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アディショナル・タイム⑥

 そこにあったのは、見知らぬ天井だった。
頭が痛い。ガンガンと頭を金属バットで叩きつけられているようだ。二日酔いだろうか。
新谷は悶えるように、寝返りをうった。
 その直後に、訪れる驚愕。

背中に感じた、人の気配。

 隣に誰かが、いる。

 新谷は思わずその場から飛び退いた。朦朧としていた意識が瞬時に覚醒する。

「沙良……?」

 さっきまで自身が横になっていたベッドで、沙良が寝ている。訳が分からなかった。すっぽりと記憶が抜け落ちているのだ。思い出そうとしても、何も出てこない。昨夜、あの酒を一気飲みした時点から今までの自身の行動、言動が何一つ。もしかしたら自分がとんでもないことをしてしまっていたのではないかと、みるみる内に全身から血の気が引いていく。暫し茫然としていると、もぞもぞと彼女が動いた。
「ふあぁ。おはようございます……よく、眠れましたか?」

 彼女の第一声は、あくびを堪えながらの挨拶だった。
「あ、ああ……おかげさまで……。あの、ここは沙良……さんの部屋ですか?」

「そうです。昨日、あれから古川さん酔っ払っちゃって。ですので、私が介抱していたんです」
 実は、新谷は沙良の部屋に入ったことが無かった。彼にとって、異性の住む場所に踏み入るということは、恋人同士になってからだと考えていたから。彼はいわゆる拗らせているタイプの人間なのだ。
だから、彼にとって彼女が、知り合って間もない男と同じ部屋で一夜を明かしたことが、にわかに信じられなかった。
「垓は? あいつに頼めば……」

「その井草さんにお願いされたんです。用事があるから申し訳ないけど任せたって……」
「そう、だったんですね……申し訳ない」
「でも、古川さん、本当に……すごかった……です……」
 沙良が、両手で顔を覆い隠しながら、そう呟いた。やってしまった――。自らの粗相を直感した新谷は、死にたくなった。もう、殺してくれ。こんな形で、自分とは違う男の姿で、彼女とこうなることなど望んでいないのだから。
「あの……踊り……なんですか……あれ……」
「……え?」
 沙良は肩を震わせながら、必死に笑いを堪えている。
「クネクネ踊り狂ってましたよ……酔っていたとはいえ……あれは……何?」
「え……? 僕、何か沙良さんに変なことしてないですか?」
「変なこと? いや、まあ芋虫みたいに蠢いていましたけど……あれも……ウケる……」
「僕が奇行を晒していたらしいのはわかりましたから! その他には何もなかったですか?」
「そ、そうですね……。一通り暴れたら疲れたみたいですぐ寝てましたよ。まるで赤ちゃんみたいに」
 死に体だった新谷に、一縷の光明が差した。昨夜は何もなかった。いや、正確には何かはあったようだが、今は考えないでおこう。少なくとも想定していたような最悪の事態は免れたようだった。考えてみればそうだ。そもそも、自分にそんな度胸があるわけもなかったのだ。十数年、沙良の手すら握ったことがないのだから。
「じ、じゃあ、一緒に寝ていたのは? 僕のことなんて放っておけば……」
「お客さんに、そんなことできません。古川さんだけベッドで寝てもらおうと思ったんですけど……」
「けど……?」
「古川さんったら……私の手を握って、なかなか離してくれなくって」
 古川大数になって初日に『好きな人の手を握る』実績解除――。一度死んだ新谷にとって、失うものはもう何もない。だからこその、大胆な奇行に次ぐ奇行。新谷刹那として生きていた頃には考えられないことだった。自らの深層心理が恐ろしくなる。そして、彼女はこう続けた。
「私の手を強く握りしめる古川さんを見て、何故かあの人を思い出したんです。あの人――刹那も、こういう可愛いところが沢山あったなあって。でも、結局私は、彼の手を最後まで握ってあげることができなかった。なんでしょう、もしかしたら罪滅ぼしみたいなことなのかな」
 どこか儚げな、遠い目をしながら、彼女はそう零す。新谷は掌を見つめた。そこには、微かに温もりが残っていた。記憶には残っていないが、彼女は朝までしっかりと手を握ってくれていたのかもしれない。
「今でも、彼がいないことが信じられなくて。だから、ある日ふらっと、帰ってきてくれるんじゃないかなあって、そんなことばかり考えてしまうんです。もし、また彼が私の目の前に現れたら、今度こそ正直に、彼の気持ちに応えてあげたい」
 訥々と語る彼女に、新谷は、意を決して質問を投げかける。
「沙良さん、貴女は彼のこと……」
「はい。私は彼を、刹那を――愛しています。ずっと、昔から」
 彼女は古川大数に向かって、そう言い放った。嘘じゃない、これは彼女の真剣な目だと、新谷には直ぐに分かった。彼女の意思表示は、新谷にとって紛れもない告白だった。
「そ、そうだったんですね……。じゃあ、なおさら僕なんか家に泊めちゃまずいんじゃ……」
「他の男の人だったら、絶対あげてません。でも、うーん、こんなこと言ったら変な人って思われるかもしれないんですけど……。なんか古川さんって最近知り合った人みたいに思えなくて。ずっと昔からの知り合いみたいな感じがするんです。見た目は全然違うけど、なんか、やっぱり刹那に似てるんですよね」
 沙良の直感は当たっていた。目の前にいる男の中身は、その刹那本人なのだ。
「あの、沙良さん……実は……」
 新谷は、彼女の思いを聞いて、居ても立っても居られず自身の正体を告白しようとした。しかし、すぐに異変に気付く。声が出ない。いくら言葉を発しようとしても、パクパクと口が動くだけだった。それを黙って見ている沙良も、困惑の表情を浮かべている。
「セツナ、それはあまり良くないなあ。君は早々に全てを台無しにする気かい?」
 新谷の脳内に直接響いてくる声。それは、あの性悪女神のものだった。

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