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SNS時代における「どくさいスイッチ」についての考察

ドラえもんの有名なエピソードで「どくさいスイッチ」というのがある。
SNS時代に可能になった「どくさいスイッチ」的な人間関係のあり方を考察してみる。

「どくさいスイッチ」とは?


ドラえもんの「どくさいスイッチ」のエピソードは、とても印象的なので知っている人も多いだろう。

安曇野市の中学校の道徳の授業でも使われたと聞く。

ドラえもんのひみつ道具の「どくさいスイッチ」を消したい人の名前を呼びながら押すと、その人は消えてしまう。
それどころか消された人間はこの世界に最初からいないことになってしまう。

ネタバレになるが、エピソードの詳細はこちら

味わい深い結末であるのでぜひご一読を。

関係を一方的にシャットアウト?


さて実際の人間関係において、この「どくさいスイッチ」的なパターンになってしまう人がいる。

もちろん現実は相手をいなかったことには出来ないわけだが、自分の都合の悪いもの、見たくないものはなかったことにするという態度であり、こころを守る無意識の働き(防衛機制)で、精神医学や心理学の用語では「否認」というものの一部であろう。

特にSNSではブロックという仕組みで「どくさいスイッチ」のようなことが簡単に実現できてしまう。


絶対に傷つきたくない人たち

よくある典型例を示す。
相手を一方的に理想化し、依存し、SNSなどでも、そんなに深い関係でないうちから個人的な相談などをどんどんもちかけてくる人に当惑した経験はないだろうか。
なんとかしてあげようという善意で良かれと思って応えているとさらにエスカレートしてくる。

そして相手がしんどくなって応えられなくなり、自分の思ったように振る舞ってくれないと、一転して相手をこき下ろし、責め、追い詰める。

相手はもう対話は無理だと離れていこうとするが、今度は一転、見捨てられる不安をいだき、自傷行為や脅し、逆にまた言い寄ったりして罪悪感を感じさせるなど揺さぶりをかける。

そうして離れていこうとする相手の言動に対して、今度は責められた、否定された、軽んじられたと勝手に傷つき、相手が離れていって傷つくくらいならと自分から関係性をシャットアウトしてしまう。

こういった一方的な関係のシャットアウトの先には自傷や自殺まであるからオソロシイのである。

そうなってくると、相手にもなんとも後味が悪い思いを残す。

さらに、あちこちで自分はこんなひどい目にあったと他の人に吹聴しまくり、相手を孤立化させることもある。周囲の人がそれに巻き込まれると、既存の人間関係の集団も敵と味方に別れかき回したりハチャメチャになることもある。

しかし、実は自分で何をしたいかということが自分でもわかっておらずからっぽで、本人も空しさを感じているが、こういうタイプの人に巻き込まれ、散々な思いをした人も多いとおもわれる。

こういうタイプの人をサークルクラッシャー、ボーダーラインパーソナリティディスオーダーなどといわれたりする。

社会のスパイス的存在であるともいえるけど、本人も周りも大変である。

次の記事はこういった方の行動の具体的な例がたくさん挙げられており非常に参考になる。

相手がこういうタイプだった場合


さて、相手がこういうタイプの人でストーカーのように一方的に粘着されるなど自分の生活や財産などの権利が侵害されるような場合は速やかに相手からほどほどの距離をとることが最良である。

彼らは自分が傷つかないためには、何でもする、相手を傷つけることも厭わないのでうかうかすると火傷をする。

人間関係でトラブルがあったり巻き込まれてしまってストレスを感じる時にはまずは相手とそっと距離をおいて、冷静に関係性を見つめ直すのがいい。

疲れたときは、自分からそう申し出て引きこもるのもいいだろう。
気づいていない場合もある。

あまり振り回されてくれないと感じると、そういう人は離れていき、自分に振り回されてくれる他の人のところに移っていくだろう。

自分に余裕があれば一線をひいて付き合い続けられる距離をたもちながら付き合いつづけるのがいい。
そのうち落ち着くかもしれない。

相手と自分との境界線のことを「バウンダリー」という。
その際、このバウンダリーを意識して付き合うことが大事である。
特に支援の専門職はこのバウンダリーを意識するというのは必須のスキルである。

自分がそういうタイプかもしれないときには?

一方、相対的なものではあるが、相手の言動にたいして、自分がささいなことで自分を否定されたと感じ、被害的にとらえ、常に相手のせいにしてしまうパターンにはなっていないだろうかということにも注意が必要である。

相手が思い通りにならないと相手が愛想をつかして離れていくように仕向け、相手のせいにしてしまうというパターンになっている場合もある。

そうして傷つくことを避けて何でも他人のせいにして片付けるというパターンだけになってしまうと、自分の認知や行動を見直して人間関係の試行錯誤して成長するチャンスをみすみす失ってしまうというリスクがある。

これはモッタイナイことである。

もっとも、こういったパターンをずっとつづけることは実際に顔を合わす家族や、近所付き合い、職場の同僚などの人間関係ではなかなか難しい。
いづれ行き詰まる。

自分からパターンを変えたいと思うようになれば、信頼できる友人やカウンセラー、主治医などに相談しつつ、自分の認知のクセや、対人関係のパターンを指摘してもらい、変えていけることができる。

SNS時代では比較的簡単かもしれない


しかし、現代社会においては、環境的に、あるいは能力的に、モラトリアム期間が長くとれる状況だったり、さまざまな場を求めやすい都会での生活だったり、顔を合わさなくてもインターネットを通じて人間関係がつくれるSNSがある。

こういう環境だと気軽にブロックすることも簡単で取り巻く人間関係を常に変えながら自分を傷つくことを避けつつ「どくさいスイッチ」を使い続けることができてしまう。

自分にあった場所をもとめつづける青い鳥症候群や、転職や再婚を繰り返すこと、主治医を転々とするドクターショッピングも似たようなメカニズムが働いているかもしれない。

特にSNSではブロックやミュートし、他の人や場所で「その相手にこんなひどいことをされた」と吹聴して、自分は悪くないんだとスッキリすることができる。

その人にそれなりの能力やお金や権力があったり、一見魅力的だったらまた巻き込まれてくるひとは見つけられるため、自分は傷つくことなくこういったパターンを長く続けることができる。
ある人との人間関係が破綻したら他の人と、あるグループでの関係が破綻したら他のグループにと焼畑農業的に移動することができる。

プライドだけでいきており、自分というものがないチヤホヤされて勘違いしやすい政治家や医者なんかにも多いかもしれない。
そして勘違いをつづけた究極の姿が、日本で一番偉いと自分ではおもっているであろうあの人である。

権力者に「どくさいスイッチ」は特に危険


これでおわかりのように、特に厄介なのが、権力を持ってしまった人が「どくさいスイッチ」的な態度を取る場合である。

どくさいスイッチを使い続けていると、本人にたかることで何らかのメリットを得られる人しかのこらなくなる。そして相手にとってメリットが何もなくなったときに本人は捨てられ一人になってしまうだろう。

それがくるしければ刃は世界全体か自分に向く。
ナチスドイツのヒトラーの言動などは今みると喜劇であるが、当時のドイツ人は熱狂し、多くの人達を傷つけ、そして自分たちも深く傷ついた。

今も自分はこの国で一番えらいと思っている連中などは、すでに茶坊主に囲まれた裸の王様状態で、まさにこのパターンのように思える。
独裁者の末路はたいてい悲惨であることを知っているのだろうか?
歴史に学ばない人が権力を持ってしまうというのは本人にとっても国民にとっても悲しいことである。

こういう独裁者は、プライドで生きており、常に人と比べて傷ついてしまうタイプの人で、公という観念や、自分軸が未熟なのであろう。きっとずっと周りと比べられ、否定され続けてきた体験が強く、強烈なコンプレックスとプライドが裏腹なのだろうと同情はする。

しかしそういう人に権力を預けてしまって困るのは周りの人である。

こういう相手と対峙するときはきちんと言動を監視し共有し、一方的に関係を断ち切れないように法律などのルールをつくり、守らせ、契約書や記録などの文章できちんと残すことだったりする。だからやましい権力者は記録の改ざんに手を染める。こうなるともう末期症状である。

政治家などに「どくさいスイッチ」を使わせないため、言動をしっかり記録に残し伝える官僚やメディアの役割は大きい。

米トランプ大統領などは、Twitterユーザーをブロックすることが合衆国憲法修正第1条に抵触するとの裁判所からの判断を下されている。

庶民は逃げる権利、忘れられる権利も必要

SNSでは個人の言動の痕跡として残るため、他の人や他のグループで吹聴しているのが目に入ったり、周りの人どおしが情報交換してつながると、そのパターンは露呈する。結果として、あきれて周囲の人が離れていってしまい、結局自分が損することになる。

中国などですべての経済的な行動のログから信用ポイントを算定するというようなテクノロジーも使われ始めているらしい。
便利かもしれないが、権力を握る人ではなく庶民が監視され、記録が残りリセットできない、改ざんもされてしまうかもしれないというのはオソロシイ。
ネット上に様々な個人の過去の記録が本人の意図とは別にいつまでも残るのもマズいんじゃないかということは「忘れられる権利」として議論されているものである。これはいづれ、別項でまとめてみたい。

権力者は市民からの監視から自由であり、市民が監視されているという状態は自由と民主主義とは逆の動きである。看守が囚人の動きはすべて見えているが、逆は見えないという監獄の構造をパノプティコンというが、社会全体がパノプティコン社会になってしまう。

民主主義社会において目指すべきは逆パノプティコンである。

「どくさいスイッチ」的なパターンから脱するためには


要はバランスなのであるが、人間関係で少々しんどいと思っても、常にシャットアウトした上で悪口を吹聴するのは得策ではない。

「どくさいスイッチ」的な人間関係のパターンから脱したければ、できれば自分をちやほやしてくれるひととの一対一の関係ではなく多人数の場で、対話を繰り返し成功体験をつむことである。

また相手を責めるのではなく、自分の体験や気持ちを言語化して相手に伝えるのもいい。距離を取りつつ、複数の色んなタイプの人に愚痴りつつ状況や自分の気持ち、対人関係のパターンを振り返ってみるのもいいだろう。

対話というものは、つづけていると必ず双方に成長と変化がおこすものである。どちらかだけが変化するということはありえない。

一方的に対話をシャットアウトすることは、自分の成長をとめ、いづれ孤立してしまう。そういった人を過去に何人も見てきた。
SNSでもブロックは程々に。自分の対人関係のパターンを振り返ってみることをおすすめする。

「どくさいスイッチ」はやはり危険な道具だ。

こんな奥の深い話を子どものマンガで描いた藤子・F・不二雄先生やはりすごいなあ。


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