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『さよなら絵梨』の構造分析

はじめに

この記事は、「ジャンプ+」に掲載された藤本タツキの読み切り作品『さよなら絵梨』の構造を分析することを目的としている。作品がどのように構築されているかを記述することがねらいであり、作品外の要素をもって批評することは意図していない。今風の言い方でいえばいわゆる「考察」記事である。なお、この作品はさまざまなモチーフやテーマが複雑に織り込まれているため、そのすべてを解説することは難しいが、ここでは作品の軸となる構造のみを取り出すことを目標としていく。

「現実」と「映像」

本作の最大の特徴は、コマ割りにスマートフォンのカメラのフレームが導入されていることである。冒頭の扉絵にスマートフォンを持つ手が主人公の視点で描かれ、その後は各コマが均等な横長であること、そしてキャラクターの会話によって、本作の画面はスマホのカメラを通して映った景色であることが示される。なお、コマの縦横比が冒頭のスマートフォンの液晶サイズと明らかに異なることをもって、本作の画面=スマホのカメラの映像説に異を唱える議論も存在するが、それは本記事よりもさらに先の議論になるためここでは措いておく。

さて、読み進めていくと、本作冒頭のシークエンスは、主人公の伊藤優太が撮影した映像を編集して学校の体育館で上映した「ドキュメンタリー映画」であったことが明かされる。ここでは本作の重要な二項対立のひとつである「現実」と「映像」の対立が導入されている。すなわち、本作の画面に描かれる出来事は、作中世界の「現実」そのものを映しているのではなく、あくまでスマホのカメラに映し撮られた「映像」であり、しかもそれが主人公によって事後に編集されたものかもしれないのである。主人公は母に買ってもらったスマホのカメラを日常的に起動し、大量の動画をストックし、それをなんとなく編集して「デッドエクスプローションマザー」という「ドキュメンタリー映画」にしている。それはさながら、YouTuberがカメラの前でひとしきり喋った後に、その動画に字幕をつけたり不要な間をカットすることによって、アップロードする映像へと編集していくようなものである。その映像は日常的なトークを映したようなものでありながら、現実そのものではなく手を加えられた「映像」である。このように、「現実」を日常的に動画として記録し「映像」へと編集することは、現代のスマホやパソコンといった情報機器の普及によって、優太のような普通の少年にも可能なことになっている。

「ドキュメンタリー」と「映画」

こうして上映された優太の作品は、母の死を冒涜するクソ映画として学校中の非難を浴びる。そのことに絶望した優太は、母の死んだ病院の屋上から飛び降り自殺しようとするが、そこを絵梨という少女に止められ、とある廃墟の一室へと連れていかれる。絵梨は彼の映画を「超っ~! 面白かった」と言い、自分がマネージャーを務めるから新たに映画を撮れと言うのである。彼女は優太にまずは大量の映画をインプットすること、そして次に撮る映画のプロットを書くことを指示する。

実はここで、本作のもう一つの重要な二項対立である「ドキュメンタリー」と「映画」の対比が導入されている。優太が初めに上映した映像はあくまで撮りためた動画を編集することによって生まれた「ドキュメンタリー」だが、彼らが新たに絵梨の借用する「ハリウッドの創作論」をもとに撮ろうとしているのは、台本のあるフィクションとしての「映画」なのである。「デッドエクスプローションマザー」の中でも特に評判の悪かった、最後に病院が爆発するシーンは、明らかに「現実」で起こったことではなく優太の加えた「創作」である。その創作は学校の人々によって彼が母の死という「現実」を冒涜するものとして批判されたが、他方で絵梨はそれを母の暴力性と欺瞞を告発するものとして評価している。そして優太の父もまた、彼の創作を肯定的に捉えている。父によれば優太は小さいころから何にでも「ファンタジーをひとつまみ」入れちゃうくせがあり、それが優太の映画の魅力でもあるという。このように、「映像」のなかには「ドキュメンタリー」と「映画」の二種類が存在し、いずれも現実を映した動画を編集して制作されるが、前者はあくまでリアルであるのに対し、後者は作り手の創作が加わったファンタジーなのである。

ストーリーに戻ると、優太はしばらくの間「映画」の台本作りに苦労する。やがて彼は絵梨のアドバイスによって、自分自身と絵梨の関係を映画にすることを決め、さらに上記の父親の助言から、そこにひとつまみのファンタジーを加えることを決める。そのファンタジーとは絵梨が吸血鬼であり、しかも以前の彼の母と同様に死の迫った存在であるという設定である。このインスピレーションによって彼の半ドキュメンタリー映画のアイデアは膨らんでいく。

この映画の撮影シーンは、再び読者に本作におけるふたつの二項対立を思い出させる。優太が絵梨に父と会ってほしいと告げるシーンの直後、画面には二人が優太の家で食卓を囲む様子が映される。父は絵梨に優太との映画作りをやめるよう懇願し、ヒートアップしていく――が、それは優太の書いた台本に基づいて演技する父親を撮影したところだったのである。これは第一に、マンガの画面に描かれているのが単なる現実ではなく、映画の撮影用カメラが捉えた映像だったという驚きであり、第二に、それが単に動画を編集したもの(ドキュメンタリー)ではなく、台本のあるフィクション(映画)だったという驚きである。ところで、このシーンの直後には優太の父が元々演劇をやっていたことが明かされる。これは単に父が優太の活動に理解があるというだけでなく、彼が元作り手として創作論を語っていることからもわかるように、彼が「創作」=「映画」側の人間であることを示している。このことは後に重要な意味を持ってくる。

「ドキュメンタリー」の創作性

映画の撮影が進む中、絵梨は自分が本当に病気であり、残された命が少ないことを優太に告げる。彼は再び親しい人間の死に向き合わなければならないことへの恐怖から、撮影を中断し家に引きこもってしまう。そこで交わされる父親との会話で明かされるのが、優太が生前母から一種の虐待を受けていた事実であり、スマホによる映像の撮影もそれと切り離せないものだったということである。テレビのディレクターだった優太の母は、息子に命じて自分の闘病生活をドキュメンタリー番組にするつもりで撮影させていたが、その過程では撮影の方法を厳しく指示し、時には暴力をふるっていた。つまり、「デッドエクスプローションマザー」の鑑賞者が、そして読者が見ていた優太の母の「綺麗な」姿は、優太が編集によって描き出した彼女の一面にすぎなかったのである。これは、「現実」をもとにした「ドキュメンタリー」であっても、そこで映し出されるのはあくまで作り手の編集による意図が加わったものであり、「現実」そのものではないということを示している。

この展開はあらかじめ「現実」と「映像」の対立、そして「ドキュメンタリー」と「映画」の対立が明確になっているからこそ、読者にとって大きな驚きとなる。「ドキュメンタリー」も「編集」されるものである以上、ある種の「創作」性をはらんでいる。絵梨のセリフによってあらかじめ示されていたように、「デッドエクスプローションマザー」はどこまでが事実でどこまでが創作かわからない作品である。鑑賞者は爆発シーンのようなあからさまな創作には反発するが、事実を隠す形での創作には気づくことができない。それは本作の読者も同様である。だが、先に挙げたYouTuberの例からもわかるように、これはあらゆる映像編集に当たり前のように内在する問題である。なお、ここで優太の母は「ドキュメンタリー」側の人間として描かれており、先に「創作」側として描かれた父とおそらく意図的に対比されている。本作は最終的に「ドキュメンタリー」をネガティブなもの、「映画」をポジティブなものとして提示するからである。

話をストーリーに戻そう。父によって「綺麗な母」のドキュメンタリーが肯定されたことによって、優太は絵梨の死ぬまでの姿を撮ることを決める。その映像は実際に学校の文化祭で上映され、多くの鑑賞者をブチ泣かすことに成功する。その後の絵梨の友人との会話の中で、実際の絵梨はメガネをかけており、歯を矯正しており、すぐキレる自己中な女で、優太の恋人ではなかったことが語られる。読者が見てきた彼女の姿もまた、優太の編集によって美化された姿だったのだ。だが、もはやそのことは大してネガティブな驚きをもたらさず、優太は今度こそ身近な人の死を映像化できたのだという達成感が描かれる。

ここで押さえておかなければならないのは、優太が公開した絵梨の映画は、結局のところ当初彼女が撮らせようとしていた「映画」ではないということである。作中の描写から判断する限り、この映画には編集による美化や簡単な台本のようなものはあっても、本質的な意味で「創作」的ではない。なぜなら、この映画は絵梨が最後に死ぬという変えようのない「現実」を前提にした「ドキュメンタリー」だからだ。そこにはひとつまみのファンタジーは入れられないし、彼女が生き延びるという台本を書くことはできない。絵梨が吸血鬼であるという設定は話の都合上なかったことになっている。先ほど「ドキュメンタリー」にもある種の創作性があると述べたが、それはあくまで「ドキュメンタリー」もまた編集を加えたフェイクであるという点においてであり、「ドキュメンタリー」はリアルに基づくという本質からは逃れられないのである。つまり、当初の構想によれば、優太は母親のときに撮れなかった死を撮ることができれば、「ちゃんと生きようと」「また映画を作る自信を貰える」はずだったのだが、その目標は実は達成されていないのである。優太の2作目の映画は、絵梨の死を映像として捉えてはいるものの、本来目指していた創作ではなくなっていたからだ。彼にとって「死を撮る」とは、単に撮りためた動画を編集することではなく、死というものに向き合って主体的な意味づけを行うことなのである。

「現実」とファンタジーの接続

文化祭の後の優太は引きこもり、延々と絵梨の映画を再編集するようになる。彼はその理由を作品に「何かが足りない気がしたからだ」と述べているが、それは創作性であるということは今や明らかである。同時に、ここで彼が「その答えは絵梨と過ごした2728時間の動画にある気がしていた」と述べていることも重要である。彼は未だ絵梨の、もしくは母親の死という「現実」に折り合いをつけられていないのである。

やがて大学を卒業し大人になった優太は、結婚して家族をつくり幸せな生活をおくる。しかしやがて彼は自動車事故で家族全員の命を失う。彼はカメラに向かって自らのことを「目の前の問題を客観的に見てしまう癖がある」と述べている。優太は「現実」と「映像」の二項対立を前にしたとき、前者の辛さゆえに常に「映像」の方を見てしまう人間なのである。そうして「現実」を客観的に見てしまうことは、「現実」と折り合いをつけられないことに帰結する。やはり、彼に必要なのは、母親と絵梨の死という「現実」を主観的に捉えなおすことに他ならない。

再び訪れた家族の死という辛い現実を前に、自殺を試みようとする優太は、思い出の廃墟に向かい、そこで死んだはずの絵梨と出会う。彼女は本当に吸血鬼で、死んだ三日後に復活していたのだという。甦った絵梨は、脳とはハードディスクと同じで入る量に限界があるのだと述べる。ハードディスクといえば、この作品においてはスマホで撮影した動画をストックしておく場所である。そこはまだ編集される前のむき出しの「現実」が映っている領域であり、やがて訪れる死の支配下である。

だが、甦った絵梨によれば、彼女はこれまで何度も記憶を失った状態で復活している。これは彼女が「死」に支配された「現実」から自由な存在になっているということだ。ここで起こっているのはまさしく「死」という現実を超越したファンタジーである。記憶を失った彼女は、自分がどう生きればいいのかを優太の映画から学んだのだという。ここでは優太の編集が作り上げたフェイクに過ぎない「絵梨」が、永遠の肉体というファンタジーによって実現されているのである。彼女はまた、家族を失って現実に絶望する優太に対し、自分は映画の中で何度でも優太に出会えるから絶望しないのだと述べる。これは「映像」が、フェイクであり作られた記憶であるにもかかわらず、「現実」に向き合う手段になりうるのだということである。

ここで、「ドキュメンタリー」を作っても「現実」に向き合えなかったはずの優太は、絵梨との会話によって希望を取り戻すことに成功する。なぜそんなことが可能になったのか。その答えは本作の最後のシーンにある。絵梨との会話を終えた優太は、自殺をやめて廃墟を出る。すると、廃墟の建物が「デッドエクスプローションマザー」の結末のように爆発するのである。ひとつ言っておくと、この爆発が作中世界で本当に起こったことかどうかはわからない。この画面もまた優太の編集した映像かもしれないし、爆発は優太が加えた編集の一部なのかもしれない。さらに言えば、甦った絵梨の存在もまた作中世界の「現実」かどうかは決定できない。ひょっとしたらこの廃墟のシーンはカメラの映像ではなく優太の主観的な妄想を描いたものかもしれないし、あるいは優太が生前の絵梨の映像を使って作り上げたフェイクという可能性も考えられる。この問題に本作の中の要素を使って結論を出すことはできないだろう。いずれにせよ重要なのは、この爆発が「映画」における創作性の象徴であり、優太がかつて加えた「ひとつまみのファンタジー」と同じものだということである。

ここであらためて「ドキュメンタリー」と「映画」の二項対立を整理しよう。「ドキュメンタリー」とは、編集を加えた映像であるものの、リアルに基づいて作られるという制約をもっている。したがって、それは過去に縛られており、常に受動的につくられるものである。また作り手はドキュメンタリーに対して客観的な立場をとらざるを得ない。これに対し、「映画」は台本に基づいて作られるフィクションであり、ファンタジーを許容する。作り手は主観的なファンタジーによって、能動的に「映画」をつくることができ、そこに未来を描くことができる。

こうした性質上、ふつう「映画」は現実とは交差しない。「ドキュメンタリー」の方がまだ「現実」をもとにしている分近い概念といえる。だが、本作においては最後に「吸血鬼として生き続ける絵梨」という優太の主観的なフィクションが、現実に存在するという奇跡が起こるのである。ここにおいて初めて、優太は「映画」という創作を通して、現実を主観的に捉えなおし、身近な人間の死に折り合いをつけることができるようになる。これが本作において絵梨の甦りという奇跡が求められた理由である。もちろん、この絵梨が作中世界における現実の存在かどうかは、先に述べたように確定できない。だが、ここで優太の妄想が「現実」として描かれたということは、彼が創作を通して能動的に未来を描いていってよいのだと思えたことの証拠なのである。

要約するなら、この作品のメッセージとは「現実は決して思い通りにはならないが、創作を通じて思いを自由に表現し、現実を乗り越えることができる」というものである。このメッセージだけを見ると、なんだか素朴で楽天的な芸術賛美のように思えるかもしれない。だが、先ほど最後のシーンの爆発について述べたことを思い出してほしい。この「さよなら絵梨」というマンガにおいて、作中世界の現実と創作とは区別することができず、同一の地平線上に存在するのである。そうした世界は、この作品がカメラによる表現を導入し、現実を一つに定められないよう操作し続けたことによって成立している。そんなアクロバティックな表現によって初めて、本作は創作が現実に影響を及ぼせるような世界観を作り上げ、創作することの素晴らしさを打ち立てているのだ。

だから私は、立ち直った伊藤優太が再び映画を撮るようになっていたらいいなと思う。

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