創作エッセイ(39)物語はなぜ類型化するのか?

今回は、折に触れ考えていることを書いてみる。

物語の類型とは

 小説やマンガなど物語を描こうとしている人は当然気づいているだろうが、神話や民話、さらには近代説話やエンタメ作品などにも「相通じるモノ」がある。
 それらを物語の「構造」や「モチーフ」などで分類した研究がある。民俗学だけでなく、演劇論や創作論にもそれはある。

全く接触がないにも関わらす似ている古代神話

 世界の神話や民話の中には、全く接触がない民族や文明なのに似通った話がある。有名なところでは、ギリシア神話のオルフェウスと日本神話のイザナギとイザナミ。

・オルフェウス
ハーデースは、「冥界から抜け出すまでの間、決して後ろを振り返ってはならない」という条件を付け、エウリュディケーをオルフェウスの後ろに従わせて送った。
イザナミ
「私はすでに黄泉の国の食物を口にしてしまったので、もとには戻れないのです。でも、愛しいあなたのために黄泉の国の神に相談してみるので、しばらく待ってください。その間は私の姿を決して覗き見しないでほしいのです」

 これは「見るなのタブー」という類型で、他にもパンドラの箱竜宮城の玉手箱、鶴の恩返しなど類似のモノ多数あり。

あの人気作も類型からは逃げられない

 今シーズン、リメイクされて人気の「うる星やつら」も、鬼娘との「異類婚姻譚」という類型である。この類型の婚姻の相手は、説話ではだったり、だったりカッパだったりするが、その意味で「鬼」というのは実に日本的でまさに王道である。と宗像教授なら言うかもしれない。
 これには近代における原型もあり、「奥様は魔女」(1966)とか「かわいい魔女ジニー」(1966)などがそれで、高橋留美子先生などリアルで観てたと思う。
 ダメ男キャラの元へ惚れ込んで駆け込む、美しい魔女や可愛い壺の魔女とは男の子の夢ではある。ちなみにジニーの造形は、後に「ハクション大魔王」(1969年タツノコプロ)のアクビ娘に伝わっている感あり。
 さらに「もっと大人向けに”うる星”やれるんじゃねえ?」とばかりに始まったのが小池一夫原作・叶精作絵の「魔物語・愛しのベティ」じゃないかなと想像してる。

何故、類型が生まれるのか?

 例の京アニ事件では「盗作云々」が叫ばれたらしいが。どんな物語も大なり小なり類型に捕らわれている。構造、モチーフともにだ。
 現代では、この類型をシナリオや小説の専門コースなどでも教えてるらしい(独学で来たので、あくまで推測。私は法学部出身ですので)
 だが、どうして類型になるほど似るのだろうか? しかも神話の場合、地球の反対側の物語とさえ似るのは何故。
 陰謀論やオカルトだと、ここぞとばかりに古代の宇宙人や古代の科学などが出てくるのだが、「物語の生まれる源泉が人間の気持ちからだ」と思えば頷ける。
 人間の喜怒哀楽は、人種も民族も国境も超えて共通ではないか。うれしいときには笑い。悲しいときには涙する。同じような物語が生まれるのは当然だと思える。

類型に沿っていても新しい物語は作れる

 例えば「父殺し」(有名なところでは「スターウォーズ」初期三部作)というテーマがありますが、これは子供が親を乗り越えてアイデンティティを確立することの暗喩的に使われることが多く、だからこそ人類共通です。
 これを考えると、色々見えてくる。
 最近だと、「禁じられた遊び」(原作・清水カルマ)というホラー映画があったが、あれは歪んだ嫉妬心の怖さを描いていて「ペット・セメタリー」(S・キング)+「六畳の御息所」(源氏物語)だなと、ピンとくるわけだ。
 使い古されたと思える構造やモチーフも、それを意識した上で新機軸を盛り込めば、全く新しい作品になるのだ。

人類に通底する気持ちがあるのなら

 物語を通して世界の国々の人々が、「外つ国の連中も、俺たちと同じなんだな」と言う気持ちを抱いて行けるなら、将来、物語を通じて争いのない世界も実現するのではないか。
 例えば、今現在、日本のアニメは世界中で愛されている。「進撃の巨人」は世界中の人が観てるのだ。ロシア人とウクライナ人に対して、まずは「地ならし」を止めないか、と言えば通じるのだ。
 物語には、人種や民族や宗教や政治体制を超える力があると思う。
 物語の力で、必ず人間は分かり合えると信じたい。私は物語作家のはしくれとして、そんな希望を持っている。
 特に、最近、kindle作家の方達が、次々と外国のパブリッシャーと契約して本を出している話題が流れてきて、その思いを強くした。
 インターネットの力だと思う。
 俺のところにも、そういう話来ねえかなと。←最後はそこかよ(苦笑)。

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