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蓋をした過去に向き合うには?「すずめの戸締まり」映画の感想

この記事はネタバレが含まれます。映画を楽しく見たい方は読まない方がよいかもしれないです。

私たちは死が隣り合わせにあることを知っています。それでも生きたい!

2011年3月11日、東日本大震災が起こった。
多くの人が亡くなった。
その不幸に対して、そこから離れた立場である、自分はどうあるべきなのか?

なにかアクションが起こせたのか?
ボランティア? 寄付?
想像を膨らませた? 自分事にしたか?

世の中には、自分と離れたところで多くの不幸がある。
ウクライナの戦争、ミャンマーのクーデター、児童虐待、貧困、、

自分と距離が離れた不幸、悲しみに、自分はどう向き合うのか?

新開誠は、新しく作るべきもの、を、そういうものにしよう、と思ったのではないかと思う。

新海誠と距離が離れているかは知らないけど、東日本大震災で起こった悲しみに、向き合って考えて、悶えたような映画だと思った。

なんで距離が離れているように感じるか、それは、この映画で伝えたいことが、とてもシンプルでストレートに感じたからだ。

それが、
「私たちは死が隣り合わせにいることを知っています。それでも生きたい!」
という、宗像草太が念じるセリフだ。

生と死を分けてしまった東日本大震災、なぜ自分たちは生きているのか、なぜ亡くなった方々は亡くなってしまったのか、それはちょっとした掛け違いで自分だったかもしれない、それを私は受け入れる。
そして、今を生きる。

これは残された自分らへの鎮魂でもあり、次に進むための背中を押す言葉でもある。ただ、とてもまっすぐで、葛藤がなく、まっとうだ。うんうん、そうだよね、と言うしかない。ここに当事者との距離感を感じるのだ。
当事者はもっとグチャグチャした気持ちで、一言で言える答えなんて出せないと思う。事態に近づけは近づくほど、情報の粒度は細かくなって、複雑化していくから。
まっとうでまっすぐなメッセージだけど、この映画は、ちゃんと伝わるように、失礼のないように、一生懸命伝えようとしているところに、新海誠の真剣さや葛藤が伝わってくる。だから、この映画はいい映画だと思った。

鈴芽は私たちの代表

主人公の鈴芽は、残された、生かされた人々の代表として、「死んでもいい」と言いながら生きている。
生きている中で、たくさんの人とおいしいご飯を食べ、恋をして、生を満喫している。
そこに葛藤がある。
その葛藤のグチャグチャが、扉の向こうなのだと思う。
扉の向こうに閉じ込めた、申し訳ないという気持ち、死んでしまった人の生への想い、行ってきます、から戻ってこない言葉。

鈴芽が持つ葛藤は、私たちにも、おそらく新海誠にも、ある。

その葛藤を、2022年にもう1度開いて、こういう葛藤があるよね!と確認して、悲しみに暮れる人たちに思いを馳せて、また閉じる。
「すずめの戸締り」はそういう映画だ。

その閉じる時の言葉で一番ふさわしいのが、
「私たちは死が隣り合わせにいることを知っています。それでも生きたい!」
なのだと私は思った。少なくとも、私は救われた気持ちになった。
今の生をまっとうに生きよう、それがあちら側に行ってしまった人たちの想いも受け取めることになる。そう思ったのだ。

世の中を支配するうっすらとした葛藤

ウクライナの戦争のように、この世の中には自分ではどうしようもできないたくさんの災いが蠢いている。
そこに向き合って、行動せよ!
でも自分にも生活がある、自分にも将来に不安がある、小さい力でなにができる?
この世の中には、そういった葛藤がうっすらとずっと漂っている。
この映画は、こうしろと伝える。
「そういった悲しみに暮れている人々を思って、今の生をまっとうに生きよう」と。


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