映画レビュー(57)「哀れなるものたち」


メタ的存在であるベラを象徴する秀逸なイメージ


 第80回のヴェネチア映画祭で金獅子賞受賞と言うことで勇んで観に行った。監督のヨルゴス・ランティモス、ギリシャの方なんだ。
 この作品は寓話である。その演出やムードには、「グランド・ブダペスト・ホテル」や「ダージリン急行」のウェス・アンダーソン的なものを感じた。今回は詳細に分析したのでネタばれあり。すでに観た方だけお読みください


物語はフランケンシュタインもの

 19世紀のロンドンと思しき世界だが、微妙に架空の世界である。
 冒頭は、橋から身を投げて死ぬ妊婦のシーン。外科医ゴッドウィン・バクスター(言外にフランケンシュタイン博士の作った怪物を思わせる来歴)はこの妊婦の赤子の脳を移植して女の体を蘇らせる。ベラ・バクスターの誕生だ。
 この「大人の女の体」を持つ「幼子」の急速な成長を追いながら物語は進む。まさにこれは「怪物の肉体」を持った「幼子」の成長を描いたメアリ・シェリーの「フランケンシュタイン」の前半に相当するのだ。脚本もそれを意識しているのかもしれない。「女」は「怪物」という男目線から感じるアイロニーもあるかも。

成長を暗喩する男達

 ベラの出会う男達は、父代わりのゴッドウィン、その助手で許嫁のマックス、誘惑者のダンカン。それぞれ、「父親・家庭」、「良識」、「世俗の誘惑」を暗喩するキャラである。
 好奇心が強く、冒険心に突き動かされるベラは、セックスが上手く遊び好きなダンカンに誘われて家を出る。豪華客船の船旅で当初は楽しんでいたベラ。やがて世界を観て、読書を覚え、知り合った黒人ハリーを通して、貧富の差など不条理な社会を考え始める。やがてベラはダンカンの俗物ぶりに嫌気がさす
 ダンカンを捨てたベラはフランスで娼館に務め始める。このシークエンスでは、色々な男を観察するベラの日常が描かれる。幼児期と大人になってからの街のイメージ、色の鮮やかさでそれとわかるようになっている。心象風景なのだ。これも見事。

21世紀の「ファニー・ヒル」

 私は娼館のシーンでジョン・クレランドの「ファニー・ヒル」(1749年)という作品を思い出した。近代ポルノ小説の元祖とでも言える作品で、高級娼婦の目線で、当時の男や社会を皮肉な目線で捉えていると同時に、主人公ファニーの独立独歩な生き様が痛快な作品でもある。
 この映画はベラという「脱女性」または「超女性」の目線で19世紀的な男と男中心の社会を描いていて色々気づかせてくれるのだ。
「脱女性」または「超女性」という言い方はなんだかバーナード・ショーっぽいが、この娼館のシークエンスではベラが社会主義者達と交流する場面もある。あの時代、社会主義者達がまだ旧弊たる社会の改革者としての光を帯びていた時代なのだ。さらに言うならば、そのよく効く薬の副作用で、「彼らの末裔と信者達が色あせた社会」が21世紀の今である。

最後の対決

 冒頭のベラの母の自殺の謎が解けるラスト。その原因となったアルファーという貴族と対峙して勝利を収めるベラ。
 許嫁のマックスは、ベラのすべてを知り、その上で改めてベラを受け入れる。ここには、感情や慣習や世間体などを、理性で超克する男女二人が描かれている。そうあって欲しいという制作者達の願いであろうか。
 この作品、フェミニズム界隈で持て囃されていくことになるだろう。だが、忘れて欲しくないのは、この作品は戦う事を声高に叫んでいるのではないということ
「感情や慣習や世間体などを、理性で超克する男女」であって欲しいということ。
 ヒステリックに叫ぶ、フェミニズム・反フェミニズム界隈は、この作品の願いをよく反芻して欲しい。
(追記)
 ふと思ったのは、ベラの脳になった胎児の性別が、あえて言及されていないこと(あくまで字幕頼りですが)。これもよく考えられた脚本だと思う。「脱女性」とか「超女性」という言葉自体にすでに女性に対するバイアスがかかるからだ。この作品の場合は「脱ジェンダー」「超ジェンダー」であろう。
 この作品での「哀れなるモノ」とは男性及び男性社会の暗喩なのであるが、ジェンダーの問題を戦いでしか向き合えないフェミニズム・反フェミニズム界隈もまた「哀れなるモノ」であろうと思った。
 実に気づきに満ちた作品だった。

この記事が参加している募集

#映画感想文

67,412件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?