1700字シアター(8)たはむれに
(2021/03/30 ステキブンゲイ掲載)
石川啄木の「一握の砂」の中の代表作に次の歌がある。
たはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず
教科書でもおなじみの歌で、その解釈は「ふざけて母をおぶってみたら、あまりにも軽いことに気づいてほの悲しくなった」と一般的には解説されている。
なぜ、突然そんなことを? と思うであろうが、実はたった今、母を背負って三歩も歩けなかったばかりなのだ。
ここは愛知県の奥三河、稲武の「道の駅」である。連休最後の休日に家族サービスをと妻からせっつかれ、母と妻と娘を乗せてドライブとしゃれ込んだのだ。
休憩に寄った道の駅で、車を降りた母は、
「歩けない」とこぼした。
母は八十歳を過ぎていて、近年は脊柱管狭窄で杖を使っての歩行だったが、「息が切れる」「足がしびれる」等の理由ですぐに車椅子に乗りたがった。
当初は行く先々で車椅子を借りて押していたのだが、どんどんと体が衰えていくのを見ていると、「やらない」ことでますます「できなくなる」ようでもあった。
「これからは車椅子がいるわねえ」と妻が言った。
「車椅子を常用してると、完全に歩けなくなっちゃうよ」と俺。
今回は半日の行楽疲れでもう立てないのであろう。
「おぶってよ」と母。
しょうがねえなあと、俺は母に背中を向けて中腰になった。
脳裏には先ほどの啄木の歌が浮かび、俺も母を背負うのかと思った。
知名度はないが、一応小説を書いて出している俺、啄木に思いをはせる程度の文学的な素養も多少はあるのだ。
「悪いねえ」と言って俺の背に乗った途端、その母の重さに唸った。
そういえば母は身長の割に小太りで、六十キロ超えてたはずだ。
力を込めて背を伸ばした途端、腰に激烈な痛みが走り、俺は前のめりに膝をついた。
何が「軽き」や、俺は「重き」に泣いてるやん。還暦過ぎた息子には母が重くて立てないのだ。
石川啄木がこの歌を書いたのは、分かれて暮らしていた母を思い出してのこと。母を思う息子の気持ちを描いた歌だ。
一方、この俺は、同居で暮らす母を必要に迫られて背負い、その重さに文字通り泣いているのである。
啄木の歌が、一人暮らしを始めた若者の母を思う「美しい理想」であるなら、俺の場合は同居老親の世話をする老老介護の「ほろ苦い現実」であろう。
この対比の皮肉さに、思わず苦笑いが浮かんだ。
「やむをえず母を背負いてそのあまり重きに泣きて三歩あゆまず」と呟くと、
「笑い事じゃないよ」と母がこぼした。
小学校の教師だった母なので「一握の砂」ぐらいはわかるのだった。
駐車場で腰を押さえてうずくまる老人しぐさの俺は、悔し紛れに、
「この軽きと重きのコントラストって、美しい理想とほろ苦い現実の対比みたいじゃないか」と皮肉を込めて言った。
母は、一瞬憮然としたが、
「美しい理想とほろ苦い現実って、まるで、文学史に残る啄木先生と、まったく無名のおまえみたいじゃないか」と言った。
俺は憮然として、
「だ、だれがうまいことを言えと」と言った。
妻と娘は爆笑している。
俺はまったく反論ができず、あまつさえその見事な母の切り返しに苦笑いを禁じ得なかったのだった。
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