見出し画像

タタラ怪綺談―箱―「電車」


「残業で遅くなっちゃったんですけど、なんとか終電に間に合って」
 松岡さんは、駆け込むように締まりかけのドアに滑り込んだという。
 終電近くになると、帰宅ラッシュも落ち着いて乗客は少ない。松岡さんは空いている席に座った。
「その車両には、俺と、あと四人しか乗っていませんでした」
 仕事終わりの女性、ヘッドホンをつけた男子大学生、酔っぱらいのサラリーマン、そして、小さな老婆。乗客のことを覚えていたのは、営業という職業のせいか人を観察する癖がついているらしい。
「こんな時間に婆さんが乗っているのは珍しいなと思ったんですが」
 そんな疑問もすぐに消え、松岡さんはスマホでツイッターを見始めた。
「ここだけの話、彼女に黙って裏垢を作っていたんですよ。そのアカウント見るのが仕事終わりの楽しみで」
 裏垢というのは、通常よりも匿名性が高く、身分を隠して本音を投稿するアカウントのことだ。松岡さんは、セクシーな画像を投稿し、それに反応した女性をナンパするアカウントにしていたそうだ。
 はじめこそ、タダで性的欲求が解消されるツールとして利用していたが、どんどんフォロワーが増えていき承認欲求も増えてきた。今まではリプライやDMでしかやり取りをしていなかったが、匿名メッセージツールを使ってフォロワーたちの本音トークがしたくなったのだ。
「俺が使ったツールが最近流行り始めたものだったんです」
 匿名メッセージツールはいくつか存在するが、ミーハーな松岡さんは最新のツールを選んだ。黒を基調としたクールなデザインも松岡さんの好みに合っていた。
「めちゃくちゃメッセージくれるんですよ。笑えるものもあるんですけど、まあ裏垢なだけに誹謗中傷も多かったですね」
 その時確認した新着メッセージも、多くは誹謗中傷が多かったという。
「営業してると、もっと酷いこと言われるんで慣れてますけどね」
 所詮はネット。どんなに言葉で死を願っても、実行できないのがネットユーザー。松岡さんも最初はそう思っていた。
 だが、一ヶ月ほど前から、ネット上で知り合った知人に殺されるという事件が相次いでいた。さすがの松岡さんも、殺害予告の類は不安を覚えていたが、裏垢に届いたメッセージだということが彼女にバレることを恐れて誰にも相談しなかった。
「さすがに怖くなってきて、メッセージツールを消そうと思ったんです」
 でも、消せなかったんです。
 裏垢のプロフィールから匿名メッセージツールへ飛ぶリンクは消した。だが、匿名メッセージツールのアカウントの削除方法がどうやっても見つからなかった。そうやって削除方法を探している間にも、殺害予告のメッセージが届く。
 リンクは消している。それでも届くということは、メッセージを投稿するページをブックマークしている可能性があった。
 放置してもよかったが、自分の知らないところでいつまでも殺害予告が送られてくるのは気味が悪かった。
 削除することに躍起になっていたせいか、松岡さんは電車がトンネルに入ったことに気が付かなかった。いつの間にか窓の外は暗闇で、都会のネオンが消えていた。
 松岡さんが乗る路線には、トンネルなどない。
 慌てて乗車したせいか、乗る電車を間違えたのか。と焦った。もし、そうならタクシーで帰宅することになる。今ならまだタクシー料金も少額で済むかもしれない、と次の駅で降りようとした。
 トンネルは続く。
 首都圏にこんなに長いトンネルがあっただろうか。
 それとも、地下鉄に乗り入れしている電車なのか。
「焦ってたら、いつのまにか隣に婆さんが座ってて」
 他にも席が空いているのに、わざわざ自分の隣に移動した婆さんが不気味だった。
「変な婆さんだなとは思ったんですが、それよりこの電車がどこに向かっているのか知りたくて、婆さんに聞いたんですよ。そしたら」

 知ってるぞ

 そう聞こえたという。
 だが、老婆は目を閉じて寝ているようにも見える。
 今の声は老婆が発したものだったのだろうか。
 それにしては、声が低すぎる。

 もう一度、声をかける勇気はない。

 松岡さんは、トンネルなのか地下なのか確認するために辺りを見回した。

 すると、乗客が皆、こちらを見ていた。
 女性も、大学生も、サラリーマンも。
 そして、隣の老婆も。
 大きく目を開き、瞬きもせず、無表情に、松岡さんを凝視していた。

 気味が悪くなった松岡さんは、逃げるように席を立ち、隣の車両へ移った。

 だが、そこでも、女性、大学生、サラリーマン、そして……老婆が松岡さんを見ていた。
 全く同じ乗客が、隣の車両にもいた。

 あまりの恐怖に声も出ない。
 
 車内灯が、奥から順番に消えていく。
 松岡さんの乗っている車両も、暗闇に包まれた。

 知ってるぞ

 また、さっきの声がする。
 右から、いや、左から。
 
 知ってるぞ

 今度は、足元から聞こえた。
 もうだめだ、自分は気が狂う。
 そう思った瞬間、スマホに着信が入った。
 見ると彼女からだった。
 すがるようにスマホの通話ボタンを押そうとしたとき、手元に何かあった。
 スマホの光に照らされて、老婆の大きな目が浮かんでいた。
 血走った目が、松岡さんを睨みつけていた。

 松岡さんは、そのまま気を失ったという。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?