見出し画像

(短編ふう)”カッコいい”の正体 麦酒薫る 

7月のよく晴れた平日。
11時オープンのビアレストランに、一番乗りで入った。

例年、正午過ぎまでかかる年に一度の健康診断は、今年に限って1時間ほど早く終わった。

バリウム検査の後は水分をしっかりとらなければならないし、前日の9時から、食事をとれない。
なので、お昼はキリンシティーでとろう、と端から決めていた。

キリンシティーとは、キリンホールディングス傘下のビアレストランである。
敢えて注釈すると、キリンホールディングスとは、麒麟麦酒株式会社を祖とした、酒類から、飲料、医療、バイオ全般へと多角化したグールプの事業全体を統括する純粋持株会社である。

当然、麦酒は、格別に美味しい。

「当店の麦酒は、特別なので少々お時間を頂きます。」
頼むと、一杯目は必ず、自慢気にこう言われる。

こだわりの「3回注ぎ」がうたい文句だが、「一番搾り」銘柄に限っては、その特徴故の「2回注ぎ」らしい。

よく磨かれたグラスに水滴が光る。
目にするだけで喉が鳴る黄金色。
その上に盛り上がったフワフワ泡は、上唇に残る。

料理もどれもおいしいが、全体に一品一品、ちょっとお高い。

「どちらでもどうぞ。」
と賓客のように迎えられて、陽ざしの明るい窓際席を選んだ。

「こちらが季節の限定品なんですが、“親鶏の柚子胡椒ポン酢和え”は絶品ですよ。もう、おいしくて、ぼくは、バイト終わりに毎日、食べてます。」
アイドルのような容姿をした店員が、季節限定品ばかり載せた一枚のメニューシートで、朗らかに説明してくれた。

注文は、電子タブレットで、セルフで行う。

麦酒も、“親鶏の柚子胡椒ポン酢和え”も、満足の上を行く美味しさだ。
頭上からのクーラー風に肌寒さを感じた頃、奥の席に、女性がひとりで食事しているのに気が付いた。

ちょっと晩年の八千草薫ふうのご高齢の女性だった。

もうすぐランチ時だが、他には、もうひとり、先ほど大きな黒い鞄を重そうにして入ってきた、40代頃のひょろりとした男しかいない。
店員は、アイドル顔の青年を含め、3、4人いるようだったが、出番待ちの草野球選手のように手持無沙汰にしていた。

彼女は、背がソファーになった奥の席に、こちらを向いて座っていた。
なんの料理かは見えなかったが、テーブルには既に白い皿がみえた。
いつの間に来店していたのだろう?
おひとりで、誰かを待っている様子もない。

ひょいとビールグラスをつまんで、口にしていた。
その様子が、なんとも清々と、“かっこいい”。

この“カッコよさ”の由来はなんだろう?と、つい、しばらく目が離せなかった。

“晩年の八千草薫ふう”と記した時点で、凡そ、その“カッコよさ”を形容し尽くしてしまっている気もするが、一緒に考えたいのは、そういう“カッコよさ”は、どこから来るのだろう?という、その正体だ。

言い換えれば、晩年の八千草薫ふう“カッコよさ”、はどこからくるか?という問いの答えだ。

梅雨であることを忘れさせる、からりと晴れた平日のまだお昼前、手間のかかった高めの麦酒を、高齢の女性がひとり、口にしながら食事している。

その様子が、まことに、”かっこいい”。

シルクの布が風を受け流すような、
池江璃花子の水泳フォームのような。

ひとりのひとの一瞬の印象を、言葉にするのは難しい。

村上春樹が書いていたと思う。
百科事典の内容を、〈あ〉~〈ん〉を〈1〉~〈51〉までの数字表記にして、先頭に0を付ける。
小数点以下になった数字は、長さを1とした棒の一カ所に印をつけることで表現できる。
これを〈百科事典棒〉という。
同じ仕組みで、ひとの人生も、1本の棒に表せる。
100歳まで生きても一カ所、夭折しても一カ所。
何かをやり遂げようが、やり遂げまいが、一カ所。

少しロジックがズレてしまうが、ひとの一生をひとつの百科事典棒にみたてると、ひとのどの一瞬も一生全体を表す、と置き換えることはできないだろうか?
一説によれば、過去から未来へ一方通行に流れているように思える〈時間〉という現象も、実はすべて連なって同時並行的に存在している、と解釈できるともいう。

あるいは、どの一瞬で切ってもその時点で完成した〈百科事典棒〉ができあがると解釈すれば、もっと矛盾がないかもしれない。

おひとりで、満足そうに、ちょっと高めのこだわり麦酒を召している。

それが、今日、この時の彼女の〈百科事典棒〉の一点だ。
その一点で、力みなく、自分らしく自立していた。

”カッコいい”という感嘆の正体は、そういうオーラへの憧れだった。

馥郁と麦酒が薫る。
鼻の奥で十分に味わった。


「そこの坊や。じろじろ見ないで頂戴。お代頂くわよ?」
と、目が合ってしまうことはなかった。


一か月後、〈人間ドック成績表〉が届いた。
こういうタイプの〈百科事典棒〉もあるな、と消沈する。

―了―

※キリンシティーをだいぶ褒めましたが、わたしは、キリンHD関係者ではありません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?