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自分大好き!考

10年以上前、自分としてはけっこうな長期間、テニスに打ち込んだことがあった。スクールに通い、仲間も大勢でき、コートをレンタルして毎週欠かさず勤しんだ。その時に、女性陣の幹事役世話役だった女性がだいぶ歳は離れているが高校の後輩だったこともあり、よく話をした。
いつだか喫茶店で、何かの話の拍子に彼女が「独身のままでいくんだ」というので、つい「なんで?」と聞いてしまったことがある。彼女は文化人だったし、人の気持ちもわかるし、まめだし、恋愛するには申し分なかろうと思っていたのもあって、その理由を知りたくなり、質問した。そのときの答えがこれだ。

「自分大好きだから」

「だから」のあとには(結婚とか無理)が隠れている。さらに、(結婚とかって自分より相手を優先するものなんでしょ?むりむり)というのも隠されている。いや、彼女はそう、ボソボソと言っていたかもしれない。私は心底驚いて言葉を失い、聴覚も失っていて、彼女のボソボソは発せられていたのかどうか、定かでない。
だれかと対話をしていて私が話の接ぎ穂をなくすというのは、私を直接知るものならそうそうないことだと知っているはずだ。あえて黙っておくことはあっても、しゃべりようがないなどということはめったに起こらない。いつだかともに仕事をするにあたっての自己紹介があって「女房殺して服役してました。仕事はちゃんとやります」と要らぬ告白を受けた時以来、いやそれ以上の衝撃で、私は黙った。

「自分へのご褒美」くらいならなんとか理解できるし、その気分は時折おとずれたりもする(その気分の時は決まって飲みすぎるのだが)。「自己肯定感」という言葉も、「自分探し」も「自己実現」もどれも嫌いだが、驚いたりはしない。そんなものは太古の昔から、人類が悩んできたことだろう。何を今更という感触である。

請け合ってもいいが、私が若い頃に「自分大好き」は表現として存在していなかった。と、思う。
自分のことが好きなのか嫌いなのかの二択なら、嫌いと答えるが、「自分ぎらいなんで」とわざわざ言わない。
一つには、わざわざなぜそれをそうと申告するのかという問題も気になる。コミュニケーションとして成立しているのだろうか。

「そんなこというけど、あんたは自分のこと好きじゃないの。あんたっくらい自分勝手な人はいないとおもうけど」

なんてことを言われることもあるが、それ(自分好き)とこれ(自分勝手)とは別物だろう。
と、思っていた。

ところがだ。
自分が生んだもの、アイデアにしても企画にしても料理にしても俳句にしても、あるいは娘たちや友達や愛した女たちのことは大好きだったりはするなと、この歳になって思い当たった。敬愛する師や先達は生んだものとは言えないが、やはりとても好きだ。なんの衒いもなくそう言い切れる。

自分のことは嫌いでも、自分から外部に生み出したもの、関わったものは、モノでも人でも感情でも思想でも、みな溺愛と言ってもいいくらいに愛する。

自分とはそれらを愛する側の能動的存在であり、自分で自分をどう思うかは、つまり考えたことがなかったということだ。いまでも、必要もないだろうし意味もないだろうと正直思う。

先輩、自分のことが好きじゃないんですか?嫌いなんですか!そんなんでよく生きられますね、とかなんとか若造は言ってくれるのだが、そこはどうでもいいんだよと跳ね除けても、おそらく理解はしてもらえないのだろう。「自己実現」をテーマに生きている「自分大好き」な人間と、「あるべき社会実現」をテーマに「自分で自分を好きかどうかなんて考えたこともない」人間とはハナから相容れない。などといっちゃ、オシマイか。

こんな内向する文をつらつらと書けるんだから、もしかして私は自分大好きなのかもしれないという、ある種の戦慄めいたものが背中に走るが、たしかに、自分がなにをどう感じ、なにをどう考えるかについては尽きない興味と好奇心がある。

気取っているのかもしれないが、自分の命を張れるほどの外部を必要としている、という言い方がもっとも近く、自分を投じるために自分のことは軽くしておく、いや軽んじておく、この言い方もきっと芯を喰っている。
寺山修司は、

マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

と歌った。とても好きな短歌だが、国家のために命を捨てるなんてどうなのよとたくさんの人間が感じる時代に、ならば愛する人にはどうなのか、それは同じことだというのか。言葉をあえてはめるなら、こんなことを懐疑するのを浪漫主義的とでもいうのだろうか。
たしかに、流行らない話だ。



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