日本人に生まれたら、俳句をお詠み(後編)
【俳句はひねるな。からだをひねれ】
さて、型はわかった(とします)。
では、内容はどうあるべきなのか。
私が、「これが俳句だ」と紹介するときにイの一番に持ってくるのはこの俳句です。
捨てられた人形が見せたからくり
芭蕉でも蕪村でも一茶でも子規でも虚子でもない、二十六歳で早逝したお坊さん、住宅顕信の俳句です。季語もなく、五七五も守っていません。こういう俳句を自由律と呼びますが、この俳句には俳人たるものの見るべきもの、詠むべきものが詰まっているようにおもえます。
もうひとつ、紹介するとすればこれです。
戦争が廊下の奥に立っていた
渡辺白泉の作。からくり人形の意地を見逃さない心眼に匹敵する凄味がありますね。背中に冷たいものが走る。戦争はそこにいるのか、とおもう。同じく白泉には、
憲兵の前ですべってころんぢゃった
というおかしみにすべてを託した傑作があります。
よく俳句は、「ひねるもの」と言われますが、こねたりひねったりいじくりまわしているうちにどんどん、言葉の組み合わせになって、その言葉たちが指しているイメージを失わせます。ひねっておくべきは、ものの見方をこそであって、目線、からだ、生き方をであって、イメージを得たらあとはストレートに出す。これが極意です。
海の家建てる茶髪の手際かな
私の俳句で近年ではとても評判が良かったものの一つです。これもなにもいじっていませんね。そのまんまです。
【俳句は意外と長い】
俳句は五七五の十七音しかなく、そこに季語も入れ込まねばならず、ものすごく限られたことしかできない、とにかく短い!と思う人が多いのですが、そういう人に限って平気で「景色を見る」とか「音を聞く」とかやっちゃう。ダブっているのは明白です。動詞がダブっているばかりではなくて、「景色」って言葉自体がおそらく要らない。
「古池や」は実は、古い池に蛙が飛び込んだよ、ではないのです。現代の解釈では、芭蕉は古池を見ていないことになっている。どこかの宿か庵で休んでいたら、木立の中からぽちゃっと水の音がした。それは蛙だ、そこにはきっと古く鄙びた池があるにちがいない。きっとそうだ。これが感動点に昇華した。だけど、元々としては「水の音」だけしかない。
「水の音」という五音三文字にどれくらい詩情があるかといったら、むちゃくちゃある。そう感じるのが俳人の目です。
たとえば、「国境(くにざかい)の桜」というモチーフはすでに何がしかの詩情があります。もうそれだけでイメージがぶわっと来る。「真冬の易者」といったら、もうそれで十分な気配がある。「月曜のアジフライ」くらいでも、お?となり、で?どうなる?とおもわせる。
夕桜うしろ姿の木もありて
現代俳句界を仕切っていると言ってもいいくらいに活躍中の俳人長谷川櫂の俳句。夕暮れの桜の中には「うしろ姿」になっている木があるなあ、というモチーフを得て、そこに集中しています。「木もありて」の「木」はダブっているようでもあり、「ありて」などはまったくありきたりな言い方ですが、それがかえって主役を引き立たせます。
俳句は意外や意外、長いんです。せっかくのいいモチーフをあれやこれやと言い付け足して台無しにする。これはコツのうちではだいぶレベルの高いことかもしれないけれども、ことのはじめから知っておいたほうがいいとおもいます。
【一つ物仕立てと取り合わせ】
俳句の詠み方は、実はこの二つしかありません。
一つ物仕立ては、あるモチーフについて言い尽くすこと。取り合わせはモチーフが二つあること。
ちょっと単純ですが、いったんこう覚えておいて、いろいろと名句を見てみましょう。まずは、一つ物仕立ての傑作をいくつか並べます。
涼風(すずかぜ)の曲がりくねって来たりけり 一茶
露の世は露の世ながらさりながら 一茶
をりとりてはらりとおもきすゝきかな 蛇笏
一月の川一月の谷の中 龍太
牡丹散(ちり)て打かさなりぬ二三片 蕪村
春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな 蕪村
いくたびも雪の深さを尋ねけり 子規
白牡丹といふといへども紅ほのか 虚子
月光の針がふるただ針がふる 赤黄男
夕桜うしろ姿の木もありて 櫂
どうでしょうか。一つのものをとらえて、それを詠み、詠み尽くす。比喩、見立て、発見などをその句に織り込んでいって脇目を振らない。
対して、取り合わせの名句はこういったものです。
古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉
閑さや岩にしみ入る蝉の声 芭蕉
夏草や兵どもがゆめの跡 芭蕉
五月雨を降り残してや光堂 芭蕉
五月雨を集めてはやし最上川 芭蕉
五月雨や大河を前に家二軒 蕪村
菜の花や月は東に日は西に 蕪村
紺絣春月重く出でしかな 龍太
降る雪や明治は遠くなりにけり 草田男
生涯を恋にかけたる桜かな 真砂女
取り合わせたものがくっつきすぎてもよくないし(連想ゲームになっている)、離れすぎてもよくない。ここに挙げた俳句は傑作の誉れ高い、取り合わせたもの同士が「動かない(ほかの事柄に取って代わらない)」とされる俳句です。
一つ物仕立ての俳句は、俳人の目がグワッと見開いて対象をフォーカスしている感じが潔く、それについてそんな言い方があったのかという新発見的感動をもたらすものです。いくつかを見ていくと、
涼風は確かにそんなふうにやってくる感じ!、
すすきは頼りないばかりじゃない、生きて!いるのだ!という驚き、
牡丹の花びらは一枚一枚主張があるものだ、
春の海はアンニュイだ、
月光は鋭すぎる、
夕桜には向きがある、
いずれもモチーフとなったものを見つめ尽くしています。そこから逃げずに詠めるまで待つ感じ、あるいは思わずするっと言葉が出てきてそれをうまく捕まえた感じ、いずれにせよ十七音に摩擦がほとんどなくスムーズでストレート。
それに対して取り合せは、場面が転換します。
水の音がした、蛙が飛び込んだ音だろう、きっと鄙びた古池があるにちがいない、という現代解釈は紹介しましたが、単純なように見えて、とても複雑に句の眼目が動いて止まります。
閑かさやも同じ。蝉の声が集(すだ)き、岩にまで染み入るようだと見たときに、それ以外の静寂に気づく、という魔法のような俳句です(私は芭蕉一句を選ぶなら、これを選ぶことにしています)。
五月雨と光堂、五月雨と最上川、五月雨と大河の前の二軒の家、という取り合わせですが、いずれも近すぎず離れすぎず、イメージがぴったり結ばれます。
菜の花と月と西日、地上から一気に空への視点の移動が鮮やかなのですが、このときの花は菜の花以外は考えられないのかどうか、という疑問はあっていいとおもいます。
明治はもう昔のことだ、という感慨を、降る雪以外に感じることはなかったのかという批評もあっていいのです。紫陽花や月は東に日は西に、ひまわりや月は東に日は西に、葉桜や月は東に日は西に、あるいは花でなくてもいい、かたつむりでも梅雨明けやでも入れられなくはない。炎天や明治は遠くなりにけり、では成立しないのか、どうか。元旦や明治は遠くなりにけり、はどうか。
どれもこれも、ありうるのですね。作者がその季節のその時にそう感じたのだから、実際そうだったんだからという実感の真実と、いやもっとハマるものがあるんじゃないかという実感からの逸脱とのせめぎあいがそこにあります。一つ物仕立てにはこういう葛藤は起こりにくいのですが、取り合わせはむしろ、その取り合わせは正しいのかどうか、ベストなのかどうかという懐疑との闘いと考えるとスリリングです。
初心のうちは、詠む前に一つ物仕立てでいくか、取り合わせでいくかと考える余裕はないかもしれませんが、それぞれの言葉の特性を知っておいても損はないと思います。
たとえば「梅雨」は、梅雨のみにフォーカスして、梅雨なるもののなんたるかを一つ物仕立てでいうよりも、取り合わせのほうが楽。一般に時候の言葉は取り合せの方が作りやすい。花や虫や動物などは、どちらもいけます。
一茶は、一つ物仕立ての名手です。
云いぶんのあるつらつきや引きがへる
蟇蛙ってそういう顔をしてますよね。季節や天候さえも彼にかかれば一つ物になります。
目出度さもちう位也おらが春
心からしなのの雪に降られけり
【「動かない」が最高の褒め言葉】
凩(こがらし)の果はありけり海の音
池西言水の傑作です。芭蕉と同時代人。この俳句をものしたあと、彼は「凩の言水」という異名を取り、たいへんな評判になったといわれています。
この俳句は取り合わせですが、凩の果てと海の音は互いにまったく動かない、動きようがない。ある意味、取り合わせてもいない。かといって一つ物仕立てとはいえない。凩の行く末を追っていったらまったく別の、とてつもない力を孕んだ異物に出くわした、その迫力は圧倒的で、一対でありながらそれらの二物は激烈にぶつかり合っている。取り合わせの俳句でここまで作為が見えない、天衣無縫の傑作はそうそうお目にかかれないと思います。この句に感化されて、芭蕉の高弟の嵐雪は、
凩の吹きゆくうしろすがたかな
と詠み、昭和の山口誓子は、
海に出て木枯らし帰るところなし
と詠みました。これらは擬人法を用いた一つ物仕立てです。それぞれに寂寞感があり、愛があり、すばらしい俳句だと思いますが、言水には及ばないと感じます。
(余談ですが、長谷川櫂の「夕桜」は嵐雪の俳句から着想したのかもしれません。でも、だからといって価値は落ちない。「うしろすがた」と見立てられるものをほかに探していく。もっとハマるモチーフがあるかもしれない。これも俳句の醍醐味です)
取り合せの「動かない」例をもうひとつ。
むかし、子供たちを相手に句会をやったときに、ある男子生徒がこんな俳句を作ってきました。
夏休みあしたあなたにドロップキック
おもしろい!と手を叩いたのですが、「あした」がもっと生きる「昨日」を選ぶべきじゃないかとアドバイスをしたところ、彼はしばらく思案したあと「大晦日あしたあなたにドロップキック」と直してきました。そしてさらに、「除夜の鐘」はどうだろう、ゴングみたいでおもしろいぞと作り込ませた。
除夜の鐘あしたあなたにドロップキック
これで完成。意味はよくわかりませんが(笑)、まったく動きようがない。動かない限り、意味なんてどうでもいいのです。
取り合せの方が創っていく余地が圧倒的に大きく、自由なことはわかったと思いますが、そのかわり、自由すぎてそれとそれでベストか?と問われることも請け負わねばなりません。
一つ物仕立ては、スパッと切れ味よければいいけれども、そのまんまだろうというそしりを受けやすい。
なんの変哲もない、ひねりも新味もない、そういう俳句を総じて「ただごと俳句」といいます。
「褒め」と「けなし」の仕方をまとめると、
◆取り合わせ句
・褒め→動かない
・けなし→動く(言葉が取り替わる)、取り合わせが近すぎる、遠すぎる
◆一つ物句
・褒め→スマート、切れ味がある、新しい見立て等々
・けなし→ただごと俳句
となります。使ってみてください(笑)。
【絵画俳句と動画俳句】
俳句を写真や絵にたとえることはよくありますが、一枚の絵では鑑賞しきれない、動きのあるものがたくさんあります。
対象が動いている場合だけでなく、自分が動いていたり、あるいは俳句の表現そのものがモンタージュになっているケースです。
五月雨や大河を前に家二軒
は写真や絵画として鑑賞できるけれども、
閑さや岩にしみ入る蝉の声
は、動画じゃないとイメージが結ばない。撮影のカットにたとえると、うっそうとした森の中にうるさいくらいの蝉しぐれ、そして大岩のアップ。そこで蝉しぐれの音量が絞られていく。蝉以外にはまったくの無音であることが表現される。そんな数十秒のモンタージュ。
前の二十句から絵画と動画に分けてみましょう。
◆絵画として鑑賞したいもの。
一月の川一月の谷の中 龍太
牡丹散(ちり)て打かさなりぬ二三片 蕪村
いくたびも雪の深さを尋ねけり 子規
白牡丹といふといへども紅ほのか 虚子
月光の針がふるただ針がふる 赤黄男
夕桜うしろ姿の木もありて 櫂
五月雨を降り残してや光堂 芭蕉
涼風(すずかぜ)の曲がりくねって来たりけり 一茶
五月雨や大河を前に家二軒 蕪村
菜の花や月は東に日は西に 蕪村
◆動画として鑑賞したいもの。
をりとりてはらりとおもきすゝきかな 蛇笏
露の世は露の世ながらさりながら 一茶
春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな 蕪村
古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉
閑さや岩にしみ入る蝉の声 芭蕉
夏草や兵どもがゆめの跡 芭蕉
五月雨を集めてはやし最上川 芭蕉
紺絣春月重く出でしかな 龍太
降る雪や明治は遠くなりにけり 草田男
生涯を恋にかけたる桜かな 真砂女
さらに細かく分類すると、動きを長回しのカメラで追っていくものと、カットをつないでモンタージュするものとに分かれます。「をりとりて」や「春の海」は前者で映像化したいところですね。
前章の、一つ物仕立てか取り合わせかをふまえて整理してみると、
絵画的な一つ物仕立て
動画的な一つ物仕立て
絵画的な取り合わせ
動画的な取り合わせ
この4通りがありうるということですね。
【連想ゲームをしない】
その言葉を聞いて連想されるものをつなげていってしまう。これはある意味人情というか、人の習性ですね。これを断ち切る。
桜散る→儚い→夢→若気
紫陽花→移り気→恋→若気
日の出→希望→若気
といったようなステロタイプな連想はどんどん収斂されてしまって、抽象的になっていく。抽象は詩情から遠ざかります。意味になってしまうからです。俳句は詩の仲間ですから、意味を超えていきたい。
意味というのは限られていて、似るんです。似ていてもいいんですが、ずらしがなきゃいけない。そのずらしを作るのは具象。具象は無限です。一つ物で仕立てるとしても、取り合わせるとしても、意味つながりの連想ゲームが一番いけません。
じゃあ、詩情ってのはなんなんだよと言いたくなるかもしれません。よく、論者たちが口にするポエジーってやつです。これは一体なんだと。
これに答えられたら、そのまま評論家になれます。答えられないから、作る。作って評価をもらって答えとしてみる。
考えてみると、世界中の誰も答えられない命題があって、ある創作をするとそれに近づく、近づけたような気がする、これだけでもやる価値があると思いませんか。
【守りたい作句6原則】
シンプルにまとめておきます。
●定型五七五を(なるべく)守る。
●季語を一つ。
●切れ字を一つ(切れを一ケ所)。
●連想ゲームをしない。
これに2つ足します。
●(なるべく)動詞を一つ。
●(なるべく)助詞を一つ。
この6個のルールを守れば自然と、からだが俳句仕様にひねられてくるし、一つ物か取り合わせかも決まってくるし、絵画的か映画的かもわかってくるし、もっともらしい俳句がきっとできあがります。
(もっともらしいことは俳句のような様式の強いものには非常に重要で、型ができると、そのモチーフとなったモノや、そのイメージのポエジーの実力がわかります。どういじってもそこまで・その程度、というモチーフは実際にあります。それがわかる。このお話はまたおいおいしていきましょう)
読んでいただいて光栄です。あなたも今日から俳人です。
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