東浩紀『訂正可能性の哲学』を読み解く

先日、X(旧twitter)をはじめました。この記事は、Xでのつぶやきをまとめたものです。

本稿は、表題の本を読み解き、リベラリズムを批判する内容になっています。今後しばらくは、気になる本の読解を行っていくつもりです。


第一部

本書は二部に分かれている。第一部ではリベラリズムについて、第二部では民主主義について議論が行われる。

本書の問題意識は明確で、日本の政界におけるリベラル勢力の退潮を憂慮し、リベラルな政治運動に新しい方向性を示そうとするものである。そのために彼が目指すのは、「開かれた社会」と「閉ざされた社会」という二項対立を克服することである。リベラルは「開かれた社会」を理想とし、保守は「閉ざされた社会」を肯定する。その対立を乗り越え、保守でもリベラルでもない第三の立場を見出すことが著者の目標である(第四章)。

だが、彼の立場は決して中立的なものではなく、リベラル側に偏っている。第四章には「リベラルな「開かれ」にまっすぐ向かわなくとも、保守的な「閉ざされ」をたえず訂正し、再定義し続けることはできるのであり、そちらにこそ新しい政治思想の基礎を置くことができるだろう」という記述がある。ここで彼は、リベラルな「開かれた社会」を肯定しつつも、必要悪として保守的な「閉ざされた社会」を受け入れる、という態度をとる。政治運動に持続性を与えるために、いったん閉ざされた社会を認め、それを利用する戦略である。その方法論として訂正可能性の概念が発見される。

著者は「閉ざされた社会」の代表として家族をとりあげる。家族とは閉鎖的で排除的な人間関係である。そのため、「開かれた社会」を尊重するリベラリストからは敵視され、否定的に評価されることが多い。しかし、じつは家族の中にこそ、開かれた社会への契機があるのだと彼は述べる。


東は様々なテクストを読み返す中で、「開かれた社会」と「閉ざされた社会」を区別することの難しさに気付く。開放性と閉鎖性は、はっきり区別できるものではなく、すべての社会は開放性と閉鎖性のはざまにある。社会に関するこの発見を整理するために、彼は後期ウィトゲンシュタインを引き合いに出す。

ウィトゲンシュタインの仮定する言語ゲームにおいて、プレイヤーは必ずしもゲームのルールを理解しているわけではない。プレイヤーはそれが何のゲームか分からないまま、ただプレイだけを続けている。そのため、事後的にルールが訂正されることすらある。

東はこの言語ゲームの概念を、社会関係に適用する。ある社会を支配するルールはあらかじめ決まっているわけではなく、その社会に参加するプレイヤーによってつねに訂正され、修正されるものである。たとえば、新しいプレイヤーが参加し、その社会のルールにそれまでとは違う新しい解釈を与えたとする。それを他のプレイヤーが認めれば、ルールは訂正され、ゲームは更新される。このような社会は、開かれているとも閉じているともいえる、と彼は述べる。訂正可能性は、家という閉ざされた空間につけられた扉である。この扉を開け閉めすることで、家族は開かれたものにも閉じたものにもなりうる。

以上が第三章までの議論である。第四章では、こうしたゲームのルールが社会正義と結びつけられる。社会を律するルールとは法制度にほかならず、法制度こそが社会に正義をもたらす。したがって、ゲームのルールが訂正可能であることは、社会正義が訂正可能なものであることを意味する。

これで第一部は終わる。結論として、社会正義は訂正可能なものであり、訂正可能なものだからこそ正義でありうる、というテーゼが示される。

第一部への批判

少しうがった見方をすれば、これは著者の保身から出た思想だとも考えられる。

たとえば、彼は第三章において「自分こそ被害者であり当事者だと思っていても、いつなんどき、あなたはじつは当事者ではない、あなたこそ加害者だったと言われてしまうかわからない」と述べている。こうした不安定な状況に尻込みしてしまう人もいる。しかし、ぼくたちはどうせいつもまちがうのだ、と開き直って、中途半端なコミットメントに乗り出す勇気を持とう、と著者は言う。

これはいっけん倫理的な提案をしているように見える。だが同時に、あなたを加害者として糾弾する正義も、いつかは訂正されるだろう、という免罪の言葉としても読めてしまう。


次に、私がこの本を読み進める中で感じた疑問を説明したい。

それは言語ゲームについてである。ウィトゲンシュタインによれば、言語の本質はゲームであり、そのルールは明らかではない。「石板!」という言葉が「石板を持ってこい」という意味になったり、「この物体は石板という名前だ」という意味になったりする。その言葉が何を意味するかということは、コミュニケーションの中で事後的に解釈される。

だが、これは言語の本質ではない。自説を支持するような特殊的事例を持ち出して、議論を不当に一般化することは哲学者の常套手段である。すべての言葉が訂正可能であるわけではなく、訂正可能ではない言葉や、訂正可能であってはならない言葉も存在する。

たとえば、「人を殺してはならない」というルールは訂正可能だろうか。我々は、ここに訂正可能性を認めるべきだろうか。


常識的に考えるならば、このルールは訂正可能であってはならない。だが、歴史的にはこのルールは訂正可能だったのである。

20世紀以前のヨーロッパでは、人間という言葉は白人だけを意味し、そこに有色人種は含まれなかった。また、ピューリタンがアメリカ合衆国を作ったときには、人間という言葉にインディアンは含まれなかった。白人は殺してはならないが、インディアンは殺してもよかったのだ。それがゲームのルールだった。

このように、欧米社会は「人間=白人」というルールによって運営されていたが、19世紀の末に新しいプレイヤーが加わることになる。日本である。日本人は自らが有色人種であるため、国際連盟の規約に人種差別の撤廃を盛り込み、「人間=白人」という定義を訂正しようとした。だが、この試みはアメリカの反発によって失敗する。

一度は失敗したものの、日本にとってルールの訂正は死活問題であり、諦めるわけにはいかない。この問題はやがて様々な国際紛争に発展し、最終的に太平洋戦争に至る。この戦争の結果を受けて国際連合が発足し、そこではじめて人種差別が明確に否定されることになった。欧米社会はようやくルールの訂正に合意したのである。彼らのルールでは、もともと「人間=白人」だったが、日本の努力によってそこにアジア人が含まれるようになり、アメリカでは60年代に黒人が人間の定義に含まれるようになった。しかし、インディアンはいまだに除外されたままである。

欧米社会は訂正可能な社会である。だが、ときとしてルールの訂正には大きな代償が伴い、それが戦争という形をとる場合もある。日本は欧米社会の新しいプレイヤーとしてルールの訂正に挑み、最後は戦争によってルールの訂正を認めさせることに成功したといえる。我々はこのように、訂正可能性の哲学から太平洋戦争を正当化する結論を導くことができる。

外的言語と内的言語

「人間を殺してはならない」

ここで「人間」という言葉が何を意味するのか、本当は誰もが知っている。それを知らないふりをすることによって、訂正可能な社会は成り立っているのだ。訂正可能性はプレイヤーの嘘によって成り立っている。

リベラリストは嘘を肯定する。彼らはときに、人間の嘘をつく能力を称賛することさえある。

本書に登場するウィトゲンシュタインの言語ゲームは、プレイヤーの不誠実さを前提としている。「石板!」という言葉によって「石板をもってこい」と指示する場合も、石板の名前を教える場合も、どちらも重要性の低いコミュニケーションである。言葉を発する側は、本当はどちらでもいいと思っているのだ。

それに対して、「ベニテングダケを食べてはいけない」とか「マムシは毒を持っている」と伝えようとする場合には、誤解がないように注意しなければならない。これらの言葉は曖昧さを持っていてはいけない。ゆえに、言語にはゲーム的ではない使われ方も存在すると言える。


アリストテレスは、こうした言葉の使い方を実践的三段論法と呼んだ。実践的三段論法は人間の行動を説明する理論である。たとえば、あなたがジャガイモを調理しようとしたとき、ジャガイモに芽が生えていることに気付いたとしよう。

  • あなたは次のように考える、「このジャガイモには芽がある」。これが小前提である。

  • あなたは思い出す、「芽が生えたジャガイモを食べてはいけない」。これが大前提である。

  • これら二つの命題から、あなたは「これを調理してはいけない」という結論を導く。

その後、あなたがジャガイモを捨てるか、それとも芽をくりぬいて調理を続けるかは、また別の三段論法によって決定される。つまり、人間の行動は三段論法の集積によって決定される。これがアリストテレスの発見である。


仮に、理論的三段論法や、言語ゲームによって示される言語の性質を「外的言語」と呼ぶならば、実践的三段論法は「内的言語」を説明するものである。内的言語は意志の言葉であり、人間の行動を決定する力がある。

人間の心を調べるときに、実践的三段論法は非常に役に立つ。にもかかわらず、近代の思想家はなぜかこの発見を忘れてしまった。近代論理学を創始したフレーゲやラッセルは、アリストテレスの心理学的発見には目もくれず、理論的三段論法のみに注目して論理学を発展させた。人間の心は決定的に見落とされてしまったのだ。

言語には「内的な言語」と「外的な言語」がある。外的な言語はコミュニケーションのツールとして理解される。一方、内的な言語は意思決定の手段、あるいはそのメカニズムとして理解される。


私は、内的言語の神経科学的な表現として「意味ニューロン」という概念を提唱した。それぞれの単語には、その意味に対応するニューロンが存在する、という仮説である。あなたがジャガイモを見たとき、あなたの脳内にある「ジャガイモ」ニューロンが発火する。それが「ジャガイモ」の神経科学的表象である。

同時に、あなたの脳内には「煮る」「焼く」「食べる」といった動詞に対応するニューロンも存在する。「ジャガイモ」ニューロンの発火は接続先の「切る」ニューロンを発火させ、あなたの体を動かし、包丁を握らせる。あるいは、「芽」ニューロンが同時に発火することにより、「切る」ニューロンの発火は抑制される。

このような無数の意味ニューロンの演算によって人間の行動は決定されている。それが意味ニューロンの仮説である。この仮説が、アリストテレスの実践的三段論法を神経科学的に表現していることは、すぐにわかると思う。人間の心は意味ニューロンの演算でできている。それが内的言語を構成する。

第二部

内的言語はゲームではない。それは意志の言葉である。我々の課題は、我々が使う外的言語を、我々の心を表現する内的言語に近づけることである。それが嘘をつかないということだ。しかし、リベラリストは内的言語の存在を否定する。だから彼らは嘘をつくことを肯定せざるをえない。

本書第二部において、著者は一般意志と民主主義の関係について議論する。ルソーが提案した一般意志という概念は、社会契約によって生み出され、社会に公共性を与えるものである。この概念によって民主主義は正当化されてきたが、それは単なる民衆の意志の集合ではなく、それ以上のものだという。

選挙によって表明された民意は、個人の意志の集合であると考えられる。この民意に従って政治を行うことが民主主義である、とふつうは考える。だが、個人の意志の集合は「全体意志」にすぎず、「一般意志」とは異なる。一般意志は社会の外部にあり、自然に近いものだという。ここで、一般意志を技術の力で実現しようとするのが「人工知能民主主義」である。国民から集めたビッグデータを人工知能に分析させることで、社会にとって最適な政策を決定できる。その判断は人間の政治家よりも優れているはずだ。

たしかに、人工知能によって一般意志を実現することは可能である。しかしそれは単なる独裁であり、真の民主主義ではないと著者は喝破する。こうした権力の暴走を防ぐためには、一般意志はつねに訂正される必要がある。そして、一般意志を訂正しうるものは「文学による嘘」だと結論される。

著者は第九章で次のように述べる。「一般意志は、真実か嘘かわからない言葉で構成された、けっして安定した真実に辿りつくことのない、自己ツッコミに満ちた終わらない対話の場の確保で補われなければならない」。

第二部への批判

ここでは、嘘をつくことは政治的に必要なものとして正当化されてしまう。一般意志の暴走を防ぐためには対話が必要であるとされるが、著者にとって対話をすることは嘘をつくことに等しい。これは、外的言語を言語の本質として理解することからくる誤謬であり、人間にとって本来的な内的言語を無視した空論にすぎない。

どんな哲学者も、芽の生えたジャガイモを食べようとはしない。もちろん、彼が生活に必要な知識を持っておらず、誤ってジャガイモの芽を食べてしまうことはあるかもしれない。しかし、それが毒であることを知っていたならば、食べようとはしないだろう。それを食べないという判断ができるのは、実践的三段論法のおかげであり、内的言語による考察の結果である。

ただし、この言語は我々がよく知る言葉の形をとっているわけではない。それは無言のうちに実行される演算であり、我々の意識に上るとは限らない。この点で、内的言語はフロイトの無意識に似ているが、決定的に異なるものである。なぜならば、フロイトの精神分析は家族や社会といった外的要素に基づいて行われているからだ。それは、精神の外にあるものによって精神のはたらきを説明しようとするものであり、精神そのものの機能については何の説明も与えていない。

精神とは何か。それは肉体とは異なるものである。肉体とは別に人間を構成する要素があり、それが精神と呼ばれている。精神がどんな役割を担っているかは、精神を失った人間を観察すればわかる。気を失ったり、死んでしまった人間は動かなくなる。肉体はあるが運動はない。ゆえに、精神とは肉体を動かすものである、と結論できる。

我々は蛇を見れば怖れを抱き、梅を見ればよだれが出る。怖れを抱くと体が動かなくなり、逃げ出したくなる。蛇は危険だから逃げろ、と精神が命令するのである。梅を見れば酸っぱさに耐えるためによだれが出る。精神が肉体を動かし、目の前の事態に備えさせているのである。では、精神はどのように判断を行い、我々の肉体を動かしているのか。それを説明するのが実践的三段論法であり、内的言語である。

それはアリストテレスによってすでに発見されていた。しかし、西洋人はその発見を忘れてしまったのである。20世紀になってフロイトがおぼろげながらその存在に気づいたが、彼の発明した理論はまったく不十分で不明瞭なものだった。フロイトは外的言語によって人間精神を説明するという誤りを犯した。彼もリベラリズムの限界を超えられなかったのだ。

内的言語と倫理

いったいなぜ、リベラリストは内的言語を否定するのだろうか。なぜ彼らは実践的三段論法を無視するのか。

彼らの言語への態度を決定しているのは、キリスト教の文化である。キリスト教において、言葉は神から与えられるものである。言葉は我々の外から発せられ、我々に命令するものである。このような言語観がヨーロッパ人の心の奥深くに根を下ろしている。

そのため彼らは、自分の内側に存在する言葉に注意を向けずに、もっぱら外から聞こえてくる声に注目するようになった。結果、言葉は単なるコミュニケーション・ツールとして理解され、その本当の重要性が認識されることはなかった。


『法句経』には次のような言葉がある。

すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ

これは立法ではない。命令ではない。これは意志の言葉である。外から与えられる言葉ではなく、内から湧き上がる言葉である。この言葉を自分の意志に合致させたとき、人は人になる。

我々は次のように述べることができる。訂正可能な社会とは、外的な言葉が支配する社会である。そこでは内的な言葉は無視され、真の道徳は実現されない。リベラリストの語る「倫理」は外的な言葉である。そこには内的な論理が欠如しているため、まったく現実性を持たない。一方で、仏陀の言葉は我々の心の中にある。仏陀の言葉は我々自身の内的な言葉と同化し、心の論理を変化させるよう促す。それが本当の倫理である。

倫理とは行動である。我々は、我々の行動ひとつひとつが倫理を表現するように注意しなければならない。行動とは、心で考えることと、口から出る言葉と、身体の運動と、そのすべてを合わせたものである。

「己が身とひきくらべて、殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ」。我々はリベラリストにも、こうした倫理の存在を教えてやらねばならない。


東は述べる、「人間にはたいして能力がないので、人間の限界を超えることなどできない・・・格差も戦争もなくならない。・・・民主主義の可能性については、何よりもその前提で考えるべきだ」。彼の言う通り、戦争をなくすことができないのならば、リベラリズムなど必要ない。我々はここにリベラリズムの反倫理的な本質を見る。

東は本書の冒頭で「友」と「敵」の観念的な対立を脱け出すことが重要だ、と述べている。だが、その言葉に反して本書の記述は二元論的な対立に支配されている。「自然」と「社会」、「閉鎖性」と「開放性」。上記の引用では、リベラリズムは高すぎる「理想」を設定したために、「常識」に下りてこなければならない、と述べる。「戦争をなくすこと」は高すぎる理想だから、捨てなければならない。この言葉を我々はどう受け止めればよいのか。

実際には、世界平和を実現することは簡単である。リベラリズムを捨てればよいのだ。東がそれを不可能だと観念するのは、リベラリズムを前提としているからである。リベラリズムには平和を実現する力はない。それは分かりきっている。それならば、他の思想を探せばよいではないか。なぜこの本の著者は、それを知りながらリベラリズムにこだわるのだろうか。

ひとつ言えることは、彼は倫理に興味を持っていないということだ。本書には「倫理」という言葉がたびたび登場するが、正面から倫理を取り上げたことは一度もない。彼は民主主義やリベラリズムに言及することが、すなわち倫理的なことだと思い込んでいるのだ。

だが、民主主義によって戦争をなくすことができないのならば、それは倫理的ではないのだ。実際、民主主義はナショナリズムを生み出すので、戦争の道具として用いられた歴史がある。ナポレオンのヨーロッパ征服は、フランス革命によるナショナリズムの高まりを利用したものであった。結局のところ、民主主義は戦争の道具にすぎない。だから我々は戦争から抜け出せないのだ。ゆえに、もしも我々が民主主義を捨て、リベラリズムを捨てるならば、世界平和を実現することなど簡単である。


戦争をなくすためには、何よりも我々自身が倫理的になることが必要である。「人を殺してはならない」。これが倫理である。では、ウクライナ戦争において、ロシアとウクライナのどちらが倫理的だろうか。

多くの日本人はロシアを強く非難するが、倫理的にはウクライナのほうが非難されるべきである。なぜならば、彼らはより多くの人間を殺しているから。現代の常識では「人間=非戦闘員」であり、戦闘員は人間の定義に含まれない。だから戦闘員を殺しても罪にならないと考えられている。これが倫理の欠如である。

残念ながら、我々の社会は訂正可能である。ゆえに、人間の定義もつねに訂正されつつある。こんな社会に倫理が存在するはずはない。訂正可能な社会とは、人類史上最も野蛮で反倫理的な社会である。我々はリベラルな訂正可能性から抜け出さねばならない。

訂正可能な社会には紛争が絶えない。そこでは、ゲームのルールはつねに訂正の危険にさらされ、社会的な摩擦が引き起こされる。それは様々な問題を生むが、訂正の試み自体は否定されない。むしろ、社会のために必要なものだと理解され、戦争が頻発する。


外的言語による支配は必ず訂正可能性を生む。ゆえに、法治主義は否定されねばならない。法律とは言葉であり、法による支配は言葉による支配である。これが訂正可能性の幻想を生み、倫理を破壊する。我々の社会は訂正不可能な言葉によって律されねばならない。それは内的な言葉であり、道徳である。道徳による支配こそが真に文明的なものである。

江戸時代の日本は平和だった。徳川は道徳によって日本を統治したからである。彼らは法に頼らなかった。法を国民に知らせなかった。ゆえに、江戸社会には訂正可能性が存在せず、永く平和が続いた。

一方で、同時代のヨーロッパは戦乱に明け暮れていた。法律が支配する彼らの社会はつねに訂正の危険にさらされ、無限の闘争が続いていたのである。

平和な世界を作るために、我々は法治主義を捨て、リベラリズムを捨て、道徳を尊び、内的言語を認識せねばならない。


意味ニューロンについては、この本を参照してください。よろしくお願いします。


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