小説指南抄(20)「マッド・マックス・怒りのデスロード」に見る作品の同時代性とは

(2015年 06月 30日 「読書記録゛(どくしょきろぐ)」掲載)

「マッド・マックス・怒りのデスロード」に見る作品の同時代性とは


 「マッド・マックス」シリーズは一九七九年の第一作から一九八五年の第三作まで、近未来の荒廃した地球を舞台にカーアクションを中心にすえた活劇映画である。特に第二作は、「モヒカン頭の暴走族」、「アイスホッケーのフェイスガードの悪の帝王」、「フットボールのプロテクターを鎧風に使った戦士の衣装」、「凶暴なデザインの改造車」など、その後のディストピア・ポストアポカリプス物語の原型となる数々のアイテムを生み出した物語で、マンガ「北斗の拳」を代表とするエピゴーネンをうんざりするほど生み出した。見た者にそれだけ衝撃を与え、アクション映画に革命を起こした作品だったのだ。

 「マッド・マックス・怒りのデスロード」は監督ジョージ・ミラーが三十年ぶりに公開する第四作だ。今回は、この作品と旧作を比較して、以前も語った「同時代性」を出すために監督ジョージ・ミラーがどのように物語を作ったかを具体的に考えてみる。

 今回の世界は、前作よりもさらに荒廃の進んだ核戦争後の世界である。第二作ではガソリン、第三作ではメタンガスで作る電気が支配構造を形作る戦略物資なのだが、今回はそれがである。さらに大半の登場人物が放射能等の障害を持っていて短命である。女たちは子供を産む道具であり、乳を出す資源でもある。第二作の冒頭には暴走族にレイプされる女のシーンがあるが、デスロードでは女は性欲の対象ですらないほど世界の荒廃が進んでいるのだ。
 冒頭、イモータン・ジョーにとらわれたマックスは健康な血を供給する生きた輸血袋にされるぐらい、人間はモノなのである。

 第二作の敵は、暴力で支配する暴走族ヒューマンガス。第三作では、秩序のためには恐怖政治も厭わない統治者アウンティ。今回は、死後の栄光を約束するカルト的宗教支配者イモータン・ジョーだ。配下のウォーボーイズは、勇敢な死に様を競い合うような連中で、まさにこれはイスラム原理主義のテロリスト集団を思わせる。

 第二作でマックスが守ることになるのは、自由と安全を求めて旅立つコミュニティーで「女、子供、家族」という自由や平和を象徴する者たち。第三作では、「知識、子供」という未来への希望を象徴する者たちだった。今回は、「抑圧された女たち」である。フェミニズムなどで語る者もいようが、彼女たちはもっと大きな「人間の尊厳」「再生のための希望」を象徴する者だ。
 前半の砂嵐の後、マックスが初めてフェリオサと彼女が逃がそうとする女たちと出会うシーンの美しさはどうだ。守らなければ壊されてしまうほど弱くてはかないが、それだけに大切な「人間の尊厳、再生の希望」に他ならない。このシーンの女たちはボッティチェルリの「春」を思わせるし、その前の砂嵐のシーンはまさに「テンペスト」。宗教的な暗喩すら感じさせる。

 全作までは、「逃げ切る」ことがクエストの完了だったが、今回は、水のある場所を「奪い返す」ことがクエストの完了になっている。またカルトの教祖の化けの皮をはぐというのもあるだろう。

 全編を疾走する活劇にするための設定とストーリーだが、現代に再生するにふさわしい工夫が込められている。

 さらにエピゴーネンに真似られて手垢の付いた造形(モヒカン、フェイスガードなど)は一切出てこない。改造車のイカレっぷりはさらにパワーアップしている。

 ここで気がついた。ジョージ・ミラーは前作と同じ「物語」ではなく、前作と同じ「驚き」を作りたかったのだと。そして、これこそ私たち前作のファンが待ち望んでいたことなのだ。ネットを駆け巡る作品の感想が、ほぼ称賛一色なのはそのためなのだ。

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