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俳句はおんもで詠め

カードゲーム『俳聖』の出版記念として、千夜千句を詠んでみようと粋がったことがありました。2018年の元旦からおっ始めて、3か月になる手前で400句いき、これはいけるかなと思ったところで頓挫して今に至るわけですが、こんなこといえるかな、こんな言い方ってありかな、こんな整え方もありかしらん、とこれでもかとばかりにいろいろ試したわけです。
主に歳時記を見ながら一季語一句のつもりで、最終的にすべて自作句による「私の歳時記」ができあがればこれも一興と。浅く広く、袋回しや『俳聖』をやってる気分で一瞬で詠む。その季語で瞬時に閃かなければ長々とは唸らない、ということにしていました。


坂本龍一や村上龍などがちょいちょい言ってますが、内部が外部(作品)を生むのではなく、外部を生むと内部が生じる。この考え方が正しいと。
イイタイことがあらかじめあってそれが詠ませ、作品化せしめるのではない。イイタイことはそんなに人間に、ない。内部が充実して創造欲があふれ出るのを待ってると、詠めなくなる。そんなことはめったに起こらないし、もし起こったとしても、気負ってしまってなかなかまとまってこない。
詠めなくなったら詠まなければいい。それはそうですが、詠めるのにそれじゃつまんない。私自身が、つまんない。
ではいったい、どのきっかけで詠むのか、作るのか。兼題や句会はそのきっかけのもっともたるものですが、ふだんからもうちょっと刺激を傍らに置いておくといいんじゃないかと千夜千句をやりだして、強く思いました。季寄せくらいの小冊子とか、鞄に放り込んでおくといい。
(思えば30年前に、師や先輩俳人たちに言われていたことですねえ。彼らはいちいち正しかった。笑)


俳句はつまり、関係的なんだとおもいます。一言でいうと。関係の文芸。山本健吉のいう「挨拶・滑稽・即興」をまとめて抽象化するとたぶん、この言い方がもっとも肉薄しているんじゃないかとおもったりします。
俳句は、関係的に刺激され、関係的に詠み、そして、その関係を読み解し味わう。対象となったものと詠んだ人と読んだ人の関係。内外でいえば、最初から俳句は外にある。自分の中ではなくて、外で詠みそのまま外に置く。花鳥諷詠の伝統派であろうと、前衛だろうと、社会派であろうと、みな同じです。これもまた俳句の大きな魅力の一つであろうと感じます。


俳句はおんもにある。おんもでだれかとたのしく遊んでると、いつの間にか内部が生じている。つくづくいい遊びです。俳句をやらない人の気が知れない。笑

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