映画レビュー(5)「グエムル-漢江の怪物」

「半地下の家族」で今やアカデミー賞監督となったポン監督の作品。「殺人の追憶」ですごいなと思っていた私が、この監督のファンになった作品である。

「グエムル-漢江の怪物」(2007)監督ポン・ジュノ

(2006年 09月 03日 「読書記録゛(どくしょきろぐ)」掲載)


 楽しみにしていた「グエムル-漢江の怪物」を観てきました。
 これは傑作です。

 以下ネタがばれますので、未見の方は映画を観てからお読みください。

 典型的な怪獣映画の文法に沿いながら、韓国社会の抱える問題を描いている。
 非常にたくさんのメタファーが重層的に現れる。
 監督が当初から意図したものの他、図らずもメタファーとなったものもあろう。

まずシーンから。
 怪獣登場の殺戮シーンは、やはり、6/25朝鮮戦争のメタファーである。主人公の長男カンドゥと戦ったアメリカ人はさしずめ国連軍である。
 その後、ウイルス感染の疑いで隔離され、保菌者として追いかけられるところは、北朝鮮の主体思想に染まった社会主義者たち政治犯の扱いを思わせる。

 家族たちは現在の韓国の社会のメタファーだ。次男は大学生など知識階級長女は国際社会に向けて、韓国人が自慢できる人達を暗喩している。
 そして、出来損ないの長男は、韓国の一般大衆と昔からの韓国人気質の象徴。
 物語の半ば、夜の売店での食事のシーンで、父親が次男と長女に、カンドゥを悪く言わないでくれ、と言うのは、欠点も美点も含めた韓国人気質を素直に認めようよ、という実に重要なシーンである。
 なぜならその直前のシーンで、カンドゥとヒュンソが同じように観た「食事の幻」の中で、韓国人家族の情愛の深さが感動的に描かれているからである。

 韓国に当事者能力がないとして、WHOが乗り込んでくる設定は、まさに北朝鮮の核問題に対して、何一つ有効な手だてが打てない韓国の頭を通り越して進む6カ国協議に対する監督の苛立ちである。

 そして、拉致された娘を孤立無援で捜し求める家族は、韓国では「離散家族」と言われている「拉致被害者」そのものではないか。
 頼りにならない、韓国の軍隊や警官は、現大統領や内閣のメタファーである。
 ラスト近く、薬物散布に反対するデモ隊に怪物を乱入させたのは、なんら結果を生み出さない不毛なデモ活動に対して、監督が感じている怒りの現れだろう。
 最後、韓国民の象徴であるカンドゥ自身の手でこの事件は決着を付けられる。愛する者を失いながら、それでも新しい一つの命を守り抜いたカンドゥ。

 最後のシーンで、事件を振り返るテレビのニュース番組を気づかずに切ってしまうところは、いつも反省を忘れがちな韓国民に対する、監督の痛烈な皮肉である。

 たが、この監督の韓国社会に対する最大の皮肉は、ここまでわかりやすいメタファーをちりばめておいて、インタビューでは、「単なる怪獣映画である」と言い続けて、映画の中で描いた社会問題を明言しないことである。
「明言できない韓国社会」の病理を皮肉っているのだ。
素晴らしい才能である。

グエムル-漢江の怪物- スタンダード・エディション

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