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【随筆と写真】例年よりゆっくり流れる時も、止まってくれることはないから。

 コロナにおびえるようになって、もう何か月が経っただろうか。1年は経っていない気がする。でも、半年は軽く過ぎてしまった。その間、気づけば都会ではほぼいつも通りの日常が始まったらしく、コロナはもはや、「かかっても仕方がない」ものになっているらしいと聞く。

 ただ、そうした態度をとれるのは、「もはや経済のためには防ぎようがない都会」だからこそだろう。そこには一抹のディストピアを見ることもできるが、「経済活動くらいなら自粛しながらでもなんとかなる田舎」においては、人によっては時が止まったような感覚を受けることもあるのだ。

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 確かにワイドショーでの連日の報道は鳴りを潜めるようになったし、街中に出ればいつもと変わらない人の多さだ。けれど、遊びに行くとなると話は別で、未だに「感染怖いし」という声をよく聞く。実家暮らしや二世帯住宅のような、どうしても感染できない理由もあるからだろう。

 こうした生活も、それはそれで悪くはない。少なくとも、今までよりずっと家にいる期間が増えた分、これからのことを考える時間が増えたし、外出自粛にかこつけて、研究や仕事をすこし減らしても怒られないでしょうという甘えのようなものもあったから、肉体的には大分健康的に過ごすことができた。

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 隣家に住む老いていく祖母の老後を静かに支えつつ、畑や田んぼの仕事も少しずつ手伝いながら、たまに研究したり、仕事したり、ゲームしたり。年齢の割にまるで老後のような生活が続く。生活は少しずつ停滞していき、流れる時間は日々同じようだ。

 ただ、そうなると精神的にはふさぎ込むことが増えた気がする。家族以外の誰とも中々会えない生活で息をつける時間といったら、私の中では外を散歩するときか、ネット上の友人とゲームをするときになってしまった。そんな中で、ふと気づいたことがある。日々の日没の変わりようが、去年よりずっと感じられるのだ。

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 健康のための日々の散歩をする時間が、すこしずつ17時台までになっていく。18時台になるともう日は沈んでしまい、そこからは田舎には夜の帳が降りるから、撮るものがどんどんと似通ってくる。いつも通り過ぎるアパートの明かりとか、かなり離れた電灯とか。だから、写真のバリエーションを増やすためにも、日没前に散歩に出ないといけない。そうした状況に、去年過ごした東京ではきっとならなかったはずだ。

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制限時間があることは、写真においては決して悪いことだけではない。時間が有限だからこそ、それを残したいという欲求も強くなるし、その場でのベストを尽くしたいとも思う、気がする。いつかは老いて消えてしまう体にとって、夏は後何十回かしか来ない。少なくとも、今の時点の未来では。

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 記録し、撮影し、自分の中での糧とする。人生に厚みを増すために、自身で記録をとっていく。そうすることで、無駄じゃない何かを生きた証を心に持つことができる気がするから。コロナで生活は停滞したけれど、今だからこそ、前よりいっそう写真を撮るのだ、自分。

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自分のための備忘録。

サポートして頂けた分は、写真に対する活動全てに充てさせて頂きます。缶コーヒー1本分からの善意への期待を、ここにこっそり記します。