見出し画像

喜を綴る Vol.1~『アトリエに青い雨』作曲後日談~

   霰綴喜です。普段はボカロPをしています。
   この度、新曲『アトリエに青い雨』を創増会議2022にて発表し、その後各音楽サイトでの配信とMVの公開をしました。この曲について少し語ってみようと思います。楽曲のリンクを貼っておきます。

Youtubeはこちらから

ニコニコはこちらから

配信はこちらから

では、本題に入りましょう。

異なる者同士が受容し合うことの難しさ

   この社会はメリトクラシーに偏重し過ぎなように思える。頭がいい↔悪い、可愛い↔可愛くない、空気が読める↔読めない、仕事ができる↔できないのような、ある一定の優劣の物差しに従って人間に値付けをしようとする傾向がある。劣っている者や周囲に迷惑をかける者は糾弾されるべきだとか、論って酒の肴にしてもいいとか、そういった暗黙の了解に支配された冷たい空気が苦手だ。
    そもそも人間に宛てがわれる優劣の価値基準は社会の潮流ありきのものであり、実体を持たない。結果的に生き残るか否かという現実的な問題は存在するが、容姿の善し悪しも、能力の優劣も、全て過剰に増幅された人々の集合的価値観によって形成されるものであり、そこに本質的な意味は無い。
   人々は共通の敵や仲間外れを作ることによって、同種の人間同士での仲間意識を強める。自分たちにとって当たり前にできることができない人間を排斥する。社会を守るという建前のもとに蔓延る選民思想だ。
   これを書いている自分だってそのような感情が無いとは言い切れないだろうから、気をつけないといけない。やはり、同種の人間の間に生まれる「共感」という社会性動物としての進化の過程で手に入れた強力な武器を捨て、自分とは違う性質を持つ相手と受容し合うことは誰にとっても難しいことなのだと思う。
   だが、相手を理想化することもなく、相手の欠点(と一般的にされている部分)や自分と違う所について過剰に攻撃的になることもなく、互いの人間性を認め合った上で共存しているような時空間がどこかに存在して欲しいという思いを作業場である本棚の片隅あたりに添えてこの曲を制作した。

歌詞の制作


   実は完成に至るまでに歌詞を3回ほど書き替えている。元の歌詞が上から目線過ぎたためである。しかし、納得のいく詞が書けたかと言われても肯んずることはできない。どこか傲慢な感じが抜けきらなくて気持ちが悪い。
   漫画『ブルーピリオド』にて龍二が八虎に向けて放った「君は溺れている人がいたら救命道具は持ってきても海に飛び込むことはしない」という台詞があるが、仰る通りである。陸地に居なければ助けることは出来ないが飛び込まなければ寄り添うことは出来ない。
   それと同じで、この楽曲は誰かに寄り添うものにはなり得ないのではないか、という不思議な喪失感に襲われている。人に寄り添う言葉は自分からは出てこない。その事実に対する、喪失感だ。しかし、負の感情を見出す場所がそこである時点で、自分は誰かに寄り添うことなど永遠に叶わないのではないだろうか、とも思うのである。
   なお、MVに歌詞を一部載せていない部分があるが、これは言葉が稚拙で恥ずかしかったためである。

MV制作

   舞台は廃墟となったアトリエである。これを描くのにあたり、廃墟の画像やアトリエのイラスト、漫画家のデスクなどを参考にした(めちゃくちゃ大変でした…)。2人の女の子が登場するが、各々の性格まで考えた上で描いた。
   これは絵が未完の頃の話になる。おそらくメインとなっているアトリエ内部の絵の線画に手を付け始めた頃であろう。絵を描くのに使っていたApple Pencilを壊してしまったのである。それも内部の機能の故障ではなく、正しくこの目で確認できるペン先の古典力学的破壊が起こったのである。
   正直、絶望した。これは音楽とは関係ない話にはなるが、大学の講義ノートも講義資料の管理も全てGood Notes(タブレットで使うノートアプリ)に任せ、すっかり依存しきっていた自分からApple Pencilを取り除いたらどうなるか。答えは自明だ。学問的退廃である。
  なお、このApple Pencil破損事件が起きた当時の講義資料のデータには、「字が書きにくい」というダイイングメッセージにも近しいミミズの這い跡が確認できる。

話を戻そう。というわけで、途中から指描きに切り替えてどうにか絵を描き終えたわけだが、これが案外できなくもないということに気づいてしまった。技術の進歩は人々の可能性を知らず知らずのうちに狭めているのではないだろうか。
   また、映像編集にも初めて挑戦しているが、これが案外楽しいもので、始めてしまうとなかなか他のことが手につかない。

   絵の右上にタコの足が描いてある事に深い意味はあるのかと突っ込まれると、多分ない。タコが描きたかったんじゃないですかね。多分。

最後に

   この長きに渡る駄文をここまで読んだ皆様の強靭な忍耐力を褒め讃えたい。高校の卒業記念で貰うようなやたら重たいボールペンの1本や2本を景品として贈らせていただきたいほどだ。無論、そんな金はどこからも出てこないので本気にされてしまっては困るのだが。
   自分の言葉などというものが果たしてあるのだろうか。我々は親との関わりで初めて言葉との邂逅を果たす。その後、バラエティー番組の司会の関西弁によるツッコミや悲惨な交通事故を淡々と伝えるニュースの報道、ファストフード店のメニュー、紙パックの野菜ジュースの栄養成分表示、小学校の図書館で読み漁った怪談レストラン、中学生の摺れに摺れまくった時期に街中で流れていた聞きたくもないアイドルソングの歌詞、高二の時の古文の先生の癖の強い喋り方など、周囲の人間から吸収した言葉を原材料にして、自分が発する言葉が形成される。
   自分の言葉を貶すことは、自分が触れてきた他者を貶すことになるのだろうか、とも考えたが、そもそも言葉を誰に帰属すべきかという所有の境界線を引くこと自体馬鹿馬鹿しい。それは人の恣意的な価値観が作り出すものだ。こうぐちゃぐちゃと考えているうちはまだ社会だ生み出した集合的価値観からは逃げ遂せることはできないのだろう。
   歌詞に触れるにあたって、そのような浅ましい葛藤があったということだけはここに記しておく。そろそろ2時間前に飲んだ睡眠薬が効いてくる頃だ。副作用の殺人的な耳鳴りと共に眠りに就くとする。

   最後までお読みいただきありがとうございました。また次号でお会いしましょう。

   霰綴喜という名前でボカロPをやっております。Youtubeニコニコ動画、各種音楽サイトにて楽曲を公表しております。Twitterでは日常の呟きをしております。よろしくお願いします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?