【小説】私の花子さん
本作は、過去の公募で入選したものを加筆修正・改題したものです。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
私はよく、トイレで「花子さん」とお喋りをした。
両親がケンカをしているとき。クラスで陰口を言われているのを聞いてしまったとき。辛くて、どうしたらいいのか分からなくなったときに、私はトイレに逃げた。誰からも見られないし、誰のことも見ないでいられる。
いても立ってもいられない気持ちがおさまるまで、座り込んで、ときには泣いて、乱れた呼吸を整えて、個室を出る。ものの数分のこと。
何かが解決するわけでもないのだけど、逃げ込める場所があるということが、いくらかの安心をくれた。トイレは、私にとってシェルターだった。
『トイレの花子さん』の都市伝説は、誰もが知っている。
女子トイレの三番目の個室を三回ノックして、「花子さん遊びましょ」と言うと、誰もいないはずの個室から返事が聞こえる。
都市伝説が伝えるところでは、花子さんが現れた後、大抵良いことにはならないのだけど、私の「花子さん」は、三番目の女子トイレじゃなくても現れてくれて、誰にも話したくないことを話せる、秘密のお喋り相手だった。
「何であんなこと言われなきゃいけないの」
「そうだね」
「誰も私のことなんて見てないんだ」
「そんなことないよ」
「そう思う?」
「きっといつか」
私の空想は、私に優しくできているから、「花子さん」は私の想像力を超えない。それでも良かった。「花子さん」と話していると、不思議と自分を励ますような言葉が頭に浮かんだ。
こんな空想が、世間サマの役に立つこともあった。
シェルターであり、秘密の友達との密談部屋であるところのトイレは、綺麗な場所にしておきたかった。だから、いつしか家や学校のトイレを掃除する習慣がついた。
家のトイレを磨くのはもちろんのこと、学校でも紙が減っていたら補充して、掃除用具入れに箒があれば床掃除もした。洗面器に跳ねた水を拭き取ったり、誰かが置いたままにした空の化粧品をゴミ箱に捨てたり。
誰もいない時間を見計らって、私はトイレを掃除した。
学校のトイレには、早朝や夕方に業者さんの清掃が入るのだけど、できるだけ、いつでも綺麗にしておきたかった。私が学校のトイレを掃除していたことは、最後まで誰も知らないままだっただろう。
「いつも綺麗にしてくれてありがとう」
「だって、誰もやらないんだもん」
「いつか、誰かが気付くよ」
「そうかな」
「きっと」
誰かに知ってもらいたいという気持ちも、少なからずあったと思う。でも、「花子さん」が喜んでくれるというだけで、私には十分だった。少なくとも、私の存在が誰かのためになっているような気分になれたから。
ところが、高校を卒業して社会人になってから、花子さんとの会話が上手くいかない。花子さんを思い浮かべることが、難しくなった。
イベント会社、といっても定期で行われる地方の商店街やデパートの催しが主な仕事である小さな会社の、事務方の隅っこで働く私は、正直言って、誰にでもできるような作業しかしていない。
高校で、校則通りの生活をしていた私は、友達はいなかったけれど、先生からはわりと気に入られていて、それがなけなしの自尊心を保ってくれていた。
ところが、働き出してみると、資料の整理や印刷の発注、その他名前のつかない雑務いろいろ。そんなことにすら躓いて、何もできない自分を知った。
私がいつまでも雑用係なのは、経験不足であるというだけでなく、期待されていなくて、誰の視界にも入っていないからなのだと思う。
優等生なんかじゃない。決められたルールを破らずにいられるというだけだった。先輩が片手間に投げるような雑務をこなすので精一杯で、気が付いたら一日が終わっている。
そういえば、コピー機のトナーが切れかかっていたなと思い出して、席を立った。こういうことでしか、私は人の役に立てない。
コピー室のドアを開けると、ガチャン、と複合機のパネルを閉める音がして、間もなく誰かが出力していたらしい資料が次々に吐き出されていった。
後輩の桂木さんが、使用済みのトナーを箱に仕舞って【済】の文字を書いていた。
「あの、トナーは……」
桂木さんが顔を上げた。
「あ、八重島さん。今替えたところです」
桂木さんは、【済】の字を書く手を止めて、感じの良い笑顔を私に向けた。
明るい茶の髪に、流行りのメイクをした桂木さんは、地味な人が多い会社の中で、よく目立つ。誰とでも感じよく話せて、よく気がつくし、仕事も早い。私のように仕事ができない人に対しても、決して嫌味な態度を見せない。
彼女が書く、【済】の字がとても美しいことに驚いた。
「ごめんね……。あの、字が凄く綺麗だね」
「え、ホントですか? ありがとうございます。なんか、字が綺麗な方が賢
く見える、とか言って、習字をやらされていたんですよ。そう見えるってだけで、賢くなるわけじゃないってところは、後で気付きました」
人懐っこい笑顔の彼女を見ていると、学生時代に決定づけられる「立ち位置」は、一生変わらないものなのだと思わざるをえない。
桂木さんは、今年入社してきた新入社員だ。私と同じ高卒採用だから、まだ十代のはず。優秀で華やかな桂木さんは、先輩や他の同期からも評判が良い。
きっと、学生時代に同じクラスにいても、私には話す機会がなかったタイプの人だと思う。
中途半端に手伝ってもかえって邪魔になってしまうので、トナーの後片付けは桂木さんにお願いして、デスクに戻った。郵便物の仕分けをしなければ。
優秀な後輩と、誰にも期待されていない自分という事実を意識すると、その場にいるのが辛くなる。
社会人になってから花子さんが現れてくれないのは、子供の空想は子供のものであって、いつまでも頼ろうと私が甘えすぎている、というだけの話なのかもしれない。
その日、誰に怒られたわけではないけれど、いつになく自分に嫌気が差して、トイレに入った。やっぱり、私を励ます声は聞こえない。
いつものように、不自然じゃない程度に閉じこもって、水を流すと、個室の紙がなくなりかけていることに気付いた。
会社のトイレが汚れているところを、あまり見たことがない。ゴミが放置されていたり、鏡が汚れていたりすることも少ない。外部の人の出入りも多く、色々な人が使うわりには、かなり綺麗に保たれているように思う。
だから、個室の紙が減ったままになっているのは、珍しいことだった。私は、物置から三つほど新品のロールを出して、個室に置いた。
「あっ」と声がして振り返ると、桂木さんが立っていた。
反射的に会釈して、立ち去ろうとする。
「紙、ありがとうございます」
桂木さんが言った。私がびっくりして言葉に詰まっていると、桂木さんは個室に入ってドアを閉めてまった。
私は、どうしてこうなってしまったんだろう。子供とはもう呼んでもらえない年になっても、未だに空想の友達にしか頼れない。
「どうして、上手く話せなくなっちゃったのかな」
一人きりの廊下でそう呟いて、それは現実の人との話なのか、「花子さん」との話なのか、自分でも分からなくなった。
私は、いつしか桂木さんを目で追うようになっていた。羨ましいのか、妬ましいのか。きっと、彼女のような人は、個人的なシェルターを必要とすることなんてなかったし、空想の友達との会話が上手くいかなくなって悩んだこともないんだろうなと思った。
こういう、自分の卑屈さも嫌いだ。
ある日、会社でちょっとした事件が起こった。
装飾品の手配を受注していた商店街の運営委員会から、装飾用のバルーンが届かないと連絡が入ったのだ。社内で確認すると、業者へ連絡していた発送日が、運営委員会から言われていた日から一日ずれていたと分かった。明日にならないと、バルーンが届かない。
その商店街とは付き合いが長い。今回の装飾品は催事のためではなく、季節の飾りつけの為のものなので、一日の遅れであれば構わないと先方が言ってくれて、大きな問題にはならなかった。とはいえ、こちらの瑕疵だ。
難しい手配ではなかったのに、なぜこんなトラブルが起きてしまったのか。結論から言うと、桂木さんのミスだった。彼女が、別件のスケジュール表と取り違えて、業者へ連絡してしまっていたのだ。
まだ経験の浅い職員に注文を任せて、そのフォローを怠ったのは、先輩の責任だ。誰も桂木さんを責めなかった。先方には謝罪と経緯説明の連絡を入れて、後日お詫びに伺うということで、事態は収まった。
いつもしっかり者で、ミスの少ない桂木さんに、皆が頼り過ぎていたのだ。それでも、桂木さんは何度も謝って、あちこちに深く頭を下げていた。
その日の終業時間に、人が少なくなってきたことを確認して、掃除をしようとトイレに入ると、個室から、桂木さんが出てきたところだった。
「あ……」
桂木さんが、ばつが悪そうに俯いた。目が赤く潤んで、アイシャドウも少し溶けている。
今日のミスの件を気にしているのだと分かったが、泣くほどに落ち込んでいるとは思わなかった。
「今日は、すみませんでした」
桂木さんが頭を下げる。私に謝る必要なんてないのに。
どう答えていいか分からずにいると、桂木さんが言葉を続けた。
「あの、トイレ、いつも綺麗にしてくれているのって、八重島さんですよね」
思わず、「えっ」と声が出る。
「私、落ち込むとよくトイレにこもるので、分かるんです。学校ではずっと自分で掃除してたけど、この会社に入ってからは、定期清掃以外の時間でも綺麗になってるときがあって。きっと、八重島さんだなって思ってたんです」
「どうして、そう思ったの?」
「だって、八重島さん、こういう他の人が気を配らないようなことを、いつもやってくださるので」
私は、桂木さんがそんな風に私を見ていたことに、驚いた。
「私が掃除する前に綺麗になっていたときは、桂木さんがやってくれていたんだね」
「習慣なんです。トイレって、逃げ場じゃないですか。誰にも邪魔されない。だから、そこがピカピカなの方が、心が楽っていうか。綺麗な場所であって欲しいと思うので」
そうか、彼女も逃げ場を必要としていた人なんだ、と思った。
「桂木さんは、そういうのが必要ない人なんだと思ってた。何でも出来る桂木さんが、羨ましくて。どんな人にも、落ち込む時間と、守られる場所が必要なのにね」
桂木さんの目が、一層潤んだ。
「私、いつもちゃんとしていたいんです。気が付く人だと思われていたいし、しっかり者だと思われていたいし、話しやすい人だと思われていたいんです。そうじゃなきゃ……」
桂木さんは、唇を震わせて、ぽろぽろと涙をこぼしはじめた。
「そうじゃなきゃ、不安なんです。一所懸命やるけど、でも時々、間違えちゃう。それがどうしてなのか、分からないの」
私は、しゃがみ込んでしまった桂木さんに歩み寄ったものの、どうしていいか分からずに、隣にしゃがみ込んで肩をさすった。
十分過ぎるほどに優秀に見える桂木さんが、心のうちに何を抱えているのか。どんな生き方をしてきて、何に傷ついてきたのか、想像もつかない。
でも、私を含めた周囲の人が勝手に思い込んでいるほど、彼女は完璧じゃない。
独りぼっちの子供みたいに小さな桂木さんにかける言葉も見つからなくて、彼女の肩を抱き寄せた。わぁわぁ泣く桂木さんメイクが溶けて、私のシャツの胸元が、黒く濡れていった。
私は今まで、自分との対話に沢山の時間を割いてきたけれど、外の世界、つまり、他人というものを全然見ないまま生きてきたのだな、と思った。
自分の世界にこもるという生き方は、私には必要なものだったけれど、外の世界と対話するべき時なのかもしれない。
きっと、タイミングとはそんなものなんだ。
話し相手はもう、私だけじゃないよ。
ふと頭に浮かんだ言葉は、私が考えたことなのか、外から入ってきたものなのか。
「桂木さんは、『花子さん』の話、知ってる?」
鼻をグズグズいわせながら顔を上げた桂木さんは、「へ?」と気の抜けた声を出して、「トイレにいるときに、トイレの怪談なんてやめて下さいよ」と笑った。
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