容姿と幸いの話

私の姉を見た人は大抵驚くのだが、二人の姉はどちらもきれいな人……らしい。

好みの顔ではないから私は特別そうは感じないけれど、世間の反応は確かにそれを示している。

一番目の姉は「ケンカをやめて♪」のあの歌を地で行き、二番目の姉は中国に旅行に行った際、日本のコンビニの距離感でナンパを受けた。姉たちの写真を見た人は一様に「この人可愛いね」と褒めるのだから、まあ大方の人間にとっては間違いのない事実なのだろう。

そんな二人の妹である私はへちゃむくれである。

人間になる前のポニョに似ているとたまに言われる。

ポニョ可愛いじゃんと言ってくれる優しい人もあるかもしれないが、考えてみて欲しい。あれはデフォルメされているから可愛いのだ。リアルになった人間以前のポニョを見て悲鳴をあげない自信が私にはない。ちなみに私が鏡を見るたび悲鳴を上げないのは、ただの慣れである。

そんな、顔面といわず全身サバイバルな私と、世間が褒めそやす姉二人。

さぞや比較され苦労しただろうと思われるかもしれないが、その点においてはさして苦労はなかった。

もちろんなくはない。あからさまに引かれることもあった。それでも「さして」と言えるのは、やはり親のおかげなのだろう。

少なくとも私の母は子どもを容姿で比べることはなかった。父は、それはもう二番目の姉をむちゃくちゃに可愛がり、お小遣いもプレゼントも二番目の姉にだけは与えていたが、一番目の姉も私と同じようになにも貰わず可愛がられていなかったから「そんなもんか」と思っていた。

要するに、きれいだってどうしようもないことはあるのだと、目の当たりにする家庭だったのだ。

愛されるとはなんなのだろう。

そしてそれは幸福なことなのだろうかと、私などは考えてしまう。

きれいで賢く人一倍気が強い一番目の姉は、私と同じように特別親からは愛されなかった。

でも不幸とは思えない。

では、父親から溺愛された二番目の姉が特別幸運で幸福かといえば、本人の受け止め方は知らないけれど、私の立ち位置からはそうは見えない。

精神が不安定だからだ。

姉には姉の苦しみがあり、私には私の苦しみがある。

それは比べようのないことで、相手を見上げても見下げても消えるものではない。

そして、きれいだからと悩みがなくなる訳でもないのだ。

だから、さして、としか言いようがない。

 

もちろんきれいなほうが人生は得だろう。

就職に有利だし、美しいというだけで受ける接客の質が変わることもある。異性はもちろん、同性からもちやほやされる。文句を言われても回りは「きれいだから嫉妬されてるんだな」と勝手に解釈するし、自分が望むパートナーを射止める確率も高まるだろう。

期間限定のスキルではあるけれど、初動からそのスキルを持つSSRカードを与えられたゲーム展開と与えられなかったゲーム展開では進めやすさに雲泥の差がある。

持っていたところで活用できない人も、持っていなくとも効率的に進められる人もいるから、一概に結果は括れないけれど、出来れば持っていたいというのが本当のところだ。

ただ私は、近くにいるSSRにあまり憧れを抱かなかった。姉の容姿を与える代わりに姉の気質も同時に与えると言われたら、断固拒否するくらいには抱かなかった。

とはいえ、街で可愛い女の子を見て、「こういう容姿だったら私の人生どんなだったかな」とうらやむこともある。

でもその気持ちを分解すると、容姿というより「悩みが少ない」ということに重点がある気がする。

全身サバイバルだと洋服選びも大変だし、流行に乗ろうにも流行に拒絶されることがある。メイクで小顔を目指そうったって、メイクにだって限界はあるのだ。肩を抱いて許さなければいけないことがあまりに多い。

もしそういう悩みから解放され、容姿は千差万別と誰からも受け入れらたら……なんてもう、極楽に行くしかないような気がする。


姉はそばで見てきたから分かるけれど、街で見かける可愛いあの子にも、やはり悩みはあるのだろう。

ただ、現実ではなく想像だから、いまいちリアルに迫ってこないだけだ。

うつで苦しんだ高校時代、一番目の姉にそれとなく苦しみを打ち明けたことがある。そしたら言われた。「みんな苦しいんだよ」って。

私はその時、世界で一番自分が不幸で苦しいと思っていたから、釈然としなかった。でも姉の声の重さは未だに胸に残されている。

苦しみは主観的なものだから、私の「世界で一番自分が不幸」と思っていたことも間違いではないのだろうけれど、歳を経るに従ってようやくあの時の姉の言葉が飲み込めてきた気がする。

そしてあの歳にして、一番目の姉はそれを飲み込んでいたのかとも思う。

二番目の姉にも言われたことがある。

「私が一番苦労してる」。

私は言い返さなかったけれど、今この人は「自分が一番苦しい」ともがいている時期なんだな、と思った。でも一番目の姉のようには言ってあげられなかった。あれは一番目の姉だから言えた言葉だ。私が繰り返しても、本当に苦しんでいる人に届くはずがない。

不思議なもので、一番目の姉と私にはもっとも親に愛されて見えた二番目の姉が、もっとも「苦しい」「足りない」「皆私から取っていく」と話す。旦那さんになった人は将来有望でそうお金に困ることはないようだし、子どもは才色兼備(姉談)なのにだ。

そして二番目の姉からすると、末の私はもっとも甘やかされ、自分と比べればたいした悩みもなく生きているらしい。

あほか、と思うけれど、街の可愛い女の子に似たような感想を持った私に、責める権利はないのだろう。

 

『銀河鉄道の夜』でジョバンニは「けれどもほんたうのさいはひは一体何だろう。」と言った。

現代の私は「それな」と答える。

理屈ではいくらでも答えられるけれど、少なくともそれは、世間の評価の中にないことだけは確かだろう。

星の間を走る汽車の中で、ジョバンニと話してみたい気がする。

私は仏教徒だから、案外話ができるかもしれない。

でもいかんせん、ジョバンニは若く、今の私とは悩みの質も相手への求め方も違うような気がする。

理解できることも共感できることも、反発を覚えることもあるだろう。それでも夜の車室で薄暗い灯りの中で同じ風景を見たら、心の奥底にあるもがきあがきを話し合えたら、私はジョバンニを一生忘れないと思う。

美しい記憶になると思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?