真の作家性はどこにあるのか?――『タイムパラドクスゴーストライター』についての(幽霊的)妄想

 最近ジャンプを購読し始めた。ちょっと前から、呪術廻戦とチェンソーマンは単行本で買っていた。ではなぜ定期購読することにしたのかというと、

 これのおかげである。

 今一番、続きが気になる漫画だと言っていい。雑誌はまあいいかな……と考えていた自分にジャンプ+の定期購読購入ボタンを押させたのは、呪術廻戦でもチェンソーマンでもミタマセキュ霊ティでもなく、タイムパラドクスゴーストライターだったわけなのだ(ミタマセキュ霊ティは大ネタでいちばんくだらないことをして笑わせてくれるのでオススメです)。

 この漫画は2020年6月15日現在第5話まで連載されている。5話までのあらすじを書くと、「売れない漫画家Sの自宅の電子レンジに、10年後のジャンプが届くようになった。Sは10年後のジャンプで連載されていた『ホワイトナイト』という漫画に衝撃を受け、葛藤の末にそれを自らの作品としてジャンプ誌面に発表してしまう。10年後に本物の『ホワイトナイト』を執筆することになるひきこもりの少女、アイノイツキは現在構想中の『ホワイトナイト』のアイデアがSによって先んじて発表されていることに疑いを持ちSを問い詰めるが、アイノはSの必死の弁明に納得してしまい、さらには高校を辞めてSのアシスタントとして、自らが将来執筆するはずの『ホワイトナイト』の制作に協力し始める。そして第5話。10年後の『ホワイトナイト』の完全再現にこだわり原稿執筆に行き詰まるSは「俺の絵で、俺なりの『ホワイトナイト』」を……!」という決死の覚悟とともに、アイノを認めさせる「俺なりの『ホワイトナイト』」を描き上げたのだった……!」という感じになる。

 アイノイツキが余りにも可哀想というのが正直な感想である。これは尊厳破壊催眠調教モノなんじゃないか? と考察している人もいた。あと、ワンピースの光月おでんの裸踊りのコラ画像(顔をアイノイツキに変えている)を作っている人もいた。さすがにひどいと思った。

 ベタでいかにもジャンプっぽい発想なら、アイノイツキを主人公にして、ひきこもりの少女が漫画を描くことを通じて成長していく……というような安牌な物語を作ることを選ぶのではないかと思う。実際、主人公をアイノにして、Sは悪役として出した方がいいじゃないかと述べている方もツイッター上にはそれなりにいた。個人的にも、アイノイツキはいかにも主人公然としたふるまいをしているように思える(特に3話)。だが、この作品の主人公はアイノイツキではなく、彼女の10年後に描くはずだった『ホワイトナイト』を描くことに固執するSだった。それはなぜか? 

 第3話でアイノに対して「いかにも天才が言いそうな事を言うんだ」と切羽詰まったSが発した以下のセリフが、その理由を最もストレートな形で示している。

俺にしか描けないもの!?
俺にしか伝えられない事!?
そんなもんはっ!! 無い!!!
でも…! そんな空っぽな凡人でも…!
面白い漫画を作れる可能性はきっとあるはずだ!
俺はただ…!
沢山の人に楽しんでもらいたくて描いてるだけだ!
(引用:市真ケンジ/伊達恒大『タイムパラドクスゴーストライター』第3話
https://shonenjumpplus.com/episode/13933686331659464918)

 「俺にしか伝えられない事」などない。それは、創作をしているものにとってはあまりにも重い事実だ。世界には無数の作品が存在し、自分が思いついたことは、既に誰かが自分よりも優れた形で実現してしまっている。俺だけの表現。そう思い込んだものこそが、最も凡庸な作品になってしまう逆説。誰もが紋切型の氾濫の中で絶望的な撤退戦を行わなければならない。そこに、「真の作家性」なるものは宿っていない。「天才が言いそうなことを言う」という名目で発せられたこの言葉は、まごうことなき「空っぽな凡人」、Sの心からの叫びである。

 この言葉を受けたアイノの反応は、「私とS先生は同類なんですよ!」というものだった。凡人の価値観に基づいた発言が、天才の価値観と重なり合う瞬間。これによりアイノが感銘を受け(自分で勝手に納得して帰ってしまった)たことがSの作家生命をギリギリのところで保った。1話と2話で様子見した読者は、ここで一気に混乱したに違いない。都合が良すぎる。まだ何かあるんじゃないか……と。そして5話まで続き、私たち読者は完全にめちゃくちゃになってしまった。5話はほんとにこれでいいのか? 世界が変わったのか? と天に向かって叫び出すようになってしまった。私の知り合いは「タイムパラドクスゴーストライターは5話で最終回を迎えた。いい最終回だった」とツイッターで言っていた。しかしタイムパラドクスゴーストライターはまだ終わっていないし、読者各自の読みを通じて無数のタイムパラドクスゴーストライターが成立しうるはずである。横槍メンゴ先生もそんなことを呟いていた。ということでここからは私が勝手に読み取った『タイムパラドクスゴーストライター』の妄想について書いていくこととする。

 『タイムパラドクスゴーストライター』の主題は、「真の作家性はどこにあるのか?」という問いへの応答を通じて、なにかを書くことに伴う切実さや、オリジナリティに対する願望の相対化を図ることである。誰もが切実な思いで、なにかを表現しようとしている。しかしその切実さこそが、ひとを不自由にしてしまう。私はこれを書かなければならないのだという自負こそが、作品の可能性を狭めてしまうこともありうるのだ。ちょっと前にこの漫画の話を友人とした後に、「お前はもっと自分にとってどうでもいいものを扱った方がいいんじゃないか」ということを言われた。なるほどと思った。大学に入った頃は、自分はこういうテーマが書きたいんだというものを明確に持っていた。しかし、出来上がったのはマジによくある大学生最初に書きがち陰キャ孤独系小説で、かなりひどい代物だった。その反省もあって、次第に陰鬱なものを書くのをやめ、雑にテーマを決めるようになった。自分の中に書きたいものは何もないので、外から適当にテーマを持ってくるようになった。この間はオリンピックのレガシー関連の記事を見て面白そうだったのでそれで書いた。だから、「面白ければいいじゃん」というSとアイノの言葉は意外と正しいんじゃないかと思うのだ。自分が書くべき切実なテーマを持ちえない人間でも、面白いものを書くことは可能である……! 私が何を言いたいのかというと、私の頭の中で展開されている『タイムパラドクスゴーストライター』は、「俺にしか伝えられない事は何もない」ことに悩むすべての人々を救済する作品になっている、ということなのだ。凡人・Sと天才・アイノが「同類」であるという発言は、明らかにこのことを示唆している。「書きたいことは何もないんです」と、三島賞受賞記念対談で言ってのけた小説家青木淳悟のようなまごうことなき天才のように、凡庸であることと天才であることが重なり合う瞬間は、きっとどこかにあるはずなのだ。そして、「盗作」とはそのための契機になりうるものである。

 言うまでもなくSはやべーやつであるし、目下盗作中の彼は何かしらの報いを受けた方がいい(そうでないとアイノイツキがあまりにも不幸である)。今Sが行っている盗作は即座にやめるべきである。私が言っているのは人の作品をパクるって自分のものとして発表するという意味での「盗作」ではなく、もっとたくさんの本を読み、漫画を読み、映画を見て、ゲームをして、世界に無数に存在する作品に圧倒されながらもその技術や熱意を自分のものとして蓄積していくという意味での「盗作」である。「空っぽな凡人」にできる「面白い漫画を作れる可能性」とは、そうした努力の果てにしか到達しえないものではないだろうか? 彼が盗むべきなのはアイノイツキの10年後の『ホワイトナイト』そのものではない。彼女が読者を楽しませるために漫画内に仕込んだ様々な技術、そこで見出される「面白さ」をめぐる問いへの彼女の答え、そして、10年間の努力を通じてアイノイツキが掴み取ったもの。いわば、アイノイツキが10年かけて残した目に見えない彼女の意志を発見するべきだったのである。

 真の作家性はどこにあるのか? それは各人の中にはない。誰も、自分が書くべきものが本当は何なのか、完璧に認識することはできない。だが、私たちは誰かの傑作を手に取ったとき、そこで言いようもない敗北感を覚えるとともに、その作品の中にありもしない「作者らしさ」を想定してしまう。芥見下々や藤本タツキの漫画を読んだ私たちは、知らぬ間に「芥見らしさ」や「藤本らしさ」なるものを構築してしまっている。真の作家性は、作家自身には属していない。それは、作家と読者の間に、作品を通じて伝達される幽霊である。数多の作家性=幽霊に取り憑かれることを通じて作品を磨き上げ、まだ見ぬ幽霊が自分と読者の間に現れてくる可能性に賭けること。「俺にしか伝えられない事は何もない」ことを認めつつ、誰が「俺の作品から何かを見出してくれる」ことを信じて創作を続けること。それこそが、「盗作者」が持ちうる倫理であり、「ゴーストライター」としてのSが真に自らの作品を書き上げるための方法である。

 『タイムパラドクスゴーストライター』において幽霊化しているもの。それは、アイノイツキによって執筆された『ホワイトナイト』である。読者は、この作品の内実を一切知ることができない。作中の編集や読者の反応などから、「『ホワイトナイト』は神漫画である」ということがなんとなく確認できる程度である。例えば「10年後のジャンプでアイノイツキは鼻毛神拳で戦うボボボーボ・ボーボボという漫画を連載していて、作中でその漫画の中身がちゃんと紹介される」ことになっていたらさすがにアイノイツキ(澤井先生)は天才だということが嫌でもわかるだろう。アイノの漫画が空っぽな幽霊では、いけないのだ。アイノは、読者に自らの才能を、具体的な作品を通じて見せつけるべきなのである。ちなみに私の妄想では、「木多康昭(アイノイツキ)が『幕張』後もジャンプで書き続けた結果、ジャンプで入江文学対桜井裕章戦が読める世界線」も生まれている。要するに、『タイムパラドクスゴーストライター』は時間遡行を通じて漫画の歴史に触れることで、Sが自らの歴史を再び歩み出していく物語として提示されることもありうる、ということなのである。アイノイツキの作家性という幽霊は、徹底的に可視化されなければならない。もう一人の空っぽな幽霊、Sの姿を照らし出すために。

 5話以降の展開の可能性として、アイノが無垢な才能でひたすらSを追い詰める……というものがある。そうなるとストーリーは、アイノにボロボロにさせられたその経験がSを真に作家として成長させる……ということになるだろう。実は、これこそ罠である。創作者は特別な経験をしなければならないという神話。私の妄想の中の『タイムパラドクスゴーストライター』はこの神話を乗り越えようとしている。作家性は、経験には宿らない。それは、作家を過剰に神聖視するまなざしであるし、これが正しいならほとんどの人間が創作をすることができなくなる。面白エピソードがあるならもったいないから書きなよという気持ちはあるが、それが即すぐれた作品を生み出すことにつながるわけではない。知りもしないことを勝手に発明できるのが創作である。幽霊は個々の経験という枷を越え、人離れした存在である。世界は無数の幽霊に溢れている。私は自由ではない。が、幽霊に触れることで得られる自由は確かに存在する。アイノイツキという存在は、10年後の幽霊としてSを苛むことだろう。だが、Sはそこにこそ向き合わなければならない。盗作する=奪うことと『ホワイトナイト』に向き合う=盗むことは決定的に異なる。Sの未来は、まだ閉じられてはいない。Sの作家性は、今後読者によって見いだされていくことだろう。だがそのためには、Sはモノローグ的世界観から脱しなければならない。幽霊とはなんなのか、その姿を暴いていかなければならない。アイノイツキという巨大な才能に打ちのめされながらも、Sはその幽霊と対峙し、足掻き続けるだろう。複数の幽霊の狭間で、佐Sにとっての「俺にしか伝えられない事」は影として照らし出される。そしてゴーストライターであるS自身がまた、次なる幽霊としてタイムパラドクスを起こすのだ。私の妄想の中の『タイムパラドクスゴーストライター』は、それによって完結する。

 私がこれまで書いてきたのは妄想としての『タイムパラドクスゴーストライター』である。つまりそれは私が原作者との間に、この作品を通じて読み取った幽霊である。私は『タイムパラドクスゴーストライター』という幽霊に憑かれてしまった。そして、現在数多くの人々がこの漫画によってめちゃくちゃになっているのも、同じ理由だろう。『タイムパラドクスゴーストライター』は未だその内実をはっきりと現さない幽霊的作品である。Sは最終的に『ホワイトナイト』をどうするのか。アイノの10年後の未来はいかなるものになるのか。なぜ未来からジャンプが送られてきたのか。茫漠とした未来に、ゴーストライターによってしか実現できない地平が開かれることを、私は信じている。

 



 

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