"考察系"の寒さ
考察系
最近、やたら「考察」という言葉がやたら聞こえるようになった気がする。
文字通り、特に推理系とかサスペンス系の小説やらドラマやらのストーリーについて、「犯人は誰それじゃないか」とか「何話のエピソードが伏線になっている」とかそういうことを考えるアレだ。
小説を読んでいても、途中で別々に語られていたエピソード同士がつながる瞬間があって、まるで電球がピコーン!となったときのような"快感"を覚えるときがある。
小中学生のときだったか、ドラマの行く末を皆で考えたりとか、そういう時間も楽しかったよなぁと思う。
「ドラマについて語り合う」特集
そういう、受け手側により自然発生的に生じてきた"考察"はコンテンツそのものを盛り上げる。
だが、最近は(まぁ、私は観ていないが)テレビドラマでも「考察してもらおう」と狙っているようなものがあるなぁと思う。
そういうドラマは、もしかしたら昔からあったのかもしれない。だが、問題はそれを朝の情報番組で特集なんかにしてしまっているところだ。
某番組では、「◯◯というドラマについて、そのファンだという芸能人に集まって考察してもらう」という寒すぎる特集があった。
朝の忙しい時間に、観てもいないドラマについて語り合うのを見せられても困る。いくら視聴率低下に喘いでいるからといっても、番組が乗っているのは公共の電波である。
そして何より、それは自然発生的な「考察」ではない。
画面の向こう側で「テレビに出るプロ」たちがお金をもらってドラマについて語り合っているにすぎない。
いくらドラマがヒットしたとしても、画面のこちら側との温度差は大きい。
ドラマについて議論するシーンを見せられるくらいなら、政治について芸能人が語り合うような特集のほうが、よほど有益で「公共性」があると思うのだが。
読解力の問題?
あるいは、こうした寒い特集の背景にあるのは、受け手の読解力の問題かもしれないという説も考えた。
ドラマを単純に流しているだけでは、中身を理解できない視聴者もいるのかもしれない。だとすれば、ストーリーを要約して「わかりやすく」噛み砕いて教えてあげる時間も必要ということになる。
たしかに、「ファスト映画」が流行ったのと同じように、難しい話を難しいままに理解できない人にとっては、簡単に噛み砕いてくれるのはありがたい。
そう考えると、「視聴者のニーズ」に合ったものを提供しているだけと言えないこともないだろう。
"公式"が提供してはいけないもの
ただ、「推し活」なんかもそうなんだけれど、何かを楽しんだり好きになる、それについて語り合うことは、受け手の自発的な感情によるものだ。
それを今は、商品を供給する側が「提供」している。「推しを見つけよう」ではないんだよ。
いつの間にか「(そのキャラや人物などを)推している自分」と、出会っているんだよ。
もちろん、ビジネスなので商機があるとみれば乗っかりたくなるのは仕方ないことだ。
しかし、受け手が「好きにならなければならない」「語らなければならない」と感じるコンテンツに、果たして価値はあるのだろうか。
本当に面白いドラマであれば、その考察ぐらい、勝手にやらせてもらいたいものである。
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