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開閉性空間論と風景をつくること

『開』くのポジティブ、『閉』じるのネガティブ

建築ではよく『都市に開く』『地域に開く』という言葉が使われます。この言葉が意味するところは大きく2つに分けられると思います。

生活で日常的に使われるような(使いやすいような)用途をプログラムとして建築に取り入れる。

計画や開口部により物理的に人がアクセスしやすい計画・デザインにする。

都市計画とまちづくりに携わり学んできた私自身、意識的にならざる得ない一種の課題ですが、一方でこの言葉に違和感を感じてきました。『開く』という言葉があまりにも抽象的であると同時に、土地がなければ成立しない建築という分野において公共的な役割は必然的に担わざる得ないのですが、『開く』の対義語である『閉じる』ことがどこか悪のように扱われているような気がするからかもしれません。この『開く』という言葉について理解するためには、日本の都市と建築の歴史を振り替えなければなりません。

環境問題に苦しんだ高度成長期の日本

戦後〜1970年代に掛けて市街化していきました。重工業も発達し、水俣病やイタイイタイ秒などの工業廃水を原因とする病気が社会問題になったり、幹線道路には多くの自動車が走るようになったことから、排ガスによる健康被害も問題になります。1970年にはヘドロから産まれた怪獣が登場する「ゴジラ対ヘドラ」が公開され、環境破壊が社会問題になりました。(ちなみに、私はオタクというほどでありませんが、かなりのゴジラ好きです。)

建築学会賞を受賞した建築の作品性はどれもその時代に対して批評的なものばかりです。これまで仕事と向き合う上で自分なりに「依頼される背景」を理解する上で振り返った2人の建築に注目してみます。

安藤忠雄『都市ゲリラ住居』『住吉の長屋』

1972年に雑誌『都市住宅』に寄稿された論考のタイトルです。論考を要約すると、資本主義による外部環境の悪化と高度の情報化から、そこに住まう(もしくは作家の世界観)『個』を確保する欲望を捨てずに、それでも都市に住まうことを体現する住居のこと…といえばいいでしょうか。注目すべきはこの論考の中で『中途半端な偽善的なコミュニティ論』という言葉が使われていることです。ちなみにこちらの論考は今の世論を先導するようなわかりやすい安藤さんの言葉ではなく、学歴のない彼にとってアカデミズムとの戦いの表明を感じさせるほど言説的で印象的な文章表現です。

宮脇檀『プライマリィ・アーキテクチャ論』『松川ボックス』

1970年に雑誌『建築文化』に寄稿された論考のタイトルです。「建築が本当に都市に働きかけ得るとしたら、それは拠点をつくることでしかない。」と書いてあるように、都市の変質を担うprimary(最初)(根源)(基本)となり得る建築といえばいいでしょうか。その『プライマリィ』な建築の条件として、自己完結的であること、「乱雑な街の混乱を受け止めるのに十分な強さを持つ」としてあります。この頃、宮脇檀はボックスシリーズと題したコンクリートの外皮に守られた住宅建築を多く発表しています。

上記の建築はそれぞれ1979年に学会賞を共に受賞しており、どちらもコンクリートの分厚い壁に覆われて開口部は極端に少なく、『開』くどころか都市との関係性を一切遮断していると言っても過言ではありません。

『開』きはじめた建築

重工業をはじめとした生産業で成長した日本でしたが、サービス業が盛んになり、環境意識も高まりました。1993年には日本で「環境基本法」が発効され、都市の環境も改善されていきます。密集市街地や郊外の開発がひと段落すると、都市計画の代わりに『まちづくり』の時代が始まりました。地縁のない不特定多数の人が住む地域内での人間関係が希薄になると同時に『コミュニティ』の形成が重要であると盛んに言われるようになります。1995年の阪神淡路大震災と震災復興を機にその議論はさらに盛んになります。『閉』じていた建築が建築が『開』き始めたのはこの頃からではないでしょうか。

孤独の保証

文脈から整理すれば『閉』じていたものが『開』くのは当然の成り行きに感じるのですが、どうも私は違和感を感じざる得ません。というのも、私たち自身が心を開きたい時もあれば閉じたい時もある。地域に身を置いていても市街地に身を置いていても、自分の生活に干渉されすぎるのは気分はよくありませんし、身体的に開放的な状況で都市に身を置いていても孤独は保証されたいと欲しています。

例えば、ガラス張りのカフェ、緑の多い開放的な公園、他者と同席しているバーカウンター、思いにふけたり、読書をしたり、お酒と向き合っている時に他者に干渉されるのは誰でも嫌だと思います。それぞれが思い思いに佇んでいる、孤独が保証されている状況に私たちは居心地の良さを感じます。例えばそれが大切な人や仲間といるときも集団としての孤独が保証されている方が自然です。それはどちらかというと開いているというよりは、客観的にみれば『賑わいの風景』なのではないでしょうか。

閉じているけど開いている建築の風景

建築という物理的なものを設計する者として、その延長で安易につい「閉じる」「開く」の二元論で考えてしまいがちですが、私たちの暮らしの実態はそうではありません。

以前、出張で東京に赴いた際に訪れた妹島和世さん設計のすみだ北斎美術館でみた風景がとても印象に残っています。公園に面した分かりやすい開口部が見当たらない建築物ですが、建物に開いたスリット状の通路を走り抜ける子供達が印象的でした。物理的には「開いている」とは言い難いこの建築ですが、この建築は地域に開いていると感じた不思議な体験で、新しい風景を見た瞬間だったように思います。

風景をつくる

市民がその場所で思い思いに過ごしている風景にこそ私たちは居心地の良さを感じます。「閉じる」「開く」の二元論ではなく、『風景をつくる』という言葉のほうが私にはしっくりきます。形而下の「開閉」とはことなる、心理的な居心地を捉えた形而上の「開閉」には、建築家の市民にどのように過ごしてもらいたいのかという主体的な問い掛けが必要になり、その先につくりたい風景があるというほうが自然に感じています。

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