姫神OverRide(第5回阿波しらさぎ文学賞落選作)

 彼は真夜中のJR名古屋駅十六番線ホームを時速二五〇キロで駆け抜けた。名古屋の街並みは後方へ流れ去った。激しい雨が、窓を叩いていた。違和感はあった。指さし確認で安全を確認したとき、いつもの彼じゃないと思った。運転席に、どんよりとした空気がこもっていた。ヘッドライトも焦点が合っていなかった。熱を帯びたブレーキを引いても、彼が止まる気配はない。ATCの状態を確認しようとすると、頭の中に巨大な男性器を模した岩が入り込んできた。姫神伝説。こんな状況でも、とりつかれたように思い出してしまう。
 終電後の東京駅から車両基地に向かおうとした矢先、彼は突如走り出した。そこにいたのはわたしと彼だけだった。時速三二〇キロ。速度計は、公式上の最高速度を超えてしまっていた。車体の揺れが激しくなる。真っ暗な運転席の中で、わたしは彼にもたれかかった。彼の声を聞きたいと思う。なのに、聞こえなかった。代わりに、男性器のイメージだけが届いた。あの伝説の中の少女のように、わたしは冷たい運転席に取り残されている。
 わたしは恋をしていた。一目惚れだった。きっかけは中学校の修学旅行だった。バスで大阪に向かい、新大阪駅へ。ホームはクラスメイトの笑い声に満ちていた。そこで、彼に出会った。さわやかな青と白の流線形。丸みを帯びたフォルム。しなやかなボディは、わたしの心を時速二八〇キロで運び去っていった。わたしの白馬の王子様は、JR東海謹製のN700系であり、白馬こそが王子様だった。
 海側の座席に座った。彼の中にいると思うと、胸がぎゅっと締め付けられた。もっと段階を踏むべきなんじゃないかと思った。出会って数分で連結なんて、よくない。車内販売のワゴンは血液のように彼の中を動き回っている。周りは、旅の三日目にディズニーで男子に告白しようとするクラスメイトの話で持ちきりだった。わたしは、はじめて彼氏の部屋に招かれたような気がして緊張しきっていた。二時間の旅で彼の内側、トイレまで堪能したわたしにとって、ディズニーはおまけだった。スプラッシュマウンテンでみんなが両手をあげながら急降下する写真に写っていたのは、東海道の長い旅路を彼はどんな気持ちで進んでいるのだろうか、やっぱり名古屋あたりで疲れてくるのだろうかと考えながら水しぶきを浴びるわたしの真顔だった。
 彼に会うことだけを考えていた。時刻表は丸暗記した。バイトを掛け持ちして、新大阪駅と東京駅を往復するお金を稼いだ。都会でやることはなかった。母に頼まれた銘菓を買うくらいだった。彼の中にいるだけで、幸せだった。心地よかった。頬を撫でるように座席に触れ、まっさらなボディに自らの手を這わせた。新大阪から東京。同じ時を、何度も一緒に過ごした。どんなときも、彼は文句一つ言わず多くの人をその身に宿し、懸命に走っている。その朴訥なひたむきさが、いとおしかった。
 就職先はJR東海以外ありえなかった。だが、そこには往路しかなかったように思う。乗客の安全を支える仕事を、好きな人とできるのはこの上なく幸せだった。仕事の日は、毎日最高の笑顔で呼びかけた。メイクもばっちり決めて、いちばんかわいい自分だけを見てほしかった。博多から東京に向かう途上、大都会が近づき、窓から西日が差し込む時間が好きだった。速度計をうっとりと見つめる。目的地までの距離と必要な速度を計算し、彼の速度をやさしく調節する。彼は真面目だけど、たまにドジなところもある。時刻表通りの運航は、二人の共同作業だった。そして、復路のないやりとりを重ねていく。こわいこと? 無言。そうだなあ、やっぱり、あなたが壊れることかな。無言。だって、好きな人が傷つくのは、こわいよ。自分が、傷ついたような気持ちになるから。無言、取り残されたあの子も、きっとこわかったんだろうね。無言……。
 あと十分ほどで京都に着く。時速三五〇キロ。止まる気配はない。管制室はいまごろ大パニックだろう。ブレーキはさっきより、熱くなっている。生き急いでいる。車輪を限界まで回転させ、後先のことは考えずに走っている。なぜなのか、わからなかった。言葉は静岡駅のように目の前を素通りしていく。一度だけでいいから、声を聞きたかった。なのにまた、あの岩のことを思い出してしまう。男性器はいらなかった。ほしいのは、ほんの少しの思いやりだけだった。
「ねえ……嫌なことがあるなら、言ってよ。わたしにも、教えてよ。そうやっていつも、なんにも言わないで勝手に一人で走ってるの、ずるいよ……」
 目の前の視界が、変わった。線路の代わりに見えるのは、巨大な男性器だった。わたしの頭の中のものと、同じだ。窓ガラスに、先端が流線形の、ばかでかい男性器によく似た岩石が映し出されている。それこそが姫神伝説の、悲劇の結末だった。愛を誓い合った二人の男女がいた。だが男は、帝の命で都へ向かう。窓ガラスは、真っ暗な過去を映しだした。月の光が、二人の男女の輪郭をくっきりと示す。単衣に耳を包んだ女を、男は招き寄せる。彼女は赤面し、彼に身を寄せる。二人はじっと抱き合っている。なめらかな肌を、互いに触れあわせている。わたしも、運転席に頬ずりし、静かに目を閉じる。これは、「彼」だ。わたしは、抱き寄せられる彼女でありたいと思う。できることなら、JR東海を介さず愛を独り占めしたいと、思ってしまう。彼女は、彼の鼻に口づけした。空気抵抗を軽減するために設計された、なめらかなエアロ・ダブルウイング。体が、火照る。「必ず戻る。そうしたら、ずっといっしょだ」彼は、そうささやいた。だが、彼が都から戻ることは、なかった。
「これは祟りだ、お前のような女を乗せているから、海神様は怒っているのだ」
 浪速に向かう船は、荒れ狂う嵐の中で制御を失いかけた。わたしは都に向かうため、ひそかに民船に忍び込んでいた。不安で声を荒げる男たちの隅で、わたしは縮こまって震え、船の成り行きを見守ることしかできなかった。わたしはただの、乗客だった。波のしぶきが、船の中に飛び込んでくる。荷物を守れと叫ぶ男の声が聞こえる。二年待った。なのに、文すら来なかった。土佐の誇れる男になると、あなたは話してくれたはずだ。なのに……。大時化の中、船は大島に寄港する。天候の回復を待ち、出発する。はずだった。
 わたしは、そこで置き去りにされた。
 船頭たちの、嘲るような声。怯えた目を、わたしに向けている。嵐は、おさまりかけていた。もう少し待てば、安全に出港できるはず。会いたい人がいる。だから……何度伝えても、取り合わなかった。お前は祟りなのだ。壊れたように、繰り返していた。頬を、叩かれる。伸びる手は、何度も振り捨てられる。遠ざかる船の後ろ姿を、見送ることしかできなかった。
 暗い運転席を、嵐が揺らしている。一〇〇〇年前のわたしは、雨風にさらされひとり呆然と立っている。なぜ、こんなことが起こるのか? わたしが何をしたのか? 救われない物語の意味を、ずっと考え続けていた。彼の名を呼び、わたしは海に身を投げる。息苦しい。運転席に、水が満ちていくように感じる。姫神伝説。都に向かった彼のその後は、語られていない。愛は、ずっと運休を続けている。大島の港と、速度計だけが点灯する運転席は、わたしの視界から遠ざかっていく。そして、わたしが沈んだ後になって、男性器が水面から顔を出すのだ。二人を、嘲笑うかのように。
 毎年、海上航路の安全を願って男性器の模型が奉納されていた。頭の中が男性器でいっぱいになる瞬間があるなんて、誰にも言えなかった。なぜ、男性器なのか? わたしが求めていたのは、所詮男性器にすぎなかったのか? 彼に犯されることだけが望みなのか? 身体に水がまとわりつき、重くなっていく。声は泡となって消える。伝説の中の彼女は、わたしより幸せだったのかもしれない。少しの間だけでも、彼の姿を感じることができたのだ。必ず戻ると言ってもらえた彼女に、嫉妬していたのかもしれない。でも……そのとき、わたしの横を、なにかがかすめた。それは、N700系の、愛しきエアロ・ダブルウイングだった。頭の中に、またあの岩が浮かんでくる。彼は海面に向けて、力強く進んでいく……。
 貫くような雷の音で、目覚めた。荒い呼吸を整え、現在地を確認する。新大阪を通過した彼は、東海道新幹線のルートを大きく外れていた。大阪と徳島を結ぶ、まだ開かれていないはずの道。道なき道を、強引に切り開いている。電力は失われているはずなのに、彼の執念だけが機体を前に進めている。そこではじめて、あの岩が浮かぶ光景は、彼がわたしに送り続けたメッセージだったことに気付く。
 自分の座席は、はじめからなかった。運転席に座るべきなのは自分ではなかった。一〇〇〇年もの間、彼は待ち続けたのだ。この世界から失われてしまった彼女を。けれど、不思議と晴れやかだった。やっと、わかったのだ。彼のヘッドライトは彼女に向けて照らされていた。彼が抱いた熱は、彼女と添い遂げるための激情だった。わたしは単なる運転士でしかなかった。それでも、彼が自分に気持ちを伝えてくれたことが、とても嬉しかった。
「わたしが見てたのは、男性器じゃなかったんだね」
 無言。それでもわたしは自信を持って、言葉を重ねることができる。
「気付かなくて、ごめん。助けてほしいと、伝えてくれていたんだね。いなくなった、彼女さんのために……」
 ブレーキは効かない。速度計が、まばらに点滅する。時速四〇〇キロ。だが、まだいける。彼の気持ちは、この程度の速度にはおさまらない。
「似てると思ったの。わたしとあの人は。結局最後には、結ばれないから。でも、それだけじゃなかった」
 あの男性器に男性器のようにしか見えなかった岩石を、今なら、こう呼ぶことができる、東海道新幹線N700系のぞみ。わたしの、いちばん大事な存在。それは、運命がもたらした、必然だった。
「あなたがのぞみになったのは、偶然じゃない。そう願ったから。新幹線は、世界一安全だから。あの人を、守れるから。そうだよ。きっとそうだよ! 土佐と都の間に新幹線が開通していれば、姫神伝説は、もっと別の結末に変わってたんだよ!」
 彼女は国鉄を知らない。一九六四年の開通式を知らない。どれだけ多くの人が、彼に乗って旅立っていったかを、知らない。N700系のことを知らない。新たに生まれた、N700S系のことを、知らない。でも、これから、彼女はのぞみに、乗り込む未来を選ぶことができる。 
「全員救う。あなたも。あなたの彼女さんも、救う。だってわたしは、新幹線N700系のぞみの、あなたの運転士。姫宮まもりだから。死んじゃ、ダメなんだよ。新幹線のせいで、誰かが悲しんだり、傷ついたりしたら、ダメなんだよ! わたしはあなたのことが好き! 大好きなの! あなたも、あなたの大事な人たちも、絶対に死なせはしない!」
 だから、ちょっとだけ力を貸して。私は、ブレーキから手を離した。ATCは作動していない。必要なのは、圧倒的な速度。超えるべきは、一〇〇〇年もの時間。途方もない道のり。でも、あなたとならば、超えることができる。新幹線N700系のぞみであり、土佐の豪族であり、身を投げた彼女のために徳島に赴く彼に向かって、口づけをした。はじめてのキスは、冷たい味がした。そうして、そっと囁いた。
「The next stop is Himegami Over Ride」
 四国新幹線は、今、開通する。速度計の表示は、四〇〇、四五〇、五〇〇と切り替わっていく。止まってはいけない。加速はさらに進む。窓の外の嵐は、激しくなっている。目の前で、街頭広告の看板が、標識が、どこかの家の瓦屋根が剥がされ、宙を舞っている。彼は機体を左右に動かし、すんでのところで、激突をかわす。何かを罰するかのように、雨足は激しくなる。だが、わたしはここで傷つくことなく、安全に運転を続けることができる……ねえ、聞こえる! わたしは遠い過去で海に沈んでいく彼女に、呼びかける。これが、新幹線だよ! 彼は、あなたのことを探していたんだよ! でも、徳島と東京との間に、新幹線はつながっていなかった。ずっと、すれ違い続けていたんだよ。でも大丈夫。今、わたしたちが、あなたを迎えに行く。彼の機体は、黄金に光り輝いた。秒速三〇万キロ。愛は、リニアの速度を超える。まっさらな、透明な時間が流れ、世界は巻き戻っていく。N700系のぞみは、一〇〇〇年前の豪族の姿に変形し、全速力で走っていた。大鳴門橋をハードルの要領で飛び越え、渦を幾度となく踏み越えていく。姫神伝説。牟岐の町へ。N700系は、日本海に光の速さで飛び込んだ。
 深く深く、潜っていく。運転席の明かりは、いつのまにか点灯していた。彼のヘッドライトは上下に動き、彼女の姿を探している。暗い海の中は、死んだように静まり返っている。彼女の頭の中にも、彼の時刻表が詰まっていたに違いない。あるときから空白になってしまったそれは、これから埋めるべき未来だ。彼女の姿を、捉えた。海面を目指してもがいていた。大きな空気を、吐き出した。力なく、海面に向かって手を伸ばしながら、海の底に沈もうとしている。N700系よ。走れ。のぞみのために。彼は彼女をエアロ・ダブルウイングの上に乗せ、出力を最大まで高める。海の中に引かれた線路は、二人の愛の通い路。車体は一気に上昇し、あの美しい流線形が牟岐の海へと高らかに、突き出された。新しい、姫神伝説。ほどなくして、彼女は目を覚ます。彼の窓から流れる水は、間違いなく、涙だった。晴れやかな空の下で、彼女はエアロ・ダブルウイングに抱きついた。そこでなにが語られたのかは、わからない。わたしが知っている未来は、詩人の野口雨情が後年、この伝説をモチーフにこんな一節を残したということだ。

 沖の大島姫神様は 700系の守り神


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