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2022第1回羽黒山歴史探訪を開催しました③

 2022年10月8日(土)に、講師に出羽三山歴史博物館学芸員の渡部幸さんをお招きし、第1回羽黒山歴史探訪を開催いたしました。
 今回のテーマは「羽黒山と庄内藩の増川山境界をたずねる」。渡部幸さんによる案内のもと、羽黒山の五水八石のひとつである「船石」(ふないし)「金剛石」(こんごういし)といった、かつて庄内藩との境界を表していた史跡を訪ねます。さらに手向宿坊街を探索し、隠れた史跡を訪ね、昼食は羽黒山斎館にて精進料理をいただきます。当日は約10人でバスに乗っていでは文化記念館を出発しました。

第1回歴史探訪③

天宥社

天宥を祀った天宥社
天宥の遠島について渡部幸さんが解説していただきました。

 宝前院天宥(ほうぜんいん・てんゆう)は羽黒山第50代別当です。庄内の領主が最上家から酒井家に代わったことが影響して、民たちの生活の一つにもなっていた羽黒山への貢物が数年間途絶えることなどがあり、民たちは苦しい思いを強いられました。それを経験したため、彼は庄内の領主が変わっても大きな影響を受けないように藩の支配から独立しようと動いていました。そのために様々な整備を行い、羽黒山を繁栄させていきましたが、その過程で様々な境界争いや幕府・朝廷とのやり取り、跡継ぎの問題などが起こり、羽黒の衆徒の不満が溜まっていきます。ついに羽黒の衆徒の裏切りとそれを手伝った庄内藩の力によって、寛文8年(1668年)、伊豆新島(現在の東京都新島)へ遠島(島流し)となります。天宥は余生を新島で過ごし、民に学問などを教え、新島に経済・文化的な発展をもたらしましたが、羽黒山には帰ることができませんでした。
 この天宥の遠島ですが、なんと昭和に入るまで新島ではなく大島だと考えられていました。それも歴史書には天宥は伊豆大島へ遠流と記載*¹ されていたためです。実際には天宥の墓は、伊豆新島にあります(注1)。

開山廟

かつて「照見大菩薩」と彫られていた開山廟。
初代宮司の西川須賀雄によって、神代文字で「はちこのみこと」と書き換えられました。

 三神合祭殿から斎館側へ抜ける道の間に、神代文字が刻まれた開山廟があります。 
 第75代羽黒山別当の覚諄は、出羽三山の開祖である能除(のうじょ)を蜂子皇子(注2)とみなし、菩薩号を申請したところ、能除に対し「照見大菩薩」(注3) の名が認められました。この大変名誉なことがあり、開祖が亡くなったとされる皇野(すべの)に向けて、「照見大菩薩」(しょうけんだいぼさつ)と彫られた開山廟を建てました。
 しかしながら、神仏分離の際に寺院の取り潰しを進めた出羽神社(現在の出羽三山神社)初代宮司の西川須賀雄(にしかわすがお)は、開山廟に刻まれた「南無開山照見大菩薩」を神代文字で蜂子皇子を意味する「はちこのみこと」に書き換えました。(注4)

精進料理

羽黒山斎館での精進料理
※精進料理のお食事は予約が必要です。

 さて、歴史探訪も佳境。最後は斎館にて精進料理をいただきます。今回は舞茸や茄子、からとり芋や菊、なめこやアケビ、ミョウガなど様々な秋の味覚が勢ぞろいしました。大変おいしくいただきました。
 精進料理は食べる人のことを考え、手間や工夫を惜しまずに作られています。そのため精進料理を提供する宿坊や館でもそれぞれ味や舌触りなどが違うのです。羽黒山の手向(とうげ)には宿坊街がありますので、様々な宿坊や館で食事をしてみるのも良いかもしれませんね。

まとめ

 いでは文化記念館に戻り、渡部幸さんが資料に沿って、歴史探訪で訪れた場所についての振り返りの解説がありました。渡部幸さんは、庄内藩との境界争いの裏にはどんな時期にどんな行動があったのか、どのような意図で行ったのか、湯殿山の「語られぬ」の政治的理由などを語ってくださいました。歴史探訪ではなかなか普通に暮らしていても行くことができない場所に出向くため、参加者の皆さんだけでなく我々学芸員も大変勉強になった一日でした。
 3回に分けて歴史探訪の内容に軽く触れてきましたが、記事で紹介した場所以外にも渡部幸さんからたくさん解説をしていただきました。もっと羽黒山を知りたいという方はぜひ下記の第2回に参加してみてはいかがでしょうか?

脚注と参考文献

脚注

注1 大島で天宥の墓を探索するものの見つからないまま、幾度の調査によって大正15年(1926年)に天宥の墓が新島で発見された。昭和13年(1938年)に出羽三山神社・遠山正雄宮司によって祓川(はらいがわ)の自然石を新島に運び墓碑を建立した。

注2 蜂子皇子(はちこのおうじ):崇峻(すしゅん)天皇の子とされる。崇峻天皇は蘇我馬子(そがのうまこ)に暗殺される。おばに推古天皇、従弟に聖徳太子(厩戸皇子)がいる。

注3 天宥別当の時代に成立した『羽黒山中興覚書』 には、開祖の名前として「蜂子皇子」とはない。その後時は流れ、覚諄別当は能除と蜂子皇子を同一視していた。菩薩号の宣下の申請を行うものの、朝廷は「能除」に対して菩薩号を宣下した。

注4 神仏分離の際であり、神仏混淆(しんぶつこんこう)だった羽黒山寂光寺が廃され出羽神社になったため、能除に送られた菩薩号は政府へ返上した。その代わり、西川宮司は能除を蜂子皇子として複号をすることを許され、現在は能除=蜂子皇子という考え方が浸透している。

参考文献

*¹ 『羽黒山中興覚書』,経堂院精海 著, 戸川安章 校註,1941
 『出羽三山史』,阿部正己, 1941
 『酒井家世記』, 1683

第2回羽黒山歴史探訪開催詳細

第2回 「羽黒手向地区の史跡と寺社をたずねる」
手向地区自治振興会会長の勝木正人氏による案内のもと、
羽黒山の寺院である金剛樹院や正善院をはじめ、赤坂薬師神社や旧蓮台寺いった、古くからの歴史を残している寺社を廻り、蝦夷館公園からの古道を訪ねて、なかなか行くことがない隠れた史跡を訪ねます。
昼食は宿坊・宮田坊にて精進料理をいただきます。

🏔開催日時:11月3日(木・祝) 9:00~13:00
🏔講師:勝木正人 氏 (手向地区自治振興会会長・光林坊)
🏔場所:羽黒山手向周辺 史跡・寺社
🏔集合:当日8:45 いでは文化記念館
🏔受付時間:当日8:45~9:00 下記参加費を持参ください。
🏔参加費:2040円 (昼食代・拝観料)
🏔募集人数:15名 (※定員になり次第受付終了となります。)
🏔持ち物:雨具、筆記用具、飲み物
 ※雨天決行です。歩きやすい服装でお越しください。
🏔コース:いでは文化記念館 集合 ⇒蝦夷館公園⇒ 赤坂薬師神社
     ⇒ 旧蓮台寺・地蔵堂 ⇒ 金剛樹院 庭園 ⇒ 的場小路
     ⇒ 正善院黄金堂 ⇒ 羽黒山 斎館 ⇒ いでは文化記念館 解散
🏔申し込み締め切り:10月31日(月)
※当日のキャンセル料は100%です。
※今年度最後の歴史探訪となります。

●注意事項●
・雨具など、天候や季節にあった装備でお越しください。
・天候や主催者の都合により、予告なくコースを変更・中止することがあります。ご了承ください。
・受付時間・出発時間を過ぎた場合は参加できません。
・交通マナーや歩行マナーを守って楽しく歩きましょう。

★申し込み方法★
申し込みされる方は、羽黒町観光協会(いでは文化記念館内)まで、
電話・メール・FAXにて、お名前・住所・電話番号・参加される回をお申し出ください。いずれかの回のみの参加も可能です。

◆申し込み・お問い合わせ先◆
羽黒町観光協会(いでは文化記念館内)
〒997-0211 山形県鶴岡市羽黒町手向字院主南72
TEL:0235-62-4727  FAX:0235-62-4729
Mail:hagurokanko@bz04.plala.or.jp