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トリップ

今日もガクガクと手が震えたから、アトマイザーのスプレー部分をクルクルと外した。マグカップにさしてあったストローを、煙草のように、人差し指と中指で挟む。ストローは、アトマイザーのあの細い口に中々ささらなかった。何度も何度も何度も繰り返すうちに、なんとかストローは容器の中に入った。
漠然と、未来が、遠いけれども確実に、そこにあった気はしていた。しかし、それはもう消えた。今となってはそれも、どうでもいいことだった。

 アトマイザーの底をライターで炙る。ストローは、震える中指を支えに、人差し指で転がされる。容器の中から溶かし出た煙は、僕の肺に吸い込まれた。煙が全身を回るのに時間はそうかからない。しかし、おそい。僕にはもう遅い。気持ちは急くばかりだった。僕は貧乏ゆすりなのか震えなのかわからない足を右手で抑え、左腕で頬杖をつき、目を閉じた。

 瞼の裏の世界は、あのときの光景を映していた。そこらじゅうが宝石なんかよりも遥かに光り輝き、美しかった。いつまでもそれを眺めていられた。たとえそこがトイレで、何の変哲も無いライトやタイルのことだったとしても。


 僕は全身に血が回り始めたのを感じ、勢いよく立ち上がった。視界もクリアだ。僕はあたりを見渡し、喉にひどい渇きがあるのを見つけた。僕は冷蔵庫に走って向かう。冷蔵庫のドアを開けたらマヨネーズの横にビールがあった。彼女がくれたか誰かが置いていったサントリーのオールフリーだ。僕はオールフリーなんかクソ喰らえと思っていたからずっと飲んでいなかった。賞味期限も切れているだろう。僕は急いで爪を剥がさんばかりにガシュっと開ける。ゴボゴボと溢れる泡。それら全てが美しい。僕はそれを口内に取り込んだ。ビールはひどくうまかった。うまい。ビールはあっという間になくなった。飲んでないのに。僕は再び冷蔵庫を漁った。腕は勝手に動いていた。隅々まで見たが冷蔵庫の中にもうビールはなかった。使えないと思った。冷蔵庫の中身は全てダイニングテーブルに出されていた。足は冷蔵庫を思い切り蹴る。ここら辺で僕はとても笑えてきた。そうだ。お前らは悪いやつだ。どいつもこいつも。僕の足はずっと冷蔵庫を蹴り続ける。可笑しかった。これは制裁なのだ。僕は違反者に制裁を加えている。僕の足はずっと冷蔵庫を蹴り続ける。げらげらげら。



 間



 全身の高揚感はもう消えていた。炙りの量が足りなかったか、身体が慣れ始めたか、または両方だ。この部屋に停滞した空気は実に重苦しい。僕はダイニングテーブルに出された牛乳を、パックごと口につけゴクゴクと飲み干す。換気扇の音は人の話し声で、カーテンからは人が出た。足音は常に僕の周りを回った。
 今日は大学の授業がある。僕は洗面所に行った。歯磨き粉のチューブを手に取る。僕は鏡に映った自分を見た。彼は骨張った手でチューブを握りしめ、歯磨き粉をもぐもぐと食べていた。彼の目は、救命ボートの上から沈んで行く船を眺めるようだった。いや、逆かもしれない。
今の僕は無価値だ。
初めて吸った一回目。あれが人生で一番、一番最良のときだった。あの瞬間をもう一度。

 吸いたい。

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