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演劇『奇跡の人』

 演劇『奇跡の人』の初日舞台を東京芸術劇場プレイハウスの2列目の中央左寄りという恵まれた席で観劇。主演の高畑充希や平祐奈の息遣いも感じられるほどの距離。クライマックスの水飛沫のシーンでは、平祐奈の弾いた水滴が膝にかかった。その観劇を通じて次のようなことを感じ、考えさせられた。
 親の存在は、しばしば子どもの成長にとって決定的な阻害要因になる。子どもに対する適切な教育には、科学的な教育の方法が必要であり、それを情緒的な意味における愛情で代替することはできない。障害のある娘への「憐憫」という名の愛情によって、獣のような暴君に育ってしまった平祐奈演じる7歳のヘレン・ケラー。櫛の通らないほどボサボサの、長い髪を振り乱しながら、所構わず暴れ回り、食い散らかし、喚き散らす。
 そんな、獣のような暴君を、本来の人間らしい一人の子どもに教育するためにボストンから呼び寄せられたのが、高畑充希演じるアニー・サリバン。実は、この時、アニーは弱冠20歳という若さ。しかも教師経験は皆無だった。そんなアニーにとって、見えない、聴こえない、話せないヘレンに立ち向かうための、三つの武器が、障害児教育に関する1冊の臨床記録、スペインの修道僧が開発した手話のようにしてアルファベットを表すサイン、そして、幼少期の失明状態から度重なる手術と入所施設職員による働きかけによって一定の視力を獲得するに至った彼女自身の経験的知識である。
 一つ目は、臨床医による詳細で具体的な調査報告書であり、これがヘレン・ケラー教育の科学的基礎となる。その教育、具体的には言語能力を獲得させるための実践的な手段が、二つ目のハンド・サインである。これは手の指と手のひらで作ったサインの形状を、それを読み取る側の人が自らの手で掴んだり触ったりすることによって認識するというものだ。私が小学校の教科書で読んだヘレン・ケラーの話では、アニー・サリバンがヘレン・ケラーの手のひらに、自分の指先でアルファベットのスペルを綴って言語を習得させたと書いてあったが、それは誤りであった。そして、それらの科学的かつ臨床的知見と、実践的な言語伝達手法を、実際に生きた教育の中で機能させるために必要だったのが、失明状態にあった自らが、実際に文字を獲得するために経験した、認識の発展プロセスに関する経験であり、それを他者に対して再現することのできる創造的な実践であった。
 ただし、そのためには、環境要因としての両親の存在を無くしてしまう必要があり、それを実現するために、アニーは、ヘレンと二人だけ状態を作ることのできる、同じ屋敷の敷地内にある離れに居を移し、ヘレンと両親を隔絶した状態で、文字通り、この獣のような暴君と格闘する。それは、しばしば、全身傷だらけになるほどの、体当たりの格闘であり、その中でアニーがあくまでも執着したのが、ハンド・サインによる言語の伝達であった。その結果、驚くべきことに、わずか2週間の二人だけの隔離期間の後に、ヘレンは20個余りの名詞と10個ほどの動詞のスペルを獲得し、ついには、庭の井戸から汲み上げられる水が、手動のポンプから勢いよく流れ出るところに、両手を差し入れ、それを何度も手を上下させて体感するうちに、それに名前があることを、そしてそれが、アニーのハンド・サインの示す、ウォーターであることを初めて認識する。それまで、スペルは覚えても、それが意味を持つ言語であることを認識していなかったヘレンにとって、ピアジェの言う「知能の誕生」がここに達成され、ヘレンは見違えるような人間として再生する。
 同じ教育に携わる者として、この舞台は極めて示唆的であり、大学にありがちな徒弟制的かつ職人的な教育の枠を超えた、科学的な教育の必要性を改めて確認させらるものであった。少なくとも、ピアジェに始まる発達心理学の基礎、とりわけ青年期教育論研究の基本的な成果くらいは、大学教員ないしはそれを志す者としては、習得しておきたいものである。

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