経済成長とキリスト教

生産性とは何であるか。

たとえば、一枚の布が、一人の労働者の一日分の仕事で生産されるとしよう。

もしも、同じ大きさの布が、一人の労働者の半日分の仕事で生産されるようになれば、生産性は二倍に増加したことになる。

 

ここで、その布が以前と同じ値段で売れれば、売り上げは二倍になる。

一方、供給が増加したことにより、布の値段が下がれば、売り上げは二倍以下になる。それでも、生産性が二倍になったことには変わりがない。

 

生産性が向上することで、商品の数は増える。労働者の数が変わらないとすれば、この生産性の向上によって、市場に供給できる布の量は二倍に増える。これは、人々の暮らしがより良くなることを意味する。

同時に、布の原材料の消費は早まる。より多くの布を生産するために、より多くの綿花が消費されるようになる。生産性向上のために化学肥料や農薬が使われ、土地がやせてゆくことがある。

 

現在が第何次かの産業革命だと言われる理由は、生産性の向上が急激に起きているからである。その原因はデジタル技術である。以前ならば、労働者が時間をかけて行っていた計算業務が、コンピューターを使えば短時間で片付いてしまう。

以前と同じ仕事を、以前よりも短い時間で行うことが生産性の向上だとすれば、コンピューターの登場によって、生産性が向上するのは自然である。

短い時間でより多くの仕事をこなせるならば、人々はより多くの利益を受けられるはずである。だが、いまはそうなっていない。

19世紀の産業革命の場合は、布の生産性が向上したおかげで、人々は冬でも温かい暮らしができるようになった。これは死亡率の減少を意味する。つまり、19世紀の産業革命がもたらしたものは物質的な利益である。

 

では、現在の産業革命が人類にもたらしたものは何か。もちろん、ICTを利用した様々な業務の効率化によって、社会に物質的な豊かさをもたらす、という側面もあるだろう。

しかし、ICTによる生産性の向上は必ずしも物質的な側面でのみ生じていない。むしろ、ICTがもたらすのは精神的な利益である。人と人とが簡単にコミュニケーションをとれるということが、人々に精神的な満足感をもたらす。そうした便利さを向上させることで、ICTのビジネスは成長している。

現在起きている産業革命は、19世紀のものとは違い、物質的な実体を伴わない生産性の向上であり、社会の精神化というべきものである。

 

生産性の向上には必ず原材料の消費増大が伴う。19世紀には、それは農業生産や鉄鋼生産の増大を意味したが、現代では半導体や蓄電池の材料、そして電力消費の増加が起きている。こうした消費社会の結果として、気候変動が起きていることが明らかになっている。

現在起きている経済成長が、人々の精神的な欠乏を満たすためのものだとすれば、そのために肉体的な苦しみを味わう人が増えていることになる。一部の人々の精神的な満足のために、他方の人々は物質的な苦しみを味わわされる。

19世紀の産業革命の時代には、問題はもっと単純だった。経済成長は身体的な満足と密接に関わっていたからである。しかし、現代は違う。我々は精神的な満足という幻のようなもののために、自分自身の肉体を痛めつけているのである。

私はこのような事態を的確に表現する言葉を知っている。「人はパンのみにて生くるにあらず」。肉体的な満足よりも、精神的な満足を優先しろという教えである。現代社会はこの言葉通りの道を歩んでいる。

 

日本経済が成長しないのは、日本人がキリスト教を信じていないからである。ICTがもたらす利益はキリスト教的な利益であり、多くの日本人はそれを利益だと感じていない。したがって、日本経済が成長するためには、キリスト教的な価値観を日本人に植え付ける必要がある。

もちろん、そんことはしなくてよい。よい経済成長は必要だが、悪い経済成長は必要ない。我々は成長の中身を問わねばならない。

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