見出し画像

天国考

死んで分かれ道があってそこで選択できるなら、迷わず地獄に行こうと思う。だいじょぶ心配するな、お前は地獄に直行だからと親友どもは言ってくれるが、もし選択制だった場合の話だ。


みんながずっとニコニコして満足で、競争も諍いもなく穏やかで、すべてを認め合っているところ、これが天国なのだろうか。東洋では極楽か。いずれにしたって、金輪際行こうとは思わないな。
優劣も評価もなくていったい何を称え合うのか。だれも努力せず、達成感もなければ挫折もない。意味もなく褒め、いわれもなく讃え、全員が全員を認め合っているところ。おそらく、名前がない。不要だろう。だって彼我の違いがなく、それについて語ることができないんだから。

そんなところに行ったら3日で死んでしまう。いや、死んでいるから、もう死なないのか。

だとすれば永遠にそのような国にいて、そのおっとりとした意識をずっと持たされることになるのか。それこそが地獄ではないか。そんな退屈なところでは眠くて起きていられなかろう。

いや、そうか!これを永遠の眠りというのか。

子供の頃からわたしは、寝ることが好きではなくて、ずっと起きていたいタイプだった。起きているほうが断然たのしい。林間学校だの修学旅行だの、とにかく寝たくない。寝るなんてもったいないことはできない。今でもそれは変わらない。何もイベントらしきものはない、ただの夜でも、眠くなるまでは寝ない。寝ずに済むなら寝ないでおきたい。この歳になってもいまだそうだ。
そんな性向のわたしが、そこは眠そうだと思うくらいなんだから、天国というところはなかなかのものだ。人の多くは保守的に考えるが、天国に限っては革新もいいところだ。よくぞ、こんな発想をしたものだと感心してしまう。

そう考えていくと、私には保守傾向があるということにもなる。つまり、現世のハードさを好んでいるわけだね。憎しみあったりいがみあったり、揉め事や諍い自体を愛しているのかもしれない。

競争のしすぎ、格差のつきすぎに反対して、もっと均すべきだろうとする左派の看板を時に掲げるが、それは実は、それによって起こる保守やリバタリアンからの反駁を好んでいる(だけな)のかもしれない。

最後の審判において、正しく生きた人は望む方へ行けて、私のような正しく生きなかった人間は望まない方へと行かねばならないのだとしたら、私は、議論のない国、天国に行かされるということか。
いわんや悪人をや、か。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?