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(短編ふう)寛、という字。

ぼくは、こころが狭い。

小学5年生の時、
これを玄関に貼って、出る時、毎日、見るようにしなさい、
と、半紙に書いた一文字を渡された。

きれいな一筆。

クラスのひとりひとりに、違う文字が配られた。

もっと広いこころをもてるようになりなさい。
と、意図を説明された。

担任は、27歳独身、体育大学出身の女性教師だった。
今の自分から見れば、指導するよりされる側が似合う年端だ。
随分、えらそうに背伸びしたな、とむしろ可愛らしく思うが、当時は、
そうか、ぼくはこころが狭いんだな、
と、なんとなく納得するところがあった。
少し凹んだ。

仲のいい同僚3人組がいて、一緒に旅行したりもしていた。
27歳独身、体育大学出身は、そのリーダー格だった。
、のきれいな字は、彼女本人でなく、仲間のひとりに書いてもらったものだ。友達の字の綺麗さを自慢していたから、悪気はなかったろうが、クラス全員分を書かされた方は随分、骨が折れただろうと思う。

あるいは、この子にはこの字ね、と、ふたりで、あるいは3人で楽しみながら書いたか。

毎日、見ていたから覚えているが、墨は墨汁でなく、丁寧に刷った色だった。
低学年の時、書いた方の教師が担任だったこともある。
書初めで、縦に「けやき」と書いた。
なぜか、”け” が大きくなりすぎて、”や” と ”き” が、うまく収まらず苦心した記憶がある。
母の刷ってくれた墨を、空き瓶にいれて使っていた。
「きれいな墨ね。」
と、褒めらた。

、も、そういう色だった。

広い、でなく、
広い、では、ただの面積を表すようで、こころらしさがない、ということなんだろうな、と勝手に納得して、漢字の選び方について学習した。

それで、ぼくの狭いこころに変化はあっただろうか?

ひとつある。

クラスに、寛子、という女子がいて、何故か意識するようになってしまった。

~~

忘れ物ないか、という母の声を後ろに、ドアに手を掛ける。
眼の高さに〈寛〉の半紙が貼られている。

ああ、おはよう。
〈寛〉が、今起きたような寝ぼけ声で言う。
おはようと返してドアを開け、外へ出る。

〈寛〉がランドセルの後ろをひらひらとついてくる。
一反木綿を連れた鬼太郎のようだ。

教室の後ろのドアから次々、クラスメイトが登校してくる。
寛子も来る。
おはよう!
にこやかに言って斜め前の席につく。

「よそ見しないで、集中!」
計算ドリルの最中、つい寛子の背に視線を送ってしまっていると、机の間を見て回っていた、偉そうな27歳独身、体育大学出身女性教師に叱られた。

ひらひらと浮いた〈寛〉が、それを残念そうに見下ろしている。

ぼくの狭い心は、恥ずかしさでいっぱいになる。

―了―

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