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コロナ時代における、「新しい生活様式」の徒然

そんな感じのレポートを最近書いたので、疑問提起を兼ねて備忘録的にアップ。ついでに昨年の未公開スナップを掲載しておきます。

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6月も終わりかけの日本では、人々はコロナに対する恐怖心を前より薄れさせているように見える。東京や神奈川ではいまだに一日に何十人もの人々が感染し、地方都市に於いても数週間に一度はどこかでクラスターの発生の報せが届くが、知事の外出自粛令の声はもう殆どの一般市民には届いておらず、休日のユニクロやカラオケは私の家の周りでも満員御礼だ。

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3月終わり、昼頃にテレビをつけると悲観的なニュースばかりが流れており、人々は政府に対して、一刻も早い「緊急事態宣言」の発令を願っていたように見えた。実際、そこで皆が思っていたのは、「コロナには感染したくないが、自分一人だけ違う生活をすることはできない」という感情だったのであろう。いくらリモートワークをしたくても、学校に行くことを避けたくても、会社や教育委員会がそうした方針を決定してくれなければ、個人の意思だけではただのずる休みになってしまう。だからこそ、非常事態宣言が出てからの人々の動きは速かった。週末の都心の電車の利用率が95%減と聞いた時、日本に住む人々のコロナに対する努力や願いはいったん叶ったと感じた。

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そしてそのうち、感染者数は徐々に減少を続けていき、人々は次に経済活動の再開を願うようになる。特に飲食やサービス業の衰退は著しく、それらを動かすためにも、強い宣言はできないまま、じわりじわりと都心では感染が広がっている。それでも、田舎では感染者数0の場所が殆どであり、そこにはいつもと変わらない日常と平和が戻ってきたように錯覚する。

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これら一連の流れは、どこまでが政府主導で、会社主導で、民意主導なのだろうか。コロナという見えない巨大な敵に対して、日本に住む人々は、初めは政府の力を強く借りながら、対策法を獲得していったように見えた。勿論個人におけるレベル差はあるものの、明らかに去年に比べてマスクを使う人も、消毒用アルコールを使う人も、手洗いをする人も増えた。ただ、政府の主導に民衆が従っただけであるとは思えないのが、コロナにかかわる報道の恐ろしさにある。 

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コロナに感染した人々は、保健所にそれまでの行動を調査され、そしてそれらを通達されるために、マスコミの恰好の餌食となる。特に、県内初感染や、久しぶりの感染、そしてスーパースプレッダーといった人々の報道は非常にきわどいものであった。感染した人々の家族に対しての誹謗中傷やハラスメントにおいて、その場所に住めなかった、という話も聞く。ただ、これはマスコミがなかったとしても、間違いなく広がる噂の類に似ている。近所の人が見ていた、あの人はここでこうやって過ごしていた。そんなことが広まることを恐れ、不要不急の外出を避け始めたものも少なくはないだろう。そうした、一種の強い「同調圧力」によっても、生活様式は規定されているように感じている。

  だからこそ、だれが新しい生活様式を作っていくかという問いへの答えには、「すべてが相互的に作用するから」としか言いようがないのかもしれない。今まで通り生きることが困難であることを皆が感じ、それを政府が法律等で形に変え、会社はルールを整備し、個人は個人の尺度と、そして周囲との共存のために生き方を変える。どれがかけても、新しい生活様式とは言えないだろう。

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まだまだ試行錯誤が続く中、東京の感染者数は再び今日で100人を超えました。そうした中でどのように生きていくのか、個人が良く考えていく必要があるように思います。

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