見出し画像

言葉と共に生きる。

昔、こんな喩えを言われた事がある。

「相手に言われた言葉の受け止め方には3つの捉え方がある。1つ目は流れゆく川に書き留める方法。書いたその言葉は、一瞬で川下へとサラサラ流れていってしまい、気が付いたら、言われたことすら本人は忘れている。

2つ目は、砂に書きこむ方法。書いたその言葉は2,3日はその砂上に残っているが、そのうち吹いた風が、その言葉ごと吹き飛ばしてしまう。

そして3つ目は岩に直接彫る方法。その言葉は千年経っても、二千年経ってもいつまでも消えずに残り続ける。

あなたの受け止め方はこの三番目なんじゃないかな。案外人は、自分の言った事は憶えていないものだよ。いつまでも真面目に受け止めずにサラサラと聞き流していかないと。」

その時私はこう思った。

そんなこと、出来るわけないじゃないか。


私は、人から言われたことを聞き流すことがひどく苦手だ。


特に昔は唯の一度でさえ、気になることを言われたりするといつまでもいつまでも自分の中で抱えて掘り下げて、考えてもどうしようもないことを何度も神経を使って考えてしまい、その度に無駄に落ち込んだりしてエネルギーを消耗していた。


「まぁ、仕方ないよ。思春期だもん。」


それが悩みだと告げると、世の大人達は最後には決まってそうやってまとめ、簡単に片付けてしまった。

だけど、そう言われる度に私は何だか心のモヤが晴れず、納得がいかなかった。


だって、自分と同い歳である所謂「思春期」で括られる筈の周りの人たちは、決して私のような捉え方をする人間ばかりでも無かったから。


とは言っても勿論、私のように気にし過ぎてしまう人もいたが、それと同じくらいにちゃんとサラサラと聞き流すことが出来る人間も存在していた。

そしてそれは年齢を重ねる度に、苦い罪悪感へと変質していき、

「こういう風に考えてしまう事は良くない。ネチネチといつまでも執着しているようで恥ずかしい。変えるべきだ」

と思うようになっていった。


でも、今なら自分なりにいろいろと体験した上で1つ言える事がある。

それは、あくまでも主観であるが私が思うに世の中にはきっと雑に大きく振分けるのなら、2種類の人間が存在していて、思考を練って自分の中で深く掘り下げていき、考えを深めていくことが得意である内観的なタイプと、もとから内を深く見つめたりする、という事よりも常に外を見るのが得意なある種、世渡り上手とも言えるタイプの人間がいると思う。

だけどそれはどちらが正しいとかでは決してなく、お互いがお互い持っていない宝を元から持っている、ただそれだけの話だと思う。


しかし、元から世渡り上手である人間に

「そんな事いつまでぐちゃぐちゃと考えているんだ?もう気にするなよ!」


と無責任にアドバイスされた所で、それは受け止め方の違いを全くもって配慮せず、自分の考えを押し付けている様なものだから、言葉を変えれば思考の押しつけの暴力とさえ言えてしまうだろう。

だから、ここで私(恐らく内観的な部分に接している面積が多いであろうタイプ)が気付いたほんの一例をあげようと思う。

それは、家族と何気ない話しをしていた時の話だ。


「そう言えばあの時、お姉ちゃん〇〇って言ってきたよね」


その〇〇の中の内容は忘れてしまったけれど、心に残り続けていたのだから、きっと自分の中でしこりとなっていた言葉だったのだと思う。


すると、その言葉を放ったであろう、当の本人の姉はまるで心当たりが無い、と言ったように実にケロッとした顔で

「えー?そうだっけ??忘れちゃったー」

と言ったのだった。それを聞いた私は、本当に天地がひっくり返るぐらい驚いてしまった。


だって今まで散々心にこびり付いていた「言葉の呪い」の数々は、確かにきっかけは他人が仕向けた毒だったのかもしれないけれど、結局それを大切に今日まで温め、繰り返し繰り返し復唱し、呪いをかけていたのは結局紛れもない、自分自身だったのだから。

そして、その時私はこんな気付きを得た。

他人の何気ない一言が心に突き刺さり、何年も刺さったまま取れない時があるかもしれない。

しかし、その言葉を放った人は、たまたま体調が悪かったのかもしれない。疲れが溜まっていて、イライラしていたのかもしれない。もしかしたら、まったく悪意が無い本当に何気ない一言だった可能性だって有る。たとえその言葉に悪意があったとしても、その時のほんの一瞬の心の曇りや、出来心だったのかもしれない。

最初からその言葉の断片だけを拾い上げ、完全なる主観で一部ばかり見詰めていただけで、考えてみれば実にたくさんの可能性が無限に広がっていたのだった。

自分が全くもって完璧ではないように、他の人だって完璧ではない。

それなのに他の人に自分が定める、揺るぎない「完璧」を求め、それとは違った言葉を投げられたからと言って嘆き悲しみ、いつまでもいつまでもその言葉を抱え込んで、恨みがましく思い続けるのはもしかしたら悪なのではないか、そんな風にも思った。


確かに自分は、物事をゆっくり掘り下げ、慎重に考えを深めていくのが得意であるし、好きだとも思う。

しかし、他の人の言葉を寛容に許してあげるのもまた、愛なのかもしれない。


私はこの体験は決して無駄ではないと思っている。


確かに、この考えに行き着くまでは長い時間を費したと思うし、そんなに時間をかけなくとも最初から受け流すことが出来る器用な人間だって存在する筈だ。


しかし、この結論をゆっくりと追求していけたのはこの性格のお陰でもあるし、年月を費やして深めた考え方は、元から備わっていた人よりもきっと奥が深い筈だし、これからの人生を輝かしていくかけがえのない心の財産になる筈であるからだ。

また今まで自分の誤った考え方で心の中で傷付けたかもしれない人の数よりも、もっと多くの人をこれからは大切にできる筈だと私は思う。


私と似た気質を持つ人はその真面目さ故えに、心に刺さった言葉を深く、堅く捉え、夜も眠れない程に抱え込んでしまうこともあるかもしれない。

そしてそれは、全く別の気質の人の目には時にもどかしく映ってしまい、無責任に指摘してきたりして、自分の性格が非常に陰湿に感じ、目を背け否定し、蓋をしたくなる時もあると思う。


 しかしどうか、そんな時こそ許すこともまた愛、という事を思い出し、他人の不完全ささえ、心を寛容にし許してあげて欲しい。


誰かが吐いた毒を、こうやって受け流す努力をする人がいて初めて世の中は正常に成り立っているのかもしれない。


一見損な役割にさえ見えてしまうこの性格を、私は醜いとは思わないし、むしろ誰よりも本物の優しさを掴むことが出来る、趣深い素敵な性格だとさえ思う。

人として生きる、ということはきっと、言葉と共に生きる、ということなのだろう。

これかはもたくさんの言葉と日々の中で、少しずつ誰かを許し、優しくなれていけたらいいな、と私は思う。






この記事が参加している募集

自己紹介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?