トマ・ピケティ『21世紀の資本』を読み解く
トマ・ピケティさんの『21世紀の資本』を読んだ。
2014年に出版された本書は邦訳600ページに及ぶ大著だが、読み始めると意外と面白く、一気に読み通してしまった。ひとつひとつの概念を丁寧に説明して、議論を組み立ててゆくので、何も知らない状態から読み始めても、すんなり読めるように工夫してある。良い本である。
(国民資本/国民所得)=β の推移
本書の主な内容は、国民所得に対する国民資本の割合が、この数世紀の間にどう変化したかを示すことである。
国民所得とは、GDPから減価償却分を引いたものだ。減価償却とは、資本の劣化による価値の減少のことで、たとえば住宅や生産設備が経年劣化したさい、その補修や交換にかかる費用である。GDPから減価償却分を引くと、だいたいもとの9割程度の値になる。
国民資本とは、国民が所有する資本の総量である。その内訳は、住居が半分で、残りの半分は事業用の建物や生産設備、証券などだ。
では、国民所得に対して国民資本がどれだけの割合になるかというと、2010年の日本だと6倍程度になる。当時の日本のGDP500兆円に対して、国民が保有する資本はその6倍、3000兆円だった。
本書では、この(国民資本/国民所得)=βの値が時代とともにどう変化したかを調査している。著者の母国フランスでは、19世紀を通してβ=7で、資本の総量は国民所得の7年分に相当した。この値は第一次世界大戦直前の1914年まで続いた。ところが、第一次、第二次大戦の期間中に資本の量は激減し、1945年にはβ=3まで低下した。その後、平和の訪れとともに資本は蓄積を再開し、2010年にはβ=6と、第一次大戦直前の水準に回復している。
戦争により資本が減ったのは、ひとつには物理的な破壊のためであり、もうひとつは貯蓄率の低さのせいだという。戦間期に起きた大恐慌によって、資産家は貯蓄を切り崩さざるをえなくなり、資本の量は減った。そして三つ目の要因として、インフレが資産の喪失を後押しした。戦間期のインフレに対応するため、各国政府は家賃の上昇を抑える政策を行った。そのため不動産収入は低下し、不動産価値も下落、結果として資本の量は目減りした。
以上の理由で、終戦直後に資本の総量は国民所得3年分まで減少した。これはフランスだけでなく、イギリスや日本でも規模は違えど同様の傾向がみられるという。
資本の量が激減したため、経済に対する資本の影響力は低下した。そのため戦後復興期には、己の努力と才覚によって所得を向上させ、財産を築くという能力主義的な人生観が支配的だった。この時代に生まれた人は、出自によって人生が左右されることはなかったのだ。だが、その後の平和な時代に資本の蓄積が進んだ結果、親の遺産が子供に与える影響は大きくなっていった。21世紀初頭には、相続の重要性は19世紀と同じ程度に高まっているという。
r>g
戦後50年を経て、資本の比率は戦前の水準に回復した。問題はその分布である。19世紀と同じように、富が一部の人々に集中しているのだ。
なぜそうなるかというと、資本収益率rが経済成長率gよりも大きいからである。これが本書のふたつ目のテーマとなる。ごく一部の例外的な時期を除き、人類の歴史を通してr>gの関係が成り立つと著者は主張する。資本収益率はつねに4-5%である。一方、経済成長率は、18世紀以前には0.1-0.2%だったのが、20世紀前半には2%、20世紀後半には5%に上昇し、21世紀には再び1%に戻るという。
つまり、1950-2000年の50年間だけが例外的にr<gであり、それ以外の時代はおおむねr>gであった。資本収益率rが経済成長率gよりも大きいということは、所得の上昇よりも資本の増加のほうが速いので、資本家はますます富を蓄えるようになり、格差が拡大してゆくことを意味する。格差がどこまで広がるかはrとgの差によって決まる。19世紀のフランス(r=5, g=1)では、トップ10%の人々が資本の90%を所有し、トップ1%が資本の50%を所有していた。すさまじい格差社会だったのだ。
ここで資本収益というのは、簡単にいえば家賃である。家賃はだいたい年率で、その物件を建てるのに必要な費用の5%に設定されるという。したがって、20年で元が取れる計算になる。これが資本収益率5%の意味だ。物件の持ち主は、その物件の資産価値プラス、毎年資産価値の5%の収入が得られるので、20年で資産は倍に増える。もちろん、その中から生活費を捻出する場合、その分が差し引かれることになる。だが、仮に資産が数百億円の規模になれば、生活費など微々たるものだ。収入分をさらに投資に回せば、15年で資産は倍になる。これでは、資産を持たず労働所得だけで生活している人は、どうしても資本の増殖に追い付けない。
このとき、所得の上昇率が5%以上であれば、労働者の貯蓄が資本を上回る勢いで増加するので、資本の影響力は大きくならない。しかし、現在の先進国では経済成長率は1%程度であり、今後もこの傾向は続くはずだ。21世紀には、所得の上昇よりも資産が増加するスピードのほうが速くなる。貯蓄の増加は等加級数的だが、資本の増加は等比級数なので、貧富の格差は際限なく広がってゆくことになる。
こうして生まれた格差は、資本の相続によって固定される。貧しい家に生まれた人はずっと貧しいままである。人生は努力や才能ではなく運によって決められることになる。
ただ、現代には19世紀との違いもある。それが中間層の出現だ。19世紀にはトップ10%が富の大部分を独占し、残りの90%はほとんど何も持たなかった。だが、20世紀に分厚い中間層が出現し、人口の40%の中間層が資本の30%を所有するようになった。そのため現代では中規模の相続が増えはしたが、相続そのものの重要性は19世紀と変わらない。我々はいま、20世紀とは違い、資本が支配する社会に生きている。それは出自がものをいう世界だ。
世界資本税
このような格差の拡大をどう考えるべきか。ピケティはフランス人らしく、貧富の格差をなくし、富を平等に分配するべきだと考える。そのために彼は世界資本税の導入を提案する。すなわち、全世界の銀行が情報を共有し、各個人、法人の資産を厳密に計算する。その上で、資本に対して累進的な税を課すのだ。著者の提案は、100万ユーロ以下の純資産には0%、100-500万ユーロの範囲には1%、500万ユーロ以上には2%の税率を課す。これだけで十分に格差の解消が期待できるという。
なぜ所得税ではなく資本税、つまり利益ではなく資本に直接税をかけるのかというと、まぎれをなくすためだという。というのも、多くの資産家は利益の一部を所得として報告せず、一族の運営する財団や基金に積み立てて、所得隠しを行っている。こうした合法的な節税を出し抜くためには、資本そのものに課税するのが最も効果的だという。そのためにはタックスヘイブンを含めた世界中の銀行や金融機関の情報共有と、国際的な政治協力が必要となる。それをどう実現するかが最大の課題である。
世界資本税の提案は非常に合理的で賛同できるものである。格差の拡大を食い止めつつ、市場経済の競争力を維持するためには、こうするしかないと思う。問題は、本当にこれが実現できるのか、ということだ。
たぶん、近代国家には難しいだろう。というのも、近代国家と資本家は共犯関係にあるからだ。貨幣に依存する国家は、貨幣を集めるプロである資本家に頭が上がらない。近代国家が税収を増やすためには経済を成長させる必要があり、そのためには経営者や資本家にその能力を発揮してもらわねばならない。資本家の繁栄と国家の繁栄は同義であり、この共犯関係を脱け出さない限り、政府が資本家の手綱を握ることはできないだろう。いまの国家は資本家の言いなりになっている。それは、財政の基盤を税金に置いているためだ。ゆえに、我々は税金に依存しない政府を作る必要がある。
資本家が最も恐れるのは、高額の税を課す政府ではなく、税金を全く取らない政府である。お金とは異なる原理で動く政府だけが、資本家を制御することができる。それが重農主義政府である。
重農主義政府は穀物を財政の基盤とする。世界中の農家から穀物を徴収し、これを独占する。政府は職員の給料を穀物で支払い、あらゆる決算を穀物で行う。こうして穀物を貨幣として流通させる。その価値を維持するために、政府は世界規模で減反政策を行う。穀物の量を調整して希少価値を高め、貨幣として利用できるようにするのである。
重農主義政府の利点は、資本家に気を使わなくてよい点である。資本家が繁栄しようが没落しようが、政府の運営に影響はない。だから、資本と距離を置いて政治ができる。このような政府が人類には必要だと思う。
ここで、政府が穀物生産を独占すれば、穀物市場に競争がなくなり、生産性が低下してしまうのではないか、と心配する人がいるかもしれない。安心してほしい。現在においても、穀物市場は競争と無縁なのだ。先進諸国は穀物農家に莫大な補助金を与え、その生活を支えている。そのため、国際穀物市場には正常な競争の原理が全く働いていない。このうえ重農主義政府が穀物生産を独占したところで、穀物市場に本質的な変化は起きないだろう。
また、人類の農業技術はとっくに世界人口を養うのに十分な水準まで発達している。ゆえに、これ以上の生産性の向上は不要である。我々はむしろ、穀物生産が過剰にならないように気をつけなければならない。
人類の歴史を通して、穀物は特別な商品であり続けている。なぜならば、穀物こそが人間社会の基盤だからである。人は穀物なしでは生きてゆけないし、人間社会は穀物抜きでは成り立たない。ゆえに、穀物を政治の基盤に据えることは理にかなっている。
リベラリズムの困難
経済学者の本を読むといつも、なぜこんなに回りくどいことをするのだろう、と思ってしまう。彼らはすべてをお金に換算して評価しようとする。
賃金の格差が何によって生まれるか、という問題に対して、著者はこう答える(第9章)。「賃金格差の決定に基本的役割を果たす・・・二つの力とは、技能の需要と供給だ」。「現実問題として、技能の供給はまず何よりも教育システムに左右される・・・需要はまず何よりも、社会が消費する財やサービスを生み出せる技術の状態に左右される」。
技術と教育の二つの要素が、賃金格差の決定に重要な役割を果たす。デジタル技術のような新しい技術が生まれると、社会にはその技術に対する需要が生まれる。その需要を満たしうる人材が少数しかいない場合、彼らの給与は相対的に高くなり、賃金格差が生じる。この格差をなくすためには、より多くの人に新技術を身につけるための教育を受ける機会を与えねばならない。つまり、平等な教育によって賃金格差を是正することができる。いまの日本でIT教育が必要とされるのは、このような観点からである。
また、彼は第1章で次のように述べている。「国際レベルでも国内レベルでも、(所得格差の)収斂の主要なメカニズムは歴史体験から見て、知識の普及だ。言い換えると、貧困国が富裕国に追いつくのは、それが同水準の技術ノウハウや技能や教育を実現するから」だ。ここでも教育の価値が強調されている。
経済学者の観点からすれば、教育には格差解消の役割しかないことになる。実際、ピケティは人類の平等を実現するための手段として、教育に大きな価値を見出している。
だが、それは過小評価である。教育にはそんなものをはるかに超えた大きな価値がある。教育とは何よりも道徳を実現するための手段であり、政治を実現するための手段である。その価値を彼は知らない。
例をあげよう。彼は最低賃金に関して次のように議論する。「たとえば、地方の労働市場で経営者の小さな集団が独占的な買い手の立場なら、彼らはその立場の強みを活かすべく、思いっきり賃金を下げるだろう。・・・こういう場合、最低賃金を課すのは単に公正だというだけでなく、・・・効率的でさえある。不完全競争に基づいたこの理論モデルは、最低賃金の存在を最も明確に正当化するものだ。その目的は、経営者に競争上の優位性を野放図に行使させないことだ」(第9章)。
まとめると、経営者が労働者の賃金を不当に安くすることがないように、政府が最低賃金を設定する必要がある。
我々はこのような議論をあまりにも頻繁に目にするので、こうした議論に潜む道徳的欺瞞に気づかなくなっている。なぜピケティは経営者を非難しないのだろうか。なぜ、人が人を苦しめることを当たり前のこととして受け入れているのか。不当に低い賃金によって他者を苦しめるような人間は存在してはいけない。なぜ、彼はそう言わないのだろうか。
それが自由の限界である。リベラリストは人間が罪を犯す自由を認めている。少なくとも、それに干渉するべきではないと考えている。だから、リベラリズムが幅を利かせる限り、社会悪がなくなることはないのだ。
本当は、このようなときこそ教育の出番である。人間が道徳的であるためには教育が必要であり、学問を積む必要がある。我々は教育によって、人を苦しめることを悪だと感じ、それを必死で避けようとする人間を作らねばならない。そうしなければ、経済格差による不幸を解消することはできない。最低賃金の設定やあれやこれやの法制度は対処療法にすぎない。根本的な解決は教育によってのみもたらされるのだ。
ピケティはフランス人らしく、富の格差に敏感であり、平等を強く志向する。彼はフランス革命を誇らしく思っている。その理由は、それがヨーロッパに現れた唯一の道徳規範だからである。自由、平等、博愛。それが最高の価値だと彼は信じている。
実際には、自由にも平等にも価値はない。真の理念は平和であり、平和を実現する過程で他の条件は自動的に満たされる。自由も平等も、平和に比べれば副次的な理念でしかない。フランス人が平和を理念として掲げることができないのは、フランス革命が暴力的なものだったからだ。暴力によって作られた倫理は、暴力を排除できない。その深刻な矛盾に彼らは気づいていない。
そもそも、著者の提唱する世界資本税を導入するためには、世界平和が絶対的な条件となる。なぜならば、戦争状態にある国々が税制において協力することはありえないからである。残念ながら、彼はその重要性を全く理解していない。リベラリストは平和を実現不可能な空想とみなし、あらかじめ思考から排除してしまうのだ。なんと愚かなことか。
道徳の必要性
ピケティが他者を道徳的に非難しないのは、彼自身が道徳的な人間ではないからだ。そして、道徳が実践されうるものであることを信じていない。この意志の弱さはヨーロッパ社会に普遍的に見られるものである。アジアの文明はおおむねこうした弱さを克服する方向に進歩してきたが、ヨーロッパの文明はむしろこの弱さを肯定する方向に進んできた。彼らは、個人の弱さを社会制度によって補おうとしてきたのである。
だが、それは根本的な解決にはならない。すべての社会は人間によって構成されているので、人間自身が強くならなければ、公正な社会を実現することはできない。人間の弱さを肯定した先にあるのは、AIによる人間の支配というグロテスクな未来像だけである。
ヨーロッパ人はこの弱さゆえに、人間を意志を持つ存在とみなさずに、欲望に従って自動的に動く機械のように扱う。経済学者は、まるで野生動物や星雲を観察するように人間社会を観察する。そのため、そこに意志を持った人間が発見されることはない。その内気さゆえに、彼らは人間の内面に踏み込むことをためらってしまうのだ。
我々は、社会制度ではなく、人間の心を進歩させねばならない。それが教育の力である。
著者によれば、資本収益率rは、ほとんど常に経済成長率gを上回っている。20世紀中旬にはこれが一度逆転したが、それは人類の歴史を通じて非常にまれな出来事であり、21世紀以降は再びr>gの状況が続くという。これは、富を持つ者のもとにさらに多くの富が集まり、格差が際限なく拡大することを意味する。
ピケティはこの状況への対策として、強い累進性を持った資本税を導入し、富の再分配機能を強化するべきだと訴える。そうしなければ、格差の拡大が耐えられないほどの不幸を生み、いずれその社会は何らかの破局に導かれるはずだ。彼の念頭にあるのは第一次および第二次世界大戦である。これら両大戦の期間を通じて、世界的に格差が縮小し、富はいくぶんか平等に分配されるようになった。彼は、これらの大戦が格差の拡大によって引き起こされたとは言わないが、今後格差の拡大が進めば、いずれ両大戦に匹敵する破局が訪れ、再び富の再分配が行われるはずだと確信している。その破局を避けるために、彼は累進課税を提案しているのである。
彼の未来予想図はマルクスと同じか、それ以上に暗い。そうなるのは、彼が人間の精神を理解していないからである。彼は人間の意志の力を信じておらず、道徳の尊さを理解していない。そのような破局を避けるためには、制度設計を考えるのではなく、何よりもまず人々を道徳的に鍛え上げねばならない。社会を混乱に陥れるのは人間の弱さであり、これを克服する教育が絶対に必要である。
必要なことはリベラリズムを捨て、論語を読み、孟子を読むことだ。それ以外にない。
徳治
私は稲川淳二の怪談が好きで、よく聞くのだが、彼はときどき家族の話をする。稲川の父は会社に勤めていたが、あるとき同僚が自殺してしまう。世話になった同僚の遺族に対して、稲川の父は毎月生活費を援助していた。家計に余裕があるわけでもないのに、律儀に援助を続ける父の姿を見て、子供ながら立派だと思ったという。いまであれば、生活保護をもらえ、と一蹴されてしまう話である。
自由で平等な個人によって構成される社会では、相互扶助は期待できないため、公的なセーフティネットが必要とされる。それが生活保護という制度によって実現されている。そして、これがあるために、人が人を見捨てるようになる。ここでこいつを切り捨てても、生活保護があるから死ぬわけではない。そう考えたときに、人は冷酷になる。他人を見捨てることが正当化され、人間関係から倫理が失われるのだ。生活保護は人間性を破壊する。もちろん、この制度自体が悪いわけではなく、自由な個人によって構成される社会という理念そのものが悪なのだ。
我々の社会は本当に進歩したのだろうか。日本人の人間性は本当に進歩したのか。
著者は19世紀のフランスを暗黒の世界として描く。富の格差が極端に拡大し、労働者は身を粉にして働いても雀の涙ほどの賃金しか得られない。その一方で、上位10%の資産家は働きもせず、親の遺産による不労所得で豪華な暮らしをしている。このような状況は、近代以前の全ての「野蛮」な社会で普遍的に見られたものであり、近代化によってようやく払拭されたのだ。だが、21世紀に再びこのような暗黒時代が訪れる危険性がある。そうならないために、つまり、フランス人が革命によって獲得した近代の果実を失わないために、我々はいまできることをしなければならない。
彼の描く世界像は本当に正しいのだろうか。彼は19世紀のフランスを、他の全ての時代や地域に不当に一般化しているのではないか。たとえば、17世紀から19世紀までは、徳川家が日本を支配していた。この時代に、日本人はかつてない平和と繁栄を享受した。同時代のヨーロッパが戦争と革命に明け暮れていたことと比べると、大きな違いである。
おそらく、江戸時代にも富の格差は存在したのだろう。それは19世紀のフランスと同じくらい大きかったのかもしれない。しかし、そうだとすれば、なぜ徳川体制は3世紀も続いたのか。なぜ日本は平和だったのか。
ひょっとすると私は、この謎を解き明かすために江戸時代の経済事情を徹底的に調べ上げねばならないのかもしれない。だが、たぶんそんなことをする必要はない。江戸が平和だったのは、徳川の政治が優れていたためだ。その秘訣は政治理念にある。当時の日本は法治国家ではなく、法律は国民に知らされていなかった。そのため国民は法律を気にせず、己の倫理に従って行動しなければならなかった。自分が正しいと思ったことを過たずに行う自主性が必要とされたのである。
法律という外から与えられる規範に従っている限り、その人間は自主性を持てない。法律によらずに自分の判断で行動できるようになって、人はようやく倫理を持つことができる。ヨーロッパに根強い法治の伝統は、人から主体性を奪う。それは倫理を奪うことと同義である。だからヨーロッパ人は主体性を持たず、倫理を持たない。人を行為主体として扱うことができないから、経済学は無味乾燥で現実と乖離した虚構を作り出してしまう。その虚構に一喜一憂しているのだから、哀れというほかはない。
法治主義は誤った政治理念である。秦の商鞅が宿に泊まるのを断られたとき、それはすでに明らかにされていたのではないか。我々はなぜ、役に立たぬと知りながらヨーロッパの政治理念に従わねばならないのか。
重農主義については『世界政府論』を参照してください。
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