『好き』ぶちまけて、何が悪い
こんな社会だったらいいな。
「好きをぶちまけ放題な社会」である。
だってさ。
「あなたが好きなものは、あなたが好きなんだから好き」なのであって、
他人にその好きを理解されなくても、バカにされたとしても、「私が好きならそれで良い」と堂々と表明できる社会だったら、好きをぶちまけ放題にできていいじゃない。
だが、現状の社会はいろいろな意味でそうではない。
じゃなきゃ、「こんな社会だったらいいな」などというお題は出てこないはずだ。
ならば、私の理想、「好きをぶちまけ放題な社会」になっていないのはなぜだろうか。
推測だが、
『好きをぶちまける前に、好きを封じこめられるなにかが、過去にあった』
のが、一番の要因だと思う。
きっと過去にこんな事があったのではないだろうか。
・好きをバカにされた
・好きを非難された
・好きに生産性を求められた
はっきり言おう。
私が蛇蝎のごとく嫌う人種だ。
あんたらのせいで、どれだけの人間の才能の芽が摘まれてしまったことか。
文科省は、今や好きの芽の刈り取り場と化した学校のあり方を正してくれ。
経産省は、好きの芽を刈り取られたことによる経済損失を計上してくれ。
何かを好きになる。
それだけで立派な才能だ。
その才能は、ひとりひとり違う。
十人十色、千差万別、多岐にわたることだろう。
だから良いのだ。
だから多様性が存在しうるのだ。
だから色鮮やかな社会が出来上がるのだ。
だが、悲しいことに、好きをバカにしたり、非難する者は、心無いクラスメイトや無知な上司ばかりではない。
自身の身内であったり、教師であったり、
「今は子供であるあなたが、絶対に逆らうことが出来ない大人」
によることも少なくなかったのではないだろうか。
今まさにそのような状況下に置かれている学生の方もいることだろう。
あなたの好きの芽を摘もうとする身内や教師に、逆らったり、反抗したくなることもあるかもしれないが、それは中々今の貴方には過酷な事かもしれない。
そもそも好きの芽を摘もうとする者は、そのことに対して無自覚であると思う。
「自身の立場から発する言葉の重みを考えていない」
のだ。
親から子、教師から生徒へのなにげない言葉は、
「一生の支えにもなりうるし、一生の軛にもなりうる諸刃の剣だ」
ならばここではっきり言おう。
「身内の人も、学校の教師も、完璧な大人とは程遠い、ほどほどな大人」
なのである。
たとえあなたの身内でも、教師でも、ほどほどな大人なのだ。
ほどほどな大人なのだから、知らないことも、理解できないこともある。
なにより、初めての子育てだったり、日々の激務であったりで、当の本人たちも分からないことだらけで、毎日が暗中模索なのだ。
だから常にあなたの思い通りの言葉をかけたりすることも難しい。
大人はおおむね、ほどほどなのだ。
ここから経験上の話で大変恐縮だが、立派な大人ほどその事を強く自覚されている。
喜んで話をお伺いに行く先生や大人ほど、ちょっと困ったような笑みを浮かべながら、
「俺は大した大人じゃないよ」
などと、ぼそっと呟くのだ。
それができるから、心から尊敬できる立派な人なんだな。
自身の不完全さへの自戒やそれに伴う痛みを抱えながら生きて、それでもなお前に進んで、後進の者に自身のご経験を惜しみなく提供されて…
そんな立派な大人は、まずあなたの好きの芽を摘むことは無いだろう。
そんな立派な大人の前なら、きっとあなたの好きをぶちまけられるだろう。
そんな立派な大人との出会いこそ、人生を彩るのだろう。
そんな立派な大人と出会ったあなたが、いつの日か立派な大人になって、後進を育てて…
そんなサイクルが出来上がったら、どれだけ素敵な社会だろうか。
そんな立派な大人は、今、どれだけいるのだろうか。
そういう大人に私はなりたい。
「好きをぶちまけ放題な社会」
それは、
「好きをぶちまけさせてくれる、立派な大人の多い社会」なのかもしれない。
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