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俳句夜話(3)河東碧梧桐〜俳句は、実は長い

『日本人に生まれたら、俳句をお詠み(後編)』で「俳句は長い」という感覚が得られるかどうか、これが大事というお話をしました。「短いなあ」「入らないなあ」と思ってるうちは、つまりいろいろ盛りすぎなのですね。「それだけ」を詠むことがとにかく大事で、そういう目線でいるときっと「俳句は長いなあ」になる。余計なこと言っちまいそうだなあ、とおののいている状態が正しい。なんかイイタイコト、ないのかも私、みたいな姿勢ならさらに正しい。そこから、世の事物をあれこれといじって詠んでみる。そのちょっと客観的な感じ、いまふうにいえばメタな感触がすでに俳句的です。

赤い椿白い椿と落ちにけり

これは河東碧梧桐の傑作。一物仕立て、一瞬の動画的な俳句ですね。
碧梧桐は虚子とともに子規に学んだのですが、子規の死後、彼は師の教え「客観写生」と袂を分かち、自由律前衛に走ります。それでできたのがこれ。

時鳥川上へ啼移る朝乃窓あけて居る

ミモーザを活けて一日留守にしたベッドの白く

曳かれる牛が辻でずつと見廻した秋空だ

どう思われますか。

実は当時、碧梧桐が盛んに全国行脚をしたこともあって、このノリは俳句界を席巻したのだけど、続かなかった。得たのは種田山頭火を輩出できたことくらいでしょうか。子規が生きていたら激怒しただろうことは想像に難くない。
こうなる前の碧梧桐の他の俳句を見てみましょうか。

蕎麦白き道すがらなり観音寺

から松は淋しき木なり赤蜻蛉

この道の富士になりゆく芒かな

三日月やこの頃萩の咲きこぼれ

思はずもヒヨコ生れぬ冬薔薇

月前に高き煙や市の空

桃咲くや湖水のへりの十箇村

流れたる花屋の水の氷りけり

空をはさむ蟹死にをるや雲の峰

馬方の喧嘩も果てて蚊遣かな

鳥渡り明日はと望む山夏野

いいじゃないかと思うのですよ。芒の句と蟹の句が特に私は好きですね。蕎麦も萩もヒヨコも馬方も、いい。愛があって人情がある。「桃咲くや」は蕪村の「五月雨や大河を前に家二軒」ばりに、バッと情景が浮かぶ。ここに十一句並べましたが、子規から代表的なものを十一句とってきても、私は碧梧桐がまさってるとおもう。少なくとも、好きですね。

でもたしかに、型を守っているばかりではモンスター虚子にかなわないとおもったとしたら、それもわからないでもない。虚子の超有名になった、

白牡丹といふといへども紅ほのか

これ一句にかなわないかもしれない。

虚子や蛇笏は一物仕立てが得意で、その繊細にして精細な目は迫力があります。対して碧梧桐は取合せが好きなようです。取合せがまた派手。想が大きく、ちょっと大雑把。「赤い椿」はその意味では例外的なものといえるかもしれません。

子規は弟子の虚子と碧梧桐を評して「虚子は熱き事火の如し、碧梧桐は冷やかなる事氷の如し」といったそうですが、句風は逆な気がします。碧梧桐の俳句を読むと気持ちが楽になる。そういうとこ、ちょっと一茶に似ている。

河東碧梧桐はかわひがしへきごとうという読みにくい奇妙な俳号で損をしているとよく言われるのですが、ぜひ覚えておきたい俳人の一人だと思います。

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