創作エッセイ(10)秋葉原通り魔事件に思う

秋葉原の事件に思う

(2008年 06月 12日 「読書記録゛(どくしょきろぐ)」掲載)
今回、京都アニメーション事件の公判のニュースに接して、2008年に書いたこの記事を思い出したので、ここに採録する。

注)--------------
秋葉原通り魔事件(あきはばら とおりまじけん)は、2008年(平成20年)6月8日に東京都千代田区外神田(秋葉原)で発生した通り魔殺傷事件。

加藤 智大(かとう ともひろ)が2トントラックで赤信号を無視して交差点に突入し、通行人5人を次々とはねた上、降車して通行人や警察官ら17人を次々とダガーナイフで刺した。一連の犯行によって7人が死亡、10人が重軽傷を負った。警視庁や裁判所、報道、さらに犯人自身からは主に、秋葉原無差別殺傷事件(あきはばら むさべつさっしょうじけん)と呼ばれている。犯人の加藤は2015年(平成27年)に死刑判決が確定し、2022年(令和4年)に東京拘置所で死刑を執行された。(ソース元ウィキペディア)
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亡くなられた方の冥福をお祈りする。
その上で、この事件を考えたとき、慄然とする点がある。
それは、私たちと犯人とは紙一重だということだ。

私は1982年・24歳のとき、犯人の加藤と同じ心境だった。
大学(地方都市)を出て、三流企業に就職して、東京で一人暮らし。
営業マンとして、すべての人に頭を下げまくる日常生活。
友達も無く、ただ小説を書くことだけを励みに生きていた。
周りがすべて勝ち組に見え、孤独で死にたくなる日々。
にぎやかな街を歩いていても、周囲の人にとって自分は風景の一部に過ぎない。また、周りの人も風景に過ぎないという孤独感。

当時の日記に残した自分の短歌が以下のようなもの(恥ずかしい)

 淋しさに、誰かを殺したくもあり
        殺されたくもある夜かな

私と犯人との唯一の違いは、文学という手段の有無だけだ。
加藤の犯罪は決して許されることではないが、あの犯人の愚かしさには、自分自身の若いころの愚かしさが重なり、他人事とは思えない。
犯人にとって、自分の命は恐ろしく軽いものだったのだろう。でも彼の命を大事に思ってくれる少なくとも家族がいることになぜ気づかなかったのだろうか。
ある種の人々にとって単なる背景に過ぎない自分に耐えられなくなると、人はテロに走るのではないだろうか。いわば周りを巻き込んだ自殺である。
人々の恐怖の視線は、少なくとも「無視」ではないからだ。
「俺はここにいる、俺を見ろ」、こういった犯罪は劇場犯罪と呼ばれるらしいが、個人的には、コリン・ウィルソンのように「実存犯罪」と呼びたいところだ。

(追記 2023/09/07)
自分にとって幸いだったのは、コリン・ウィルソンの「アウトサイダー」「殺人百科」などの諸作を読んでいて、自分の孤独感を自覚でき、小説やシナリオ創作のモチベーションに転じることができたことだ。さらに幸運だったのは、初めて応募した作品が予選を通過でき、決して夢物語ではないという思いがモチベーションの維持につながったこと。それがなければ、自分も何か愚行を犯していたかもしれない。

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