済むと思わないほうがいい」
朱「…」
ド「…」
朱「私も、梁山泊で色々な事がありました」
ド「どんな?」
朱「…人が、死ぬような事も」
ド「…」
朱「…」
ド「何かが変わるかもしれんな」
朱「何がでしょうか?」
ド「何かがさ」

朱「荒事は苦手ですけどね」
ド「本当に苦手な奴は、そんなこと言わんな」

ド「本題だ」
朱「はい」
ド「まず、君の奥さんの病気の事から話す」
朱「…」
ド「血の病というので間違いなく、この世界では白血病という」
朱「…」
ド「700年経っても難病でな」
朱「…」
ド「700年前の治療とは思えない経過を辿ったことが推測されたのには驚いたよ」

朱「あなたに会わせたいほどの医師と薬師がいるのですよ。梁山泊には」
ド「どうせ偏屈者だろう?」
朱「違いないですな」

薛永「ハクション!」
安道全「ハクショウ!」

白勝「呼んだか?」
呉用「呼ばんが?」

ド「難病の一つだが、今では新しい治療法がある」
朱「本当ですか」
ド「相性の良い血の持ち主さえ見つかれば、奥さんは助かる可能性がある」
朱「ならば私の血を」
ド「誰の血でもいいわけじゃない」
朱「ならば、やはり…」

ド「勿体ぶるのはやめよう」
朱「それは?」
ド「その相手はすでに見つかっている」
朱「なんと!」
ド「お前よりも先にその男が会ってたら、お前など相手にされなかったな」
朱「助かるのですか、陳麗は?」
ド「ドナー、血の提供者が、あの男だからな」
朱「あの男?」
ド「言えんよ。決まりがあってね」

坂井「虫刺されですか、社長?」
川中「…そういうとこだぞ、坂井」
坂「?」

ド「少なくとも、当面の奥方の命は保証する」
朱「奇跡だ…」
ド「まあ、奥方が命を永らえたとして、お前がどうなっても知らんがな」
朱「…いつ会えるのでしょうか?」
ド「それは、まだ待ってくれ」
朱「ドク先生が、私を焦らそうとして言っているのではないのは分かりますよ」

ド「君のその察しの良さは、酒場の親父のものではないな」
朱「饅頭の味と魚と、人を見る目には自信があります」
ド「君はこれからとんでもない目にあいそうだ」
朱「もしもここで命を捨てる事になっても、一欠片の悔いも残しません」
ド「良すぎるよ、察しが」

山「買ってきましたよ」
ド「高いもんばっか買いやがって」
山「言ったじゃないですか」
ド「朱貴、お前の饅頭を食わせろ」
朱「ならば、坂井に連絡を取っていただけますか?」
ド「この世界にいるなら、電話は使えるようになれ」
朱「こればかりはどうも…」
山「書いて覚えましょう、朱貴さん」

・朱貴…一抹の期待と不安が交差し始めてきた。

・ドク…どんな強靭な女になって帰ってくるやら…
・山根…看護婦でドクの愛人。血の好きな看護婦さん。

・川中…坂井のこういう所は嫌いじゃないが、これではもう一枚大きくなれんな…
・坂井…こういうところがあるってのは分かるんだが…自分でももどかしいぜ

・安道全…酒場の患者がいなくなっただと?
・薛永…困りましたね…

・白勝…なんだくしゃみか。
・呉用…誰もしてないが?

第十一話 水滸伝

安見「何かいいことでもあったの、朱貴さん?」
朱貴「そう見えるかい?」
安「ウキウキしているような、ドキドキしているような感じよ」
朱(この娘もすごい観察眼だ)
安「水滸伝、借りてきたわよ」
朱「これか…」
安「まだ始めしか読んでないけど、108の星を解き放っちゃったバカな役人が出てきたわ」

朱「もしかして、私も出てくるのかな?」
安「まさか…」
朱「どうした、安見?」
安「朱貴さんってどんな字を書くの?」
朱「こうだ」
安「一緒の人がいるわ!」
朱「見せてくれ!」
安「…朱貴さん?」
朱「…」
安「大丈夫?」
朱「…読める字の名は、ほとんど知り合いだよ、安見」
安「何ですって?」

朱「林冲、宋万、杜遷は、友達さ」
安「朱貴さん、あなたは…」
朱「…」
安「本当に、梁山泊から来たの?」
朱「何なのだ、この書物は」
安「今日は初めの巻しか借りてこなかったけど、全部借りてくるわね」
朱「それは待ってくれ、安見」
安「どうしたの?」
朱「もしかしたら、私はその本を読んではいけないかもしれない」

安「どういうこと?」
朱「安見は、自分の一生が全て分かる物語を読みたいと思うかい?」
安「嫌。絶対に、嫌」
朱「そういうことになる、予感がしたんだ」
安「…」
朱「…安見の饅頭を蒸そうか?」
安「…ありがとう」

朱(あの物語の梁山泊は、どうなってしまうのだろう)

菜摘「朱貴さん、大丈夫?」
朱「びっくりすることがありましてね」
菜「安見の水滸伝に出ていたのね」
朱「あなたに当てられても、もうびっくりしなくなりましたよ」
菜「…これは私の独り言ね」
朱「?」
菜「もしも物語の中の人だろうと、700年前の人だろうと、あなたなら、私たちはどんな過去があろうとも歓迎するわ」
朱「…」
菜「それは、あなたがあなただからよ、朱貴さん」
朱「…」
菜「たとえ同じ条件でここにやって来たとしても、嫌な奴だったら、私たちに嫌な奴な扱いをされるのが関の山じゃない?」
朱「菜摘さん…」

菜「あなたは素敵な人よ。だから私たちはみんな、あなたを受け入れている」
朱「菜摘さ…」
秋山「私もここまで情熱的に口説かれたかったな」
菜「独り言よね、朱貴さん」
朱「そう言われました」
秋「朱貴に用事があったんだが」
朱「それは?」
秋「海に来てくれないか?どうしても君と会いたいという、老人がいる」
朱「無論、構いませんが」
菜「蒲生さんの使い走りにされたの?」
秋「…あそこじゃ一人で黄昏ることもできやしない」
菜「黄昏たい理由があって?」
秋「こんなに情熱的に男を口説く女房を見たらな」
朱「私にも心の繋がっている女房がいますよ」

・朱貴…水滸伝の物語も気になるが、菜摘さんの先を読む力も気になるな…
・安見…朱貴さんには内緒にして、全部読もう…
・菜摘…娘とはいえ、女同士ですからね。たまには旦那を引きずり込まないと。
・秋山…なぜ私の行動は、菜摘にも安見にも筒抜けなんだ…

第十二話 居心地

秋山「なんでも読める女房でしてね」
朱貴「覚えがありますよ、私も」
秋「それにしても、美味い饅頭です」
朱「料理人冥利に尽きますな」
秋「梁山泊とはどんな所なのですか?」
朱「そうですね」
秋「…」
朱「美しい湖のほとりに、木々が豊かな森に囲まれて…」
秋「…」

朱「腐敗した宋国に怒り、反乱を起こした者たちが集まり、世直しの拠点になる場所のはず、だったのですがね」
秋「違うのですか?」
朱「首領が昔からの友だったのですが」
秋「…」
朱「猜疑心の虜になり、梁山泊を暗く、小さくしてしまったのですよ」
秋「それは苦しいですね」

朱「首領に処断されたり、獄に下される者も後を絶たず…」
秋「…」
朱「私はそれから目をそらす様に、女房と饅頭だけを愛でていたのです」
秋「梁山泊はそのままなのですか?」
朱「それが、風が変わったのです」
秋「それは?」
朱「林冲という武術の達人と、安道全という天才医師が入山したのです」

秋「そんな男たちなどの入山を、許されるわけがない、と思ったのですが」
朱「だから、風が変わったのですよ」
秋「良い方向に?」
朱「はい。今までにない何かが始まろうとしていたところだったのです」
秋「ならば朱貴さんの働きどころも多いにあるでしょうな」
朱「帰れることは疑っていませんが、今はここで出来ることに全力で取り組む所存です」
秋「見事なご覚悟です」

朱「しかし、ここに来て海を初めて見たのですが」
秋「いかがですか?」
朱「不思議と心が落ち着きますね。梁山湖という湖の近くで妻と暮らしているのですが、そこに似ている気がします」
秋「私たちも梁山泊に行ってみたいですな」
朱「その時は皆で大歓迎しますよ」

蒲生「お前が700年前から来た料理人か」
朱貴「朱貴です」
蒲「智子から聞いてな」
朱「智子?」
蒲「あのじゃじゃ馬だ」
朱「ああ」
蒲「俺にも魚肉の饅頭ってやつを振舞って欲しくてな」
朱「それでしたら、お持ちしました」
秋「そんな事だろうと思いましてな」
蒲「一つ食ったな、秋山」
秋「お駄賃がわりに」

蒲「…」
朱「…」
蒲「…」
朱「…」
蒲「まあまあだな」
朱「お褒めに預かり、光栄です」
蒲「泊まっていくか?」
秋「蒲生さん」
朱「よろしいのですか?」
秋「朱貴さん?」
朱「実は、これだけ心の居心地の良い場所があるとは思わず、こちらからお願いしたかったのですよ」
蒲「ほれ、秋山。見る目のある男ってのは必ずいるんだよ」
秋「分かりました。レナまではかなり歩きますが、海沿いをまっすぐ行けば着きますので」
朱「ありがとう、秋山さん」
蒲「釣りでもするか?」

・朱貴…海か。陳麗にも見せてあげたいな。
・秋山…私のホテルでも、この魚肉饅頭を出したいものです。
・蒲生…誰もいない海沿いにポツリとある一軒家にて、誰も乗らない船の管理をしている我が道を行きまくる老人。看護師の山根さんの叔父さん。

第十三話 肚

朱貴「結局ボウズでしたね」
蒲生「お前が辞めねえから、俺も辞められなかったじゃねえか」
朱「新しい魚肉を試せるかと思うと、辞められなくてね」
蒲「物好きだな」
朱「…おや?」
蒲「どうした?」
朱「蒲生さん、私の後ろに」
蒲「何だってんだよ」

朱「変な若者が船を漁っています」
蒲「よく分からんが」
朱「こんな所に来るだけでも不思議なのに、挙動からなにから怪しすぎるな」
蒲「土崎に言われたらむかっ腹が立ちそうだが、お前だとなぜかいう事を聞く気になるな、朱貴」
朱「何事もなければいいんですがね」
若者「なんだ、お前ら!」

朱「…」
若「船をよこしやがれ」
蒲「馬鹿言うんじゃねえ」
若「なんだと糞爺」
蒲「やんのか、若えの」
朱「蒲生さん」
若「!」
蒲「野郎、匕首持ってやがる…」
朱「…」
若「くたばれ!」
朱「!」
若「!?」
朱「刃物は人に向けるもんじゃない」
蒲「…」

朱「蒲生さん、その刃物を預かっといてください」
蒲「おう…」
若「離しやがれ!」
朱「そう言われて離すほど、私はお人好しではないよ」
蒲「おい、朱貴。あいつは…」
叶「旱地忽律?」
朱「やあ、叶。こんなところで一体何を?」
叶「俺の台詞を先に取られちまったか」
朱「叶にこいつを託していいかな」
叶「おう、喜んで」
朱「離してやるぞ」
若「なんだてめえ!」
叶「」
若「︎!?」
叶「ちょっとこいつと逢引してくるから、絶対に、邪魔しないでくれ」
朱「人の恋路は邪魔するもんじゃないですよね、蒲生さん」
蒲「…」

朱「蒲生さん?」
蒲「…今になっておっかなくなってきたぜ」
朱「そういうものです」
蒲「命拾いしたのかな、俺は」
朱「かもしれませんよ?」
蒲「朱貴」
朱「なんでしょう?」
蒲「お前のためならどんな時だろうと、この俺が船を出してやる」
朱「それは助かります」
蒲「…一回だけだからな」

・朱貴…あの程度のチンピラじゃ、梁山泊でも門前払いですよ。
・蒲生…若い頃なら何とかなったかもしれんが…

・叶…まさか旱地忽律がいるなんてな。

第十四話 沈黙

蒲生「強ええんだな、朱貴は」
朱貴「私など、梁山泊でも下から数えた方が早いですよ」
蒲「えらい肚が座ってたじゃねえか」
朱「刃物とチンピラが怖いんじゃ、梁山泊の料理人は務まりませんよ」
蒲「違いねえ」
叶「おう、お前らの恋路も邪魔しちまったか?」
蒲「バカ言え」

朱「あいつは?」
叶「俺に惚れちまったのか、胸を押さえてうずくまってるよ」
朱「やれやれ」
蒲「…お前らといると、何かが麻痺しちまいそうだ」
叶「ここに住んでるだけで、立派に麻痺してるよ、蒲生の親分」
朱「それで、なぜあの若者はこんなところに?」

叶「…旱地忽律ならいいか」
朱「何がだ」
叶「俺の雇い主の誤算でね」
朱「何を言っている」
叶「お前が呑気に饅頭を蒸してた裏で、この街はずっと大騒ぎしてたんだよ」
朱「話せ、叶」
叶「…俺の雇い主が来るから、そいつに聞くんだな」
朱「蒲生さんが死んだかもしれんのだぞ」

叶「だからお前がいてくれて助かったんだよ、旱地忽律」
朱「さっぱり分からん」
叶「分からん方がいい」
朱「そういう訳にいくか」
叶「…分かったら、もう後には引けんぞ」
朱「どうでもいい。私は蒲生さんを死なせたかもしれん、お前らに腹を立てている」
叶「…着いたか」

キドニー「叶、ここに美竜会のチンピラが」
叶「旱地忽律が食い殺しちまったよ」
朱「適当なことを言うな」
キ「なぜお前がここに…」
朱「この景色と雰囲気が気に入ってね、一夜の宿を借りていたところさ」
叶「感謝しろよ、キドニー」
キ「…」

朱「私はこの街の昔のことは知らないが、今起きたことまで知らないふりをする訳にはいかん」
キ「…高村は?」
叶「坂井の小僧と一緒さ」
蒲「てめえら、おっかねえ話は外でやりやがれ」

朱「話せ、キドニー」
キ「700年前の男に話したところで、分かる話じゃない」
朱「蒲生さんが」
叶「それはお前のおかげで助かった、と言ったぞ」
キ「この国じゃ土下座って謝り方があるが、それでもさせようってのか?」

朱「…そんな事はどうでもいい」
叶「まぁ、キドニーの心の棺桶が一つ増えなくて済んだってことでいいじゃないか」
朱「少し黙ってくれ、叶」
叶「俺は沈黙ってやつが耐えられないのさ」

・朱貴…キドニーも叶も人の命を何だと思っているんだ。
・蒲生…いつ死んでも良いとは思っていたが、生きるってのも満更でもねえかもしれねえや。

・叶…ブラディ・ドールまで乗せてってやるから許してくれよ。
・キドニー…俺としたことが…蒲生の爺さんは少々堪えたかもしれん…

第十五話 墓碑銘

朱貴「坂井、その傷は?」
坂井「なんでもねえよ」
朱「ならいい」
坂「…聞かれねえと、それはそれで癪だな」
朱「めんどくさい奴だな」
坂「侍野郎に斬られちまってな」
朱「侍野郎?」
坂「日本刀って知ってるか?」
朱「よく切れる剣、みたいなもんか?」
坂「それでやられちまってな」
朱「だから片手しか使わなかったのか」
坂「ドクに治してもらったよ」
朱「梁山泊にもドク先生みたいな医者がいるよ」

朱「そういえば、藤木は?」
坂「…」
朱「何か知っているな、坂井」
坂「…」
朱「この話は、ならいい、で済ませたくないんだが」
坂「…」
朱「…分かったよ、坂井」
坂「…」

朱「しかし、その胸に閉まっている火をつける箱は、藤木のだよな?」
坂「!」
朱「…」
坂「…社長にも、黙ってる話だ」
朱「それで概ね察したよ」
坂「あんたが先輩じゃなくて本当に良かったぜ、朱貴」

川中「おう、神崎」
朱「川中殿」
川「今日はお前に作ってもらおうかな」
坂「社長、それは」
川「俺に隠し事してる小僧の酒が、美味いわけないだろう?」
朱「隠し味が美味いのは、魚肉饅頭だけで充分ですよね、川中殿」
川「…神崎?」
朱「…失礼しました」
川「昔、神崎がそんなことばかり言っていたな…」
坂「…」
川「坂井、神崎に作り方を教えろ」
坂「…かしこまりました」

川「やあ、ドク」
ドク「今日の酒は?」
川「神崎が作った」
朱「ここでは、神崎です」
ド「面白いね」
川(…経過は?)
ド(…人体の神秘ってやつかな)
朱「ドク先生、陳麗は…」
ド「…会う前に治療費ってやつを払ってくれ」
朱「それは、この店とレナで身を粉にして働きますので…」

ド「ここじゃ、魚肉饅頭は出さないのか?」
川「出したいのも山々だが、家で出すわけにいかんだろ?」
ド「確かに、食うならレナだな」
朱「饅頭ならレナでいくらでも作りますが…」
ド「じゃあおまけに作り方も教えてくれよ」
朱「…ドク先生?」
ド「それでいい」
朱「なぜ?」

ド「…俺の愛人がお前に感謝しててな」
朱「それは?」
ド「蒲生の爺さんを助けたんだろ?」
朱「成り行きでしたがね」
川「何があった、神崎」
朱「チンピラを追い払っただけですよ」
ド「愛人から聞いたんだが、朱貴がいなかったら、爺さんは死んでいたかもしれん」
川「そんなことが…」

朱「叶とキドニーが自分たちの失策だと、言っていましたが」
川「坂井」
坂「…」
川「藤木とお前は、この事を知っていたのか?」
坂「…俺は、初めて知りました」
川「…」
ド「愛人の大恩人だからな」
朱「…それで、よろしいのですか?」
ド「料理をするのは嫌いじゃないんでね」

川「またな」

「藤木さんは?」
「さあね。今日は会ってません」
「主治医に嘘をつくもんじゃないぜ」
「社長が、出ろなんて言うもんだから、俺」
「藤木さんだろう、言ったのは。どこへ行ったんだ?」
「知りませんよ」

「けだものの躰、人間の心」
「なんです?」
「そのライターには、そういう墓碑銘でも刻むといい」

坂「…」
朱「…坂井?」
坂「…」
朱「お前が杯を落としかけるなんて珍しいじゃないか」
坂「…」
朱「…藤木か?」
坂「…」
朱「私からは何も聞かないよ」
坂「…」
朱「だけど、藤木のために出来ることがあったら、喜んで力になるからな」

・朱貴…久しぶりのブラディ・ドールは不穏な匂いがした。

・坂井…なんなんだよ、あの人たちは…
・川中…藤木に何があったんだ…
・ドク…つい最近、藤木に助けられてね。危うく死ぬ所だったよ。

第十六話 命

朱貴「いつも済まないな、坂井」
坂井「好きでやってんだから気にすんな」
朱「私でも車を動かせるかな?」
坂「免許ってやつがいるぜ」
朱「出来るようになったら、梁山泊の連中に自慢できそうだ」
坂「…お前のバーテンの服の持ち主がいてな」
朱「松野という…」

坂「店じゃ下手くそな酒しか作らねえおっさんだと思ってた」
朱「違ったのか?」
坂「それが、社長や藤木さんと一緒にいる時だけは、俺には到底作れん酒を容易く作った人だった」
朱「そんな男がいたのか…」
坂「朱貴もそんな感じだ、と思ったよ」
朱「褒められたのか?」

朱「…神崎という人は知っているか?」
坂「俺は会ったことがねえ。社長の相棒だった、って話を少しだけしか知らない」
朱「私が来る前から、この街は色々あったのだろうな」
坂「…そうだな」
朱「…今も?」
坂「…」

朱「坂井、車を止めろ」
坂「!」
朱「あれは藤木じゃないか」
坂(しまった、今日は…)
藤木「…」
朱「藤木!」
藤「今日は一人で来い、と言ったはずだ坂井」
坂「…」
朱(なんて殺気だ)
藤「少し外してくれ、朱貴」
朱「血が臭うぞ、藤木」
藤「…」

朱「外す前に、これだけは言わせてくれ」
藤「…」
朱「私はお前の友だ」
藤「…」
朱「会って間もないし、それほど話してもいないが、私は友だと思っている」
藤「…」
朱「あと、坂井はいじめないでくれよ。車がないと、私は帰れないんだ」

藤「…私が送りましょう」
朱「坂井は?」
藤「歩いてレナまで行かせます」
朱「いじめるなと言ったのに」
藤「約束を守らん男には、けじめをつけさせんと」
朱「遠いぞ」
藤「坂井の心配は無用です」
朱「お前の心配は?」
藤「不要です」

朱「川中殿も心配しているぞ」
藤「…」
朱「私はお前の過去の詮索などする気は無い」
藤「…」
朱「しかし、またブラディ・ドールでお前と働きたいし、饅頭を食ってもらいたいと思っている」
藤「…」
朱「お前はバーテンの腕も一流だと川中殿も言っていたぞ」
藤「…」
朱「一度私にも振舞って」
藤「朱貴」
朱「…」
藤「…その辺にしといてもらえませんか」
朱「…」
藤「…」

朱「…そんなに死にたいのか、藤木?」
藤「…生きてることが許されねえだけですよ」

・朱貴…嫌な予感しかしないぞ…

・坂井…歩いてレナに行く程度、なんてことねえよ…
・藤木…もう何も言うこたねえです。

第十七話 兄弟

朱貴(あの藤木の目は、何を見てきた目なのだ…)
安見「朱貴さん、大丈夫?」
朱「どんな風に見えているかな?」
安「とても辛いことがあったような顔してる」
朱「…今日の海は荒れそうだね」
安「なんだか外に出たくない気分」
男「…」
安「いらっしゃいませ!」
男「…」
安「コーヒーセット、一つ!」
朱「了解」

男「…」
朱(只者ではなさそうだが…)
男「…」
朱(美味そうに食う人だな)
男「…」
朱(気にしすぎかな)
男「…あの」
安「どうなさいましたか?」
男「…」
安(朱貴さん。あちらのお客様がお願いしたいことがあるそうです)
朱(なんだろう?)

男「こんな事するのは、生まれて初めてなんですがね」
朱「はい」
男「こんな美味いものを作る人の顔を拝みたくて」
朱「恐縮です。お客様」
男「…この饅頭の持ち帰りはできませんか?」
朱「喜んで、お包みいたしますよ」
男「二つ、頼めるかな?」
朱「かしこまりました」

男「どうしてもこの饅頭を食ってほしい人がいるんでね」
朱「料理人冥利に尽きます」
男「コーヒーを飲んで待ってるよ」
朱「準備をしてまいりますので、しばしお待ちを」
男「いい店だね。コーヒーも美味い」

朱「お待たせいたしました」
男「わざわざ出来立てを用意してくれたんですか」
朱「当然のことです」
男「…香りが違いますな」
朱「蒸す時に少々酒を加えました」
男「酷ですよ、料理人さん」
朱「お酒はいけませんでしたか?」

男「とんでもない。こんな美味そうなもんを、兄貴に持って行くまで我慢しなくちゃいけなくなっちまった」
朱「それは自分との戦いになりますな」
男「…」
朱「…お兄さんがいらっしゃるので?」
男「…血は繋がってないけどな」
朱「…遅くなりましたが、神崎、と申します」
高村「失礼。高村と言います」

朱(キドニーが言っていた人か?)
高「そのままでも美味かった饅頭が、酒で蒸したらどれくらい美味くなるのかな」
朱「お兄さんと一緒に召し上がってください」
高「ありがとう」
安「ありがとうございました!」
朱「是非ともまたお越しください」
高「また、か」
朱「?」
高「また、来るよ」

・朱貴…高村さんのあの目は…
・安見…すごく美味しそうに食べる人だったわね、朱貴さん・

・高村…こんなに美味い饅頭、兄貴は食ったことないだろうな。

第十八話 勘

安見「…神崎さん?」
朱貴「安見。大事な質問だ」
安「どうしたの?」
朱「高村さんはあの饅頭を、誰とどこで食べると思う?」
安「?」
朱「安見の女の勘で、一緒に考えてくれ」
安「…誰かは分からないけど、場所はきっと、この道沿いの海のどこかね」

朱「そうだな。この辺で誰かと食べるなら、海で食べるだろう」
安「きっと、お饅頭が冷めないくらい近くで誰かと食べるわね」
朱「高村さんは真っ黒な車で来ていたな」
安「蒲生さんの道の方に走って行ってた」
朱「蒲生さんの所…」

菜摘「車出す?」
朱「お願いします。菜摘さん」
安「ちょっと待って、朱貴さん」
朱「高村さんは藤木の弟分だよ、安見」
安「…なんで分かるの?」
朱「梁山泊で、何人のならず者を相手したと思う?」
菜「梁山泊の男の勘ってやつ?」
朱「そうです」

菜「あなたのならあてになりそうね」
朱「これほど外れてほしい勘はありませんよ」
菜「蒲生さんの所に送って行くわね、安見」
安「お店は閉めておくね」
朱「行ってくるよ」
安「気をつけてね、朱貴さん」
朱「ありがとう、安見」
安「…」

菜「藤木さんと何かあった人なのね?」
朱「藤木と、全く同じ目をしていたんでね」
菜「蒲生さんの所に行って、どうするの?」
朱「船を出してもらって、何としても二人を探し出す」
菜「そう…」
朱「兄弟か…」
菜「…」

朱「…私にも弟と妹がいてね」
菜「…」
朱「あと、姉がいた」
菜「…」
朱「綺麗で、優しくて」
菜「…」
朱「大好きな姉だったんだが…」
菜「…」
朱「今思うと、陳麗と同じ病だったのだな…」

菜「朱貴さん」
朱「死にませんよ、私は」
菜「そう言って、何人この街で死んだのか分かってるの?」
朱「陳麗に会うまで、死んでも、死にませんから」
菜「…全く」
朱「…そろそろ、着きますな」
菜「朱貴さん」
朱「…」
菜「陳麗さんが元気になったら、何をするつもり?」
朱「ご心配なく」
菜「?」
朱「もう既に、たくさん考えてありますから」

・朱貴…なんだか、朱貴と名乗ったらマズイ気がしたのさ。
・安見…すごく、嫌な予感がする…
・菜摘…旦那より空気は読めるけど、やっぱり同じくらいバカね。

第十九話 船

朱貴「蒲生さん」
蒲生「朱貴か?」
山根「あら」
朱「船を出してください」
蒲「なんだって?」
朱「約束したでしょう」
蒲「今いい所なんだが…」
山「早くしないと詰むわよ、叔父さん」
蒲「くそっ」

山「叔父さん」
蒲「なんだ」
山「飛んでよ」
蒲「…」
山「もう一度」
蒲「…行くぞ、朱貴」

朱「さっき、車が通りませんでしたか?」
山「家に来ました」
朱「黒い車だったのですが」
山「まるで、柩みたいな車ね?」
朱「…はい」
山「ここに止めようとしたけど、私たちがいたから諦めたみたいだった…」
朱「どちらへ行きましたか?」
山「さらに奥の方、人のいない方へ」

朱「ありがとうございます。山根さん」
山「…」
蒲「一人にしてすまねえ、智子」
山「大丈夫よ。慣れてるから」
蒲「さっきの車のいそうな所に行けってんだろ?」
朱「はい」
蒲「なら車より船のが断然速え」
朱「よろしくお願いします」
蒲「男の約束だからな」
山「死なないようにね」
朱「妻に会うまでは、死んでも死なないよ」
山「…止めないわよ」

蒲生「荒れてやがるな」
朱貴「全くです」
蒲「まるで俺たちを拒んでいるかのようだ」
朱「でも蒲生さんなら大丈夫でしょう?」
蒲「当たり前だろう。俺の縄張りだ」
朱「頼もしい」
蒲「おまけにこの船の道は、土崎って野郎が見つけた道だ」
朱「つまり、大船に乗った気持ちでいていい、って事ですな」
蒲「そうとも。あいにく小舟だがな」

蒲「前に、画家の男がお前みたいに乗り込んできたんだよ」
朱「その人は?」
蒲「女のために崖を素手で這い上ってな」
朱「なんと」
蒲「それで言いたいこと言って、降りてきやがったんだ」
朱「会ってみたいですね」
蒲「この街にいるぞ」
朱「縁がありそうです」
蒲「あるさ。お前も同じくらい馬鹿だからな」
朱「馬鹿同士が引かれ合うんですかね」
蒲「この街は、いつもそうさ」

蒲「そら、見つけたぞ」
朱「あの車!」
蒲「あいつは…」

藤木「…」
高村「…」

朱「藤木だ!」
蒲「あいつら、二人とも匕首持ってやがるぞ…」
朱「早く付けてくれ、蒲生さん!」
蒲「最高速度だよ」

高「!」
藤「」
高「…」
藤「」

朱「藤木!高村さん!」
蒲「なんてこった…」

朱「藤木!」
藤「…」
朱「なんでこんな事に…」
藤「返さんと」
朱「何を…」
藤「やつの匕首を」
朱「抜くな!藤木!」
藤「やつの命なんだよ」
朱「抜くとお前まで死ぬだろう!」
藤「…返させてください」
朱「!」
蒲「朱貴!」

藤「…朱貴?」
朱「私も、お前と同じところに、匕首を刺したぞ」
蒲「いつの間に、あの小僧の匕首を…」
藤「…なぜ?」
朱「私も、梁山泊の男だからな」
藤「…」
朱「お前が抜いたら、私も抜くからな」
藤「…」
蒲「あれは…」

川中「助けてやってくれ。助けられるものだったら、なんとかして助けてやってくれ」
ドク「わかってる」
川「これ以上、友だちに死なれたくない」
坂「藤木さん!朱貴!?」
川「朱貴だって?」
坂「なんでだよ、なんでなんだ」
蒲「お前たち!」

朱「やあ」
藤「…」
ド「二人も…」
蒲「おい、医者」
ド「無駄口を叩いている暇は…」
蒲「俺は昔船医やってたって言ったら、助手にしてくれるか」
ド「…急ぐぞ」
蒲「合点だ」
ド「刃物を抜いてなくて正解だった」
藤「…」
ド「痛いが、我慢しろよ」
朱「…お前が死んだら、私も死ぬからな、藤木」
藤「…」
朱「なんだ、藤木」
藤「馬鹿野郎が」
朱「お前もな」

・朱貴…痛みが何かを癒すってのは、本当だな。

・蒲生…切腹でもしようってのかよ…
・山根…死にに行く男は止めない主義なの。私。

・藤木…やっと死ねると、思っていたのに…
・高村…最期に兄貴と美味い饅頭が食えて、幸せだったぜ。

・川中…馬鹿野郎どもめ…
・坂井…何かが、変わったのか?
・ドク…手際が良すぎるぞ、蒲生の爺さん…

第二十話 ライター

ドク「やれやれ」
蒲生「意外とできるもんだろ?」
ド「妙に準備が良かったな」
蒲「智子が持たせてくれたのさ」
ド「優秀な人が多いね、あんたの家は」
蒲「二人だけさ」
藤「…」
朱「…」
坂井「高村さん…」
朱「…二人で食ったんだろ、藤木」
藤「…最後の、晩餐でした」
朱「…高村さんのな」

藤「最後に、借りちまった」
朱「饅頭の借りだな」
藤「デカすぎます」
朱「私は二度と、酒で饅頭を蒸すのをやらないよ」
藤「…」
朱「高村さんほど、美味そうに饅頭を食う客はいなかったからな」
藤「…餓鬼の頃から、そうだったんでさ」

ド「お前らに入院してもらいたいところだが、寝床が無くてな」
藤「…その辺に転がしといてください」
川「馬鹿言え」
秋山「川中!」
川「おう、誂えたように」
秋「菜摘と安見からの知らせで飛んできた」
川「お前の所に、この馬鹿どもを泊めてやってくれ」
秋「分かった。良い部屋を用意してやる」

ド「あまり動かさんようにな」
蒲「智子に世話をさせよう」
藤「…」
朱「お前が逃げても、死ぬからな、藤木」
藤「…面倒な鰐に食いつかれちまった」
朱「私のあだ名、忘れたのか?」

叶「旱地忽律」
朱「よく会うな」
叶「誰にやられた?」
朱「お前に恋した若造さ」
叶「嫉妬されちまったか」
坂井「…余裕あるな、朱貴」
朱「それが、何かを取り戻したような気持ちでね」
叶「…あいつは?」
川「藤木の、兄弟分だ」
藤「…」
叶「死者の声が聞こえてね」
川「叶」
叶「後始末は死神の仕事さ」

藤「独りに、させてください」
川「家の優秀な支配人を、逃すわけにいかん」
藤「…死ねる、はずだったのに」
川「生きてることを後悔させるほど、働かせてやるよ」
藤「今、後悔してます」
川「藤木」
藤「…」

川「生きていることを、後悔するような夜ばかり過ごしているのは、お前だけだと思っているのか?」
藤「…」
川「死なない自分を、憎まない日がないのは、お前だけだと思っているのか?」
藤「社長」

「命、粗末にしないでください」
「説教か、こんなになっても」
「あんたは、やりかねん」
「そういう時は、命を棒に振りかけた馬鹿な友だちのことを、思い出すことにするよ。藤木年男って馬鹿野郎をな」

「藤木、で生きますか」
「当たり前だ。俺と坂井と、秋山と叶とドクと、蒲生と朱貴が見てる」
「いい思い、させてください。社長の下で」

「ライター」
「えっ、ライターがなんだって?」
「返してくれ」

・朱貴…男が立った料理ってやつが、またできそうですよ、宋江殿。

・藤木…嬉しそうにしてんじゃねえ、朱貴の大馬鹿野郎。
・ドク…藤木の傷は、思ったよりも単純だったな。
・蒲生…高村の方の傷が…
・川中…これで色々失わなくてすみそうな気がするよ。俺の、あてにもならん、勘だが。
・坂井…こんなライター託されて、どうにかなっちまいそうだったよ。
・叶…俺の手は、これ以上汚れることもできんほど、汚れているからな。
・秋山…あらかじめ、土崎に道を聞いといて正解だったよ。

第二十一話 梁山泊

朱貴「豪華な部屋だな」
川中「一番いい部屋か」
秋山「泊まる人は滅多にいないぞ」
藤木「…」
川「たまには贅沢させてやるよ」
秋「提携先のブラディ・ドールの支配人をもてなすには、これくらい用意しないとな」
藤「…床で寝ます」
川「本当に野暮な野郎だ」
朱「養生するぞ、藤木」

朱「だいぶ動けるようになったな」
川「よう」
朱「川中殿」
川「藤木は?」
朱「床で寝てます」
川「あの馬鹿」
朱「それが違うんです、川中殿」
川「?」
朱「寝相が悪いんです、あいつ」
川「…傷に響かねえのか?」

川「聞きたいことがあってな」
朱「…」
川「なぜあの場にいたんだ、朱貴?」
朱「神崎、ではないのですか、川中殿?」
川「そうだった」
朱「…」
川「…」
朱「川中殿?」
川「神崎と松野が、いてくれたのかな」
朱「…」
川「兄弟は、神崎?」
朱「弟と妹が」
川「内田、もいたのか」
朱「…」

川「そういうことに、しておこうか」
朱「私たちの間では、ですね」
川「…礼は言わんよ、神崎」
朱「言われても困りますな。好きでやったことですから」
川「お前も馬鹿野郎だな、朱貴」

安見「朱貴さん!」
朱「やあ、安見」
安「あの時すごい嫌な予感がしたの」
朱「安見の女の勘は、よく当たるもんな」
安「本当に良かった…」
朱「ドク先生に良いと言われたら、また饅頭をご馳走するからね」

安「…朱貴さん」
朱「どうしたんだい?」
安「水滸伝、全部読んだわ」
朱「どうだった?」
安「…」
朱「…一つだけ教えてくれるかな」
安「なに?」
朱「その物語の朱貴は、どうなるんだい?」

安「…朱貴さんと弟さんが一緒に居酒屋をやっていたわ」
朱「弟も出るのか?」
安「朱富っていうんだけど」
朱「同じ名だよ、安見」
安「本当に?」
朱「これからきっと、そうなるんだろうな」

安「それでね…」
朱「…」

朱「そうなのか…」
安「これが、水滸伝の朱貴さんの運命よ」

朱「安見」
安「…」
朱「それはこの書物の、物語の朱貴の運命だろう?」
安「朱貴さん?」
朱「ここにいる朱貴とは、全然関係ないじゃないか」
安「そうね!」
朱「物語の朱貴はそうかもしれんが、この朱貴の物語はこれからも続くだろう?」
安「朱貴さんの物語か…」

朱「安見もどんな物語を紡ぐんだろうね」
安「…実はあまり良い予感がしないの」
朱(苦労人の相があるんだよな、安見は)

安「遠山先生!」
遠山「やあ、安見ちゃん」
安「朱貴さんは知ってる?」
遠「…噂の700年前の人、ですかな?」
朱「そうです」
遠「私は遠山と言います。しがない絵描きです」
安「何言ってるの、あの絵は遠山さんの作品じゃない」
朱「見事な…」
遠「恐縮です」

朱「…もしかして、蒲生さんとお知り合いですかな?」
遠「一生の友だちですよ」
朱「実は私も、蒲生さんの船に乗せてもらいましてな」
遠「それは珍しい」
朱「あなたの事を少し聞きました」
遠「そうでしたか…」
朱「…」

遠「実はつい最近まで、手が動かなくなりかけていたのですがね」
朱「なんと」
遠「桜内先生に手術をしてもらったら、動くようになってきたんです」
朱「ドク先生の腕ならそうでしょうな」
遠「でもね」
朱「?」

遠「確かに手術は成功したのですが、それにしても、妙に治りが早いというか、元に戻るのが早すぎる気がしてならないのですよ」
朱「…」
遠「これは朱貴さんと安見ちゃんにしか話しませんが」
安「なに?」

遠「実は最近、美しい女神様が出てくる夢を見ましてね」
朱「…」
安「…」
遠「美しい湖畔と豊かな緑に囲まれた地に誘われる夢だったのですよ」
安(それって…)
朱「まるで、梁山泊のようですな」
遠「そうかもしれません」

朱「私と妻は梁山泊から来ましてね」
遠「ならば、私の梁山泊が描きあがったら、始めに見に来てください」
朱「それは?」
遠「私の手が治ってからの、初めての作品を」

・朱貴…藤木も、鈍臭いところがあるんだな。
・藤木…フカフカのベッドで寝るなんて、男がやることじゃねえ。

・川中…朱貴に藤木の寝顔の写真を撮るよう伝えてくれ、秋山。
・秋山…意外に可愛いかもしれんぞ、川中。

・安見…もしかして、九天玄女様かな?
・遠山…一流の画家。崖登りの弊害で、手が動かなくなりかけたところを、ドクの手術で助けられた。しかし、それ以外の要因もあったかもしれない。

第二十二話 涙

ドク「経過は順調だな」
朱貴「あなたと蒲生さんのおかげです」
藤木「…」
ド「けだものの躰の持ち主は、傷の治りも随分早いな」
藤「…」
朱「それに、人間の心も加わりますからな」
ド「…そうだな」

朱「それでドク先生、陳麗は…」
ド「…残念だ、朱貴」
朱「まさか容体が…」
ド「死の病でも、死なない女だ」
朱「…それは?」
ド「…もう俺の手に負えんから」
朱「…?」
ド「付いて来られちまった」
陳麗「あなた!」
朱「陳麗!」

ド「なあ、藤木」
藤「…」
ド「この女が、ついこの間まで白血病の末期患者だったって言ったら、あんた、信じられるか?」
藤「…嘘でしょう」
朱「陳麗、お前…」
陳「なんですか?」
朱「心なしか、たくましくなってないか?」
陳「気のせいです」
ド(絶対あいつのせいだ)

朱「本当に、こんなことが…」
陳「血を分けていただいた方のおかげですよ」
朱「是非一度会って、お礼を言いたいな」
藤「…もう何回も言っていますよ、朱貴」
朱「何をだ?」
藤「さて」
朱「?」

川中「機嫌悪いな、坂井」
坂井「今までの俺の扱いが、雑だったもんで」
川「悪かったよ」

ド「お前らも、働いて問題なさそうだな」
陳「私は?」
ド「もう知らん。だいたいなんで、俺の居場所を必ず突き止めるんだ?」
陳「たまたま私の行きたいところに、先生がいるだけですよ」

蒲生「また負けた!」
山根「先生と叔父さんの手は、見え見えなのよ」
土崎「大した姪っ子だな、親父さん」

菜摘「あなたが陳麗さんね」
安見「はじめまして!」
陳「夫がお世話になります」
菜「あなたの旦那さんのおかげで大繁盛よ」
安「私のお小遣いも増えた!」
朱「…久しぶりに一緒に饅頭を作ろうか、陳麗」
陳「はい!」

朱「…」
陳「?」
朱「…陳麗」
陳「あなた?」
朱「また二人で、一緒に店をやれるのだな…」
陳「…そうですね」
朱「陳麗」
陳「はい」
朱「いま、ここで泣いてもよいか」
陳「…はい」

・朱貴…ここに来て、良かった…
・陳麗…こんな幸せを、また噛み締められるなんて…

・ドク…見ろ藤木。あの女の闘病記録だ。
・藤木…こんな容易く治るもんなんですか、白血病って…

・川中…今週の俺に出す酒は、全部お前に任せるよ。
・坂井…しょうがないですねえ。

・蒲生…俺が少し教えた途端にみるみる上達しやがったんだ!
・山根…陳麗さんとは良い友達になれたわ。
・土崎…この街は香車みたいなやつばっかだよな、智子ちゃん。

・菜摘…今日は厨房に行かないで、安見。
・安見…分かってるわよ。パパじゃないんだから。

第二十三話 再会

キドニー「…」
陳麗「いらっしゃいませ!」
キ「おや、朱貴の女房じゃないか」
陳「あなたは?」
朱貴「私たちは、キドニーの岩というところで、彼らに助けられたんだよ」
陳「命の恩人様でしたか。心より御礼を申し上げます」
キ「律儀な夫婦だね、おたくら」

キ「死にかけたらしいじゃないか、朱貴」
朱「今は問題ないよ」
キ「藤木も、死にかけたらしいな」
朱「…まあな」
キ「あいつの本当の名は立花と言って、何度も死にかけた男なんだがね」
朱「…」
キ「今度こそ死ぬかと思っていたが、また生き長らえちまったってわけか」
朱「…私が余計な事をした様な口ぶりだな」
キ「そりゃそうだろう」

朱「キドニー」
キ「本気で死を覚悟した男の隣で、自分も死ぬとほざいて腹に匕首刺す野郎の、どこが余計じゃないってんだ?」
朱「…改めて人に言われると、全くもってその通りだ」
キ「だろう?」
陳「あなた…」

キ「まあ、そんなことはどうでもいいさ」
朱「…」
キ「俺の事も片付いたんでね」
朱「…」
キ「お前ら二人を、俺の岩に招待してやるよ」
朱「それは」
陳「私たちのたどり着いたところ、ですよね」
キ「選ばれし者しか来る事を許さん場所だがね」
陳「すると私たちも、選ばれし者ということですね」
キ「本当は不法入国で訴えてやりたいところだ」
朱「その時は弁護士をよろしく頼みます」
キ「バカ言え」

キ「…」
朱「…」
陳「…」
朱「…ここに来た時のことを覚えているか、陳麗?」
陳「湖に落ちた後のことは、何も…」
キ「あの時はたまげたよ」
朱「この場所は、不思議な所ですね」
キ「また梁山泊の奴らがたどり着くかもしれんのか?」
朱「いい奴ばかりなんで、その時はまたどうぞよろしくお願いしますよ」
キ「二度とごめんだ」

朱「…安見に水滸伝という書物の話を聞いてね」
陳「水滸伝?」
キ「梁山泊が出てくるおとぎ話さ」
陳「そんなお話が?」
朱「それに、私と同じ名前の人物が出てくるんだ」
陳「本当ですか?」
朱「私だけじゃない」
陳「…」
朱「宋万、杜遷、林冲。それに、王倫の名もあった」
陳「それは…」

朱「しかし、安道全や薛永、焦挺の名は無かったな」
キ「そいつらの出番は中盤以降だ、朱貴」
朱「キドニー?」
キ「ネタばらしになるから、それだけ教えてやる」
陳「…水滸伝、好きなのですか?」
キ「まあな」

朱「一つだけ知りたいことがあって、安見に聞いたことがあるんだ」
陳「…」
朱「物語の私が、どうなるのかを」
陳「…」
朱「病で、死ぬそうだ」
陳「そんな」
朱「もしかしたら、だけどな」
陳「…」
朱「私が病で死ぬ運命を、陳麗が引き継いだんじゃないか、と思ったんだ」
陳「…」
朱「そんな気がした、というだけだけどな」
陳「あなた」
朱「…」
陳「私の病は、治りましたよ」
朱「血を入れ替える治療など、安先生が知ったらどんな顔をするかな」

キ「…」
朱「パイプの煙が濃いぞ、キドニー」
キ「女性に対して非常に失礼なんだが、なぜかお前の女房から嫌な臭いがするんだ」
陳「まあ」
朱「失礼だ!」

川中「トイレが近いな、蒲生の親分」
蒲生「うるせえ」
川「腎臓を、あいつに一つ分けてやれ」
蒲「馬鹿野郎」

キ「冗談はさておき」
朱「冗談じゃない!」
キ「多分お前らとは、これで別れると思う」
朱「キドニー?」
キ「そんな気がするよ」
陳「…どういうことですか?」
キ「あんたらそろそろ梁山泊に帰れるんじゃないか?」
朱「…何を根拠に?」
キ「弁護士の勘さ」

キ「朱貴」
朱「…」
キ「蒲生の爺さんの件は、本当に助かった」
朱「私が助けたのは蒲生さんだが?」
キ「…お前は俺も、助けてくれたんだ」
朱「私は出来ることをやっただけさ」
キ「…」
朱「らしくないぞ、キドニー」
キ「知ったような口を」

キ「お前らをレナに送ったら、さよならだ」
朱「ずっと気になっていたのだが、お前はどういう病なのだ、キドニー?」
キ「キドニーの意味も知らんで呼んでいたのか」
朱「今更だが、なんのことなんだ?」
キ「今更にもほどがある」
朱「すまん…」
キ「俺の身体には腎臓が無くてね」
朱「なんと」
キ「ゴツいキドニーブロー。ゴツく腎臓を殴られて、無くしちまったのさ」
朱「…」

朱「そろそろ着くな」
キ「せいぜい達者でやれ、朱貴」
朱「お前もな、キドニー」
キ「…陳麗さんよ」
陳「なんでしょうか?」
キ「一度だけ、あんたのために作った名で、呼んでもいいかい?」
陳「…どうぞ」
キ「…」
陳「…」
キ「さよならだ、美津子」
陳「…」

・朱貴…キドニーだけは、分からん奴だよ。
・陳麗…美津子さんか…

・キドニー…たまにはらしくねえ事したっていいだろう?川中のバカみたいなことを。

・川中…朝から酒かい、蒲生の親父?
・蒲生…朱貴に助けられてから、生きるのが愉快でな。

第二十四話 ブラディ・ドール

坂井「すっかり様になったな、朱貴」
朱貴「お前の教え方が上手いんだよ、坂井」
坂「のせてくれるぜ」
朱「梁山泊に帰ったら、皆にどんな酒を振舞ってやろうかな」
坂「驚くだろうな」
陳麗「あなた!」
朱「陳麗、その衣装は…」
川中「本人の強い希望だ、神崎」
朱「…」
坂「バーテンが手を止めるな、朱貴」

藤木「…」
朱「やあ、藤木」
藤「…」
川「この店はお前がいないと回らないが、お前がいるのもなんか変な気分だよ、藤木」
藤「…酷です、社長」

ドク「…」
叶「よう、旱地忽律」
朱「やあ、みんな」
叶「!」
陳「?」
叶「俺の天使」
朱「私の女房だ、叶」
陳「夫がおりますので…」
叶「喋りすぎだぜ、俺の天使」
陳「やめてください!」
叶「!?」
坂「叶さんが、吹っ飛んだ…」
朱「陳麗、お前…」
陳「見なかったことにしてください」
川(…誰のせいだ?)
ド(お前だよ)

陳「申し訳ありません、藤木さん」
藤「当店の女性への乱暴は、ご遠慮ください」
叶「俺が乱暴されたんだが…」
ド「…ところで知ってるか、朱貴?」
朱「何を?」
ドク「蒲生の爺さんの住まいが病院になるらしい」
川「そうか。もう始めるのか」
朱「住まいはどうするのかな?」
叶「土崎の船に転がり込むって言ってたよ」
坂「なんだか、この店に新しい奴が加わりそうな気がしますね」
川「バーテンの勘か」

土崎「勘弁してくれよ、親父さん」
蒲生「観念しろ、土崎」

下村(なんだこのおっさん)

沢村「…」
川「よう、来てくれたか」
沢「…あなたは?」
陳「この店では、美津子と呼んでください」
川「…」
沢「あなたが、神崎さんの奥様ですな」
陳「はい」

川(神崎美津子か…)
藤(取られちまいましたね、社長)
川(黙れ)

沢「…」
陳(何て美しい音色…)
沢「」
叶(こいつは…)
坂(明らかに、いつもと違う)
朱(まるで、何かが降りてきているかのようだ…)
川(…)
坂(朱貴!)
朱(分かってる)

沢「」
朱「…」
川「…」

沢「…」
叶「今日のあんたはどうしちまったんだ?」
沢「見えたんだ」
川「何が?」
沢「…女神が」
叶「気障な台詞を」
ド「お前が言うな」
沢「…」
陳「素敵な、曲でした」
沢「光栄です」

川「…」
朱「川中殿?」
川「秋山からだ、朱貴」
朱「何があったのですか?」
川「遠山先生の絵が描きあがったそうだ」
朱「それは」
陳「絵ですか?」
朱「梁山泊の絵を描いてくださる画家の先生だよ」
陳「まあ」
朱「まず、私たちに観せてもらう約束をしたんだ」
陳「それは楽しみです」

川「あがっていいぞ、朱貴」
朱「川中殿?」
川「絵を観てこいよ」
朱「よろしいので?」
坂「後は任せろ」
藤「私が、送っていきます」

叶「…まだ痛え」
ド「医者に診て貰えよ」
沢「あなたでしょう」

朱「…」
陳「…」
川「…またな」
朱「はい。また、会いましょう」
陳「お世話になりました」
川「あばよ、美津子」
陳「…」

藤「…」
朱「…」
陳「…」
朱「一度だけ、言わせてくれ、藤木」
藤「…」
朱「忘れるなよ、高村さんを」
藤「…」
朱「お前が忘れるわけがないとは思うが」
藤「…野暮です、朱貴」
朱「…一度だけだ」

藤「朱貴」
朱「?」
藤「こいつを」
朱「…包み紙か?」
陳「丁寧に折り畳んでありますね」
朱「これは?」
藤「…」
朱「…」
藤「…そういう奴、だったんでさ」
朱「大切にするよ」

藤「そろそろ降りる支度を」
朱「荷物は全部、梁山泊だがな」
陳「この世界の服は素敵なものが多いですね」
藤「お似合いですよ、二人とも」
朱「…」
陳「…」
藤「着きました」
朱「藤木」
藤「…」
朱「ありがとう」
藤「…どういたしまして」

・朱貴…あの服、夜にも来てくれないか、陳麗?
・陳麗…そういうのが好きなんですね、旦那様。

・川中…久しぶりに、呼んだ名前だ…
・坂井…叶さんを小僧呼ばわり出来るんじゃないかな、陳麗さん…

・叶…俺がブラディ・ドールになっちまう…
・ドク…その時は智子が舌舐めずりして診てくれるから、安心しろ。
・沢村…映子に似ていた、女神様だった…

・蒲生…この部屋は俺の寝床だからな、土崎。
・土崎…俺の部屋だ!

・下村…彼を捨てた婚約者を追って、S市にきた若者。S市の波乱は、まだまだ続きそうだ。

・藤木…律儀で真面目で不器用で、いい奴でした。

最終話 梁山湖

秋山「お待ちしてました」
安見「朱貴さん、陳麗さん!」
菜摘「早かったじゃない」
朱貴「川中殿が絵を見に行っていいと」
秋「遠山先生の部屋へ案内しましょう」
朱「お願いします」

菜「朱貴さん、あれは?」
朱「ここに」
秋「それは?」
菜「お饅頭のレシピよ」
朱「二部作りましたので、一部をドク先生に」
安「手書きね!」
菜「わざわざありがとう」
朱「どういたしまして」
安(コピー出来るって教えてあげたらいいのに)
菜(朱貴さんらしくていいじゃない)

秋「この部屋です」
朱「わざわざありがとうございます」
秋「仕事ですから」
安「この絵は、絶対に朱貴さんと陳麗さんに最初に見せるんだって、覗かせてもくれなかったのよ」
朱「私たちが見終わってからのお楽しみだな」
安「朱貴さん」
朱「なんだい?」
安「ごちそうさまでした!」
朱「…いつもきちんと言ってくれてたじゃないか」
安「今言わないと、もう言えなくなると思って!」
朱「それは?」
安「女の勘!」
朱「?」

菜「じゃあ見ていらっしゃい」
朱「はい」
陳「ありがとうございました」
菜「こちらこそ、本当にありがとうね!」
朱「菜摘さん?」
菜「どうしたの?」
朱「ずっと皆さんの挨拶が、まるで、お別れの挨拶みたいなのですが」
菜「そうかしら?」
朱「…」
菜「…」
秋「遠山先生がお待ちですよ」
菜「…不粋ね」
安「そういうところよ、パパ」
秋「…」

遠山「やあ」
朱「これは…」
陳「…」
遠「この絵のために、この部屋を貸りるつもりだよ」
朱「同じだ…」
陳「私たちの知っている梁山泊です、先生」
遠「夢で見たものを描いただけだよ」
朱「凄い…」
陳「もっと近くで…」

朱「!」
陳「!」

遠「…やっぱりね」
安「遠山先生、二人は?」
遠「ここさ」
安「本当だ!」
菜「勘が当たったわね、安見」
秋「…どういう事だ?」

朱「ここは…」
陳「梁山湖です。あなた」
朱「…帰ってきたのか」
陳「…」
朱「夢だったのかな?」
陳「…何も、忘れてないでしょう」
朱「当たり前だ」
陳「これを」
朱「高村さんの…」
陳「それに、私の病は治りましたよ?」
朱「…そうだな」

林冲「朱貴!」
杜遷「陳麗殿もいたぞ!」
宋万「どこに行ってたんだよ!」
焦挺「首領がカンカンですよ」
朱「すまん」
陳「私の病を治す旅に出ていたのです」
林「…随分顔色が良いな、陳麗殿」
陳「当然です!」
杜「それは?」
陳「だって、治ったのですから!」
林「…念のため、安道全と薛永にも診てもらうぞ」
朱「驚くだろうな、二人とも」
宋「…本当に治ったのか?」
陳「ご覧の通りです」
焦「…その服、どこに行っていたのですか?」
朱「…梁山湖の、国だよ」

・朱貴…王倫と会ったら、何と言おうか、陳麗。
・陳麗…ただいま帰りました、って胸張って言ってやりましょう、あなた。

・遠山…この絵を通して、梁山泊に行き来できるかもしれないよ、安見ちゃん。
・安見…そんな訳ない… ヤバっ、行けそうだったわ、ママ…
・菜摘…いつかブラディ・ドールのみんなで行ってみましょうか、安見。
・秋山…そしたら、どうやって帰るんだ?

・林冲…陳麗殿から、晁蓋殿と宋江殿の気を強く感じる…
・杜遷…もともと胆力のある方だと思っていたが、逞しくなってないか?
・宋万…身体の基盤が明らかに強くなっているような…
・焦挺…梁山湖の国の土産話、聞かせてください!

・王倫…陳麗の気に圧倒されて何も言えなかった。

・安道全…馬鹿な。完治している、だと?
・薛永…奇跡というにしても、ありえない事が起きましたね…

元ネタ
・北方謙三先生 水滸伝

・ブラディ・ドールシリーズ
 公式HP

長々とお読みいただきありがとうございました。

このお話を書くにあたって相談に乗っていただきました、筑前筑後さんに心より御礼申し上げます。

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