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神の子見ていたニルヴァーナ

父方の祖父は、お寺を経営していた。
などと言えば聞こえはいいが、お寺といってもどの宗派にも属しておらず、祖父自身の教えに基づいて活動していた。要するに、新興主教団体なのである。新興宗教団体と聞くと、怪しげな集会を開き、オリジナリティの強すぎる歌を合唱したりするアレを想像するだろうが、まさしくソレだった。
亡くなった祖父がどういうきっかけで「よし、お寺作っちゃお!」などと思いついたのか、もはや知る由もない。祖父がお寺を始めたのはちょうど終戦前後なので、なんでもありの時代だったのだろう。突然お坊さんになった祖父を慕って、人が集まるようになった。たぶん相当変な人だったのだろうが、誰かの役に立ちたいという気持ちは本物だったのだと思う。
無名だし組織としての規模はかなり小さいが、昔はまあまあな大きさのお寺を構えていたので、全盛期はそれなりに信者がいたようだ。

私は教祖様の孫として信者さんたちにチヤホヤされて育った。道端で、知らないお婆さんに拝まれたりもした。みんなのお爺ちゃんちにも大きな仏像があって、知らない大人がウロウロしているものだと思っていたし、祖父母と同居している友達に「お祈りの部屋どこ?」と聞いて不審がられた。
母方の実家にはもちろんお祈りの部屋などなかったのだが、「お婆ちゃんはお祈りしないんだな」くらいに思っていたのか、特に違和感はなかった。

我が家はお寺、つまり祖父宅から車で5~6分くらいのところにあった。自営業の父、専業主婦の母、6歳年上の兄、私の4人家族で、週2〜3回はお寺に顔を出していた。大人たちに可愛がってもらえるので、お寺に行くのは好きだった。齢40を過ぎてすっかり中年となった今も、常に「私が可愛いのは世界の常識ですが、それはそれとして」みたいな気持ちでいるのは、この頃の原体験によるものと思われる。たぶんヨボヨボになっても、「私が可愛いのは世界の常識ですが、それはそれとしてごはんまだ?」って言ってそう。

また、歩いて5分くらいの場所に叔母の家があり、そこにも知らない大人たちが出入りしていた。叔母はお花の先生をしていて、お弟子さんたちは全員信者さんだった。そりゃ教祖様の娘がお花を教えると言ったら、信者さんは習いに行かざるを得ないだろう。
叔母の家には、「田村君」と呼ばれる若いサラリーマンが居候していた。気弱そうな色白の青年で、彼ももちろん信者さんだった。私は田村君のことをずっと親戚だと思っていたので、全くの赤の他人だと知った時は衝撃だった。叔母の息子(私からしたらいとこ)と歳の変わらない青年が、彼女の身の回りの世話をしている様子は、子供ながらに不思議だった。同居していた叔父は、田村君のことをどう思っていたのだろうか。もしかして叔母が若いツバメを家に置いていたのでは…?などと、つい邪推をしてしまうが、根拠は何もない。
ちなみに、いとこは西城秀樹の大ファンで、いつも薄暗い部屋で録画した音楽番組のVHSを観ていた。私はいとこと一緒に西城秀樹のビデオを観るのが大好きで、よく叔母の家に遊びに行っていた。よくよく考えると、20代の男と小学生の女の子が薄暗い部屋で長時間2人きりでいるのは、結構異様なことだ。実は、私の血で魔法陣を描いて悪魔を呼び出していたとか、ふみふみこ先生の『金色の飴 星の煙』(名作短篇漫画)みたいな展開だったとか、そんなことは一切なく、
「手を突き出す時の手首の捻り方は、こう!」
と、ひたすらヤングマンの振り付けを教わっていた。

中学生になると、自分の環境が異質であると気づき、恥ずかしく思うようになった。運悪くお寺と中学校が隣り同士で、学校の廊下の窓からお寺が丸見えだったため、同級生や先生に「あれ、藍川んちなんでしょ?」といちいち確認されるのが苦痛だった。平日の夜、クラスの男子たちが自転車でお寺の前を通り過ぎる時は、銃撃戦が始まった時の市民のようにお寺の床に伏せて身を隠した。思春期である。
その頃、元々素行が悪かった兄が金と女で次々と問題を起こし始めた。近所の人や私の同級生からも金を巻き上げていたらしく、クレームが殺到した。我が家は地元にいられなくなり、夜逃げ同然で県外に引っ越した。
引っ越しからほどなくして、祖父が亡くなり、笑っちゃうくらい盛大な葬儀が執り行われた。92歳だった。
祖父は何でも褒めてくれる人で、私の顔を見るたびに「この子はお金に困らない子だなあ」と言っていた。今にして思えば、びっくりするほど外れている。しかし、40年以上無軌道にやりたいことだけやっているのに、最低限の生活はできているのは、祖父の予言のおかげかもしれない。
納棺が終わり、火葬が始まった途端「あのお爺ちゃんが骨になっちゃうのか」といきなり実感が湧いて、涙が吹き出た。近くにいた年配の女性が肩を抱いてくれた。

お寺は、叔父が継いだ。しかし、二代目教祖となった叔父は、壁に怪電波を防ぐための銀色のシートを貼るようになり、お寺はどんどん閉鎖的になっていった。
ただでさえ恥ずかしいのに、ますますやばい宗教感が濃くなり、私はお寺に全く寄り付かなくなった。両親からも「お寺には関わってはいけない」ときつく言われ、大学に入ってひとり暮らしを始める時は、
「藍川という苗字を出すと、あそこの関係者だとバレるかもしれないから、なるべく下の名前を名乗りなさい」
と念を押された。私もお寺とは極力距離を置きたかったので、ハンドルネームの「永田」を、さも本名であるかのように名乗るようになった。夫にさえ、お寺のことは長年言い出せなかった。

お寺のことをひた隠しにしたまま30歳を過ぎた頃、二代目教祖の叔父が亡くなった。祖父の時と比べてシンプルな葬儀だった。20年近く離れていたので、突然喪服で現れた私を見て、信者さんたちは大層驚いた。御香典だけ置いて帰ろうとしたが、お寺の職員に「私が怒られますから」と引き止められ、しぶしぶ壇上に上がって親族席に座った。叔父は、家出した兄のことは可愛がっていたが、私とはあまり接点がなかった。長年会っていなかったせいもあって、特に悲しいという気持ちにもならなかった。
叔父の葬儀の帰り、友人に「新興宗教の教祖だった叔父さんのお葬式に行ってきた」とメールすると、「何それうける」と返信が来た。笑ってもらえたことで、長年お寺のことを後ろめたく思っていた自分が馬鹿みたいに思えた。

それ以来、開き直って「実はお爺ちゃんと叔父さんが教祖で…」と友人たちに話すようになった。父が三代目の教祖に就任した時は、「私、神の子なんですよ」などと言って笑いをとったりしていた。
父は、多額の借金を抱えていたお寺を立て直し、なんとか最低限は維持できるようにしたのだが、家を出てお寺に入り浸っていた兄との折り合いが悪く、数年で引退してしまった。現在は、その兄が教祖をやっているのだという。

新興宗教団体の一族という特異な環境のおかげで、家族のことを考える時は必ずお寺の問題もセットになっていた。しかし、両親はある時からお寺や親族に関する情報を、私に一切教えなくなった。この文章に、「らしい」「だろう」という伝聞や推測が多いのはそのためだ。一抹の寂しさや疎外感はあったが、両親は娘に新興宗教とは無関係の場所で生きて欲しいと願っていたのだと、今では理解できる。逃げ道を用意してくれた両親には、感謝しかない。

しかし、もし四代目がまた金と女で問題を起こしたら、自分が次期教祖に就任してみたいという気持ちもある。
私にできることといえばエロだけなので、お寺をセックス教団に変え、性教育に力を入れて正しく楽しい性を世に広めたい。そして建物は全部ぶっ潰して、子どもたちのための保育施設にしてしまいたい。そんな風にして、お爺ちゃんの跡を継げたらいいのにと、冗談半分本気半分で思っている。

長々と自分の家のことを語ってしまい、申し訳ない気持ちになったので、最後は「しゅうきょうっていいな」という替え歌を歌って終りにしたい。メロディは、もちろん某アニメ番組のエンディング曲「にんげんっていいな」だ。

神の子見ていたニルヴァーナ
お布施を出した子一等賞
見知らぬ親族多すぎる多すぎる
いいないいな非課税っていいな
みんなで仲良く娑婆から解脱
相続争いまってるだろな
僕も開こう悟りを開こう
さんさん参議院選挙で立候補♪
(全裸で前転して手を振るも即逮捕)

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