創作エッセイ(57)うつ寛解期の思い出

 私は53歳の3月に勤務先の広告会社を退社している。30代の半ばから抗うつ剤を飲んでいて、だましだまし勤務をしていた。53歳の時についに限界がきて、医師のアドバイスで退職したのだ。
 何とか寛解してきた半年後から、新たな職を探したのだが、2011年(東日本大震災の年)の日本では、53歳の高齢者の就職口はなかった。二か月ほどの間に何社も断られた後、11月になってようやく見つけた仕事がバイク便の受託ライダーだった。
 稼ぎはあまり良いとは言えないけど、社会の中に居場所がある、ライダー仲間との会話とか、メンタル病んでた私には重要な場所だった。
 ライダー仲間の中にも私のような原因で会社辞めてる人とかがいて、コミュニケーションに不器用だけど根は悪くない人たちばかりだった。

並行して勤め始めた派遣社員仕事の通勤用に借りた名駅の駐輪場。
隣はライバル会社の青年ライダーだけど、同業だけによく話した。
楽しい時間だった。

 その後、退職金を使い果たした私は、嫁の願いで再就職に走る。今度はすんなりと派遣社員の口が見つかった。政権交代から1年後。経済上向いてきた感を受けた。この派遣の仕事を週に四日、バイク便を週に二日と、六勤一給のハードワークで何とか会社員時代の年収の2/3ぐらいを稼いでいた。
 当然、小説など書いている暇はない。
 この派遣仕事の場所がメーカーのコールセンターで、コミュニケーターのスタッフが「上のものに変われ!」と言われた後の話を聞く役。この仕事が合っていたのか、三年の期間を満了。完全に「うつ抜けたな」感を自覚した。
 この「うつ寛解」期間に、Kindleで過去の小説作品をリリースしたり、サイタの「小説指南」を始めたりと、今の自分の基礎ができた。
 当初、「うつで会社を辞めなければならなかった」と思っていたのだが、寛解後は「うつのお陰で会社を辞めることができた」と思えている。さらに、辞めた後の体験や、そこで出会えた人たちがかけがえのない財産になっている。
 これは私の人生の「回り道」ではなく「回らなければならない道」だったのだと思う。
 肉体的には糖尿病の定期通院のお陰で、病気の芽を小さなうちに摘み取って健康な生活をしている。同様に心理面では、うつのお陰で貴重な気づきを得られた。
 人生はうまくできている。

(追記)
この気づきを作品化したのがこちら。Kindle版とペーパーバック版があります。私生活が赤裸々に書いてあるので、ペンネームは別名義だ。「気づき」こそが物語の核になる。それを強く意識した作品。これもうつのお陰だ。
「人生はボンクラ映画 青空侍58」


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