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恋を知りたければ星に願いなさい愛を知りたければ空を仰ぎなさい①

百日紅の誘い


男性用のコックコートを手にして、黒丸朔は洗濯機の前で考え込んでいた。
染みついた生クリームは洗濯機に放り込んだだけでは消えることはないと、この二年間の間にイヤというほど経験している。そこでぬるま湯につけて漂白剤で予洗いする方法を試そうとしたところで、背後から「さぁくぅ……」と現世に未練を残したまま死んでいった幽霊のような声が聞こえてきた。
「びょういん、つれてけ」
振り返ると、トイレから這い出てきた姉の昭が、恨めしそうに朔を睨みつけている。姉は都内の会社、いわゆる丸の内OLで社内でも評判の美人なのだが、朔の目の前でソファーに寝転がる昭はそんな評判とかけ離れた姿をしていた。
蒼白い顔、目の下のクマ、痩せこけた頬。どこからどう見ても病人だ。
病人だとわかった上で、朔は昭の命令に対し、「なんで」と質問した。
すると昭は、痩せて奥にくぼんだ瞳から、するどい不可視光線で朔を睨みつけた。
「なんでって、あんた車の免許とったでしょ。家庭内の病人を運ぶ権利がある」
「権利を放棄する」
「間違えたわ、義務よ義務。とにかく連れていきなさい、どうせ学校休みなんでしょ」
もとよりそのつもりでいた。少しの反抗は妹としてのプライドからだったのだが、姉の命令は絶対であると心得ている。
というのも母子家庭の朔が学費の高い調理専門学校に通えているのは、姉が学費を賄ってくれているおかげでもあるのだ。
業務用漂白剤を混ぜたぬるま湯にコックコートを浸し、立って歩くことができないという姉を抱えて車の助手席に乗せた。姉の方が朔よりもずっと小柄なので、横抱きにするのもそこまで苦ではない。
一応、仕事中である母の携帯電話へ「アネキトククルマカリル」とだけメールを送り、車を総合病院へと走らせた。
休日前の金曜日ということもあってか、総合病院の一階受付は事務のお姉さんが列を整理しなければならないほどの混雑ぶりだった。
昭の鞄から診察券を出し、受付機のスロットルに差し込む。事前にネットで予約をしていたので、自動的に受付番号と予約時間が記載された紙がにょきっと出てきた。
ロビーの長椅子で目を半開きにして苦しんでいる昭に「歩ける?」と訊くと「ムリ」と簡潔な答えが返ってきた。しかし院内で抱えられるのはイヤだというので朔はわざわざ病院の車椅子を借り、それに昭を乗せて内科のある二階へと向かった。
予約はしていたが、それでも混雑しすぎていて予約通りにはいかないと看護師に告げられ、「もうどうでもいい」と目を閉じた姉をよそに、朔は持参してきた文庫本を開いた。
狭時雨の新刊「咲散りし紫微花」
紫微花というのは百日紅の別名だ。幼い頃の病のせいで右目を失くしてしまった主人公は、先代から受け継がれてきた木造平屋で独り、孤独に暮らしてきた。ある日、植木屋が入らなくなって久しい庭に、一人の少女が迷い込む。日本人であるのに異国の服を着た少女は、この家に入ると熱に浮かされたように記憶が曖昧になり、どこへ帰るべきか忘れてしまうという。主人公はしばらくその少女を家に置いといてやるが、しだいに少女に心惹かれてゆく。
病持ちの自分など人に恋してはならぬと自制するが、少女の優しさに気持ちの歯止めがゆかなくなる。
ならば、いっそのこと、紫微のように百日めいっぱい咲き乱れ、そして一気に散れば良い。

物語がいよいよ盛り上がってきたところで、突然、本が手元から離れた。
「さっきから何読んでるのよ」
昭は、奪い取った本をパラパラと捲って、一番最後の解説を見ている。
「狭時雨の新刊」
「はざまときさめ? しぐれじゃないの」
「ときさめ」
一文字ずつ強調して昭に言う。
「へえ、なに恋愛もの?」
「幻想小説家なんだけど、今回は恋愛色が強い」
「恋愛」と聞いて昭は読む気になったらしく、始めのページに指を戻した。
しかし元は幻想小説家の作品だ。決して柔らかいとは言えない文体に、姉はどこまで堪えられるのだろうと様子をみる。
案の定、ページを捲るたびに眉間のシワが深くなっていき、庭の描写がつらつら書かれているあたりで「ダメだ、今日は読める状態じゃない」と両手をだらりとぶら下げて負け惜しみを
吐き捨てた。きっと、体調がよくても途中で諦めるはずだ。
背もたれに頭をもたげ、脚をだらしなく開いた今の姉の姿を会社の同僚が見たら、さぞ面白いことになるだろう。
携帯電話で撮影するかどうか悩んでいるところで、受付番号が呼ばれた。「六番診察室へお入りください」とアナウンスされたので、撮影は諦めることとなった。
結局、軽い脱水症と診断された昭は別室で点滴を打たれながら「暇だわ」と何回も愚痴をこぼしていた。が、数分と経たないうちに大きないびきをかき始めた。
暇を持て余してきた朔は読書を再開させようとポケットをまさぐったが、財布とキーケース、携帯電話以外に何も入っていなかった。
そういえば昭から返してもらっていない。昭の鞄も探るが見当たらず、パジャマのどこかに入れたのではと寝ている昭の身体をまさぐっていると、うしろから「コホン」と咳払いが聴こえた。
振り返ると、年配の看護師が怖い目で朔を睨みつけている。
「ご主人、ここは病院ですよ」
どういうつもりの注意なのか全くわからず「はあ」としか言えなかった。
意味を理解していないと気づいた看護師は苛立った口調で「ご夫婦のことはご自宅で」と語尾を強調して言うので、朔は自分が姉の夫だと思われていることにようやく気づいた。
「すみません、そんなつもりはなく、汗をかいていたので拭いてあげようとしたところでした」
朔がとっさに説明すると、看護師はさっきとうってかわって笑顔になり
「あらごめんなさいね、タオルお貸ししましょうか」と訊いてきたので、遠慮なく拝借することにした。
「私ったら変な勘違いをして、ごめんなさいね。時々病院で変なことをするカップルがいるものですから」
タオルを置いて看護師は去っていった。
男に間違われて当たり前と割りきっているので、あえて否定はしない。
タオルを借りた手前もあるので、姉の身体にまとわりついた汗を軽く拭いて上げた。
自分とは違う豊満な胸の谷間を拭いても起きる気配がなかったので、乳首を摘んでやったら妙な声を出したため慌てて部屋を退出した。
点滴は二袋たっぷりとするらしく、まだまだ時間がかかりそうだと判断し、本の捜索に出ることにした。
待合室のソファーにでも置いてきたのだろうと探すが見つからない。
失くした本はたかだかワンコインで買える値段だ。しかし、姉に学費を工面してもらっている以上は、どんなものでも大切に扱わないといけない。
別に母や姉から直接言われたわけではないが、朔はそれを最低限の筋の通し方であると考えていた。
ソファーの下も屈みこんで覗き、歩いた場所を何度も往復するが見つからなかった。
次第に朔の顔に、落胆の色が表れはじめる。
通りすがりの者は、ただぼんやりと突っ立っているだけに見えるかもしれないが、朔の頭の中では
もう一冊買うことはできない
続きは図書館で読める
でも手元に置いておきたい
何としても見つけ出す
けれど見つからなかったらどうしよう
エンドレス。
ずっと堂々巡りの脳みそを抱えたまま、フラフラと院内を彷徨う。
ふと、病院玄関の掲示板に目をやった。
予防接種の費用や携帯電話の電源オフの注意喚起ポスターの中に、「お忘れ物は総合案内まで」と張り紙があった。
「そーごーあんない」
消え入るように呟くと、朔は何かを思い出したかのように勢いよく振り向いた。そこには「総合案内」のプレートが掲げられたカウンターがあった。
早足で近づき、事務員の制服を着たお姉さんに声をかける。
「あの、すみません、落し物をしたんですが」
お姉さんは慣れた口調で落とした物と場所を朔から聞き出し、そしてどこからともなくポン、と会いたくてたまらなかった本が出された。
「あ、これです」
そっけない物言いだが、内心は踊りだしたいぐらいに喜びに溢れていた。
見つかったことに安堵して、深く息を吐き出す。
「ではこちらに受け取りのサインと連絡先をご記入ください」
言われた箇所に記入してから、姉が眠っている処置室へ意気揚々と戻った。
ベッド脇にあった椅子に座り、百日紅の花が描かれた表紙をひと撫でする。手元に戻ってきた実感を噛み締めてから、ゆっくりと本を開いた。
そのときだった。
はらりと、栞の挟んだページから何かが舞い落ちた。
大きな花弁に見えたが、拾ってみると一枚の白いメモ用紙だった。
『この本をお読みになるあなたとお話してみたいです。』
「おやおや」
文末に連絡先と思われるメールアドレスが書かれていた。
電話番号がないのは、初対面の人と会話をするのが苦手だからだろうか。
朔はメモ用紙を天井の電球の光にかざした。
上質な和紙には、名の知らぬ花の透かし絵がうっすらと写っていた。
一見、女性らしい感性の持ち主のようだが、その筆跡は繊細であれど、大胆かつ一本一本の線はしっかりと紙に彫り込むような力強さがあった。
朔はこの小さな手紙を残した主は男性であろうと考えた。
そして、これが自分に宛てられたものではなく、昭へのメッセージだと汲み取り、同時に送
り主へ少しばかりの同情を抱いた。
昭にはすでに結婚を約束した相手がいる。
何より面倒くさがりの昭が、このような申し出にほいほい了承するはずがない。
しかし、朔としてはこの大切な本を拾ってくれた主に一言でいいから礼を言いたい気持ちがある。
かと言って、勝手にメールを送るわけにもいかないので、とりあえずは姉の目覚めを待つことにした。
謙虚に咲く花を再び本の間に挟み、読書を再開した。


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