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アディショナル・タイム④

 出社した新谷に待っていたのは、生前と変わらない光景だった。新谷は定位置のデスクに座った。
「おい、古川。そこは――」
 そう声をかけたのは上司の溝口課長だった。周りにいる社員も困惑の表情を浮かべている。
「えっ? ここ僕のデスクですよね」
「違う。お前の席はその隣だ。そこは……新谷の場所だろう」
 新谷は、そこでようやく思い出した。今の自分が新谷刹那でないことを。促されて、そそくさと隣の椅子に座った。
「あ、あぁ……! そうですよね。寝ぼけてるのかな。ささ、仕事仕事!」
 溝口はおもむろに立ち上がり、新谷のもとにゆっくりと歩いてくる。そして、隣のデスクに触れた。
「本来なら、処分して綺麗にしなきゃなんだろうなあ。だけど、私にはまだできそうにない。それに、こうして残しておけば、あいつが現れてくれるような気がしてな」
 溝口は、遠い目をしながら、そう零した。その新谷がいま、隣にいるなんてことは知る由もない。
「…………あいつはきっと、喜んでますよ」
「古川もそう思うか。そういえば、お前は新谷と同期だったな。生前のあいつはどうだった」
「そうですね……。いろいろ悩んでいたんじゃないでしょうか……」
 新谷は、捻りだすように呟いた。溝口はそうか、と一言だけ残し、再びゆっくりと自らのデスクへと戻っていった。
 それから日中の業務は、新谷刹那の残した仕事の引継ぎに終始した。本当に、全てが中途半端だった。新谷は、自らの短絡的な行動で、色々な人に迷惑をかけていたことに、否が応でも気づかされた。余りにも無責任すぎたのだ。自らの愚かさを反芻していると、あっという間に一日が終わっていた。業務が終わってから、溝口から声をかけられた。
「古川、ちょっといいか」
 向かった先は休憩室。自動販売機で缶コーヒーを買った溝口は、そのまま新谷に手渡した。
「お疲れ」
「あ、ありがとうございます」
「……私は、間違ったのだろうか」
「何を……ですか?」
 突然の投げかけに困惑する新谷。溝口は少し間を置いてから、語りだした。
「……新谷は、優秀だった。私は期待していたんだよ。その期待も、あいつは分かっていただろう。その期待に応えようと努力していたよ。私は、ちゃんと見ていた。その姿を」
 新谷は、溝口が自らの努力を正当に評価してくれていたことに驚いた。自分では失敗したことばかり考えていたからだ。まさか、こうして褒められるなんて、思いもしなかった。
「だが、期待するあまり……少し厳しくしすぎてしまったのかなと、そう思うんだ。私がもっとあいつを労ってやれば、違っていたのかもしれない。あの日、確かに新谷は言い訳のできない過ちを犯した。だが、あいつの気持ちも、私には分かるんだよ。その苦悩もな。だが、上司として、甘やかすわけにはいかなかった。かなり、手厳しいことを言ってしまった……」
 そう言った溝口の背中が、新谷にはひどく小さく見えた。こんな姿は、これまで目にしたことがなかった。男勝りの溝口は、社内でも稀にみるほどの優秀な人材であるし、新谷にとっては、厳しくも頼れる上司だった。いつも自信に満ち溢れた溝口が、こうなる姿など、想像できなかった。新谷は、言葉を絞り出す。
「……課長は、間違ってなんかないです。間違っていたのは、ぼ……新谷です。何もかも自分一人で背負って、自分のミスばかり気にして……そういうところ本当に嫌いで……。だから、課長は何も悪くなんかないです」
「そう、か……。古川、お前いいヤツだな」
 少し笑って、溝口は新谷の頭をガシガシと乱暴に撫でた。
「ぼく……いや、あいつは……課長には本当に……感謝してて……」
「うええええ!? 何でお前が泣く?! って、ちょっ、おい!!」
 新谷は居た堪れなくなって、そこから走って逃げた。脇目も振らずに、そのまま会社を出た。息を整えながら、スマートフォンの画面を見る。すると何件かメッセージの通知が来ていた。
「垓から……?」
 井草垓は、部署は異なるが、同期入社で新谷の数少ない友人。メッセージは「仕事終わったら連絡くれ」とだけ書いてあった。古川大数が新谷刹那と同期なら、井草垓とも繋がっているということだ。新谷は、垓に電話をかけてみた。コール音が何回か鳴り、電話が繋がる。
「おう、古川。お疲れさん」
「お疲れ……」
「急で申し訳ないんだけど、今から飲めない? 場所はもう取ってあるんだけど」
 突然の誘いに驚いたが、垓とも話したかった新谷は二つ返事で承諾した。
「じゃあ、場所は送っておくから。待ってるぞ」
「ああ」
 電話を切ると、とある場所の地図が送られてきていた。現在地から電車で二駅ほどのところだ。新谷は会社の最寄駅から、その場所まで向かった。
 地図で指定された場所に着くと、そこは個室居酒屋だった。垓に「着いた」とメッセージを送る。すると「井草の連れだと伝えて入ってこい」と返ってきた。新谷は店内に入って、言われた通り店員に伝えた。店員に促されるまま、個室に通される。
「思ったより早かったな!」
 垓が手を挙げていた。そして、すぐに新谷は垓の対面に誰かがいることに気付く。
「こ、こんばんは……」
 その声の主は、恒河沙良だった。

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